まずは何より、遅配に関して謝罪させていただきます。我がビュロー菊地チャンネルの「ビュロ菊だより」、毎週水曜に全コンテンツ完全配送を謳ってきたのですが、代表者/筆者であるワタシの都合(ちゅうか体調です・涙)により、今週号コンテンツが最大で4日遅配という失態を犯してしまいました(関係者全員による4時間に及ぶ土下座)。申し訳ありませんでした。
今後はこういった事のなきよう、もし万が一あっても、月内に週回分の連載量は必ずクリアするように致しますので、今後ともご愛顧ヨロシクお願いします(そのまま更に10時間に及ぶ土下座←その間に書けば良いじゃん)。
とさて、そういった意味で二重に大変長らくお待たせ致しておりました菊地成孔の映画批評連載、題しまして「TSUTAYAをやっつけろ~日額15円の二本立て批評」の第一回をお届けしたいと思います。
とその前にプチ宣伝。プレ第一回で採り上げた『次の朝は他人』(ホン・サンス監督)が、いよいよ封切り間近となりましたので、是非ご覧くださった上で、前回をお読み直し下さい。「あ、観たら書いてあることわかったわ」と思われるはずですので。観てから読んでからのが面白い!
と、それではどうぞ。
<大人はわかってくれない/フランス映画『死刑台のエレベーター』と日本映画『死刑台のエレベーター』>
まずは、ワタシが08年に書いたDVD版『死刑台のエレベーター』の解説をお読みください。
この作品は長らくDVD化されておらず、この時点では「遂に」という勢いで書かれていることがわかります。
この文章は後に。ワタシの映画本である『ユングのサウンドトラック』(前回参照)に収録されましたが、ここに再録させていただきました。再録に際して、今回の連載の趣旨に適格化させるために、大幅な加筆修正を施しています。
業界ルーティンですと、まだDVD版が絶版になっていないので、ライナーの転載はNGなのですが、今回特別にOKを頂きました。
というのも、これはまったく企まざるシンクロニシティの類いなのですが、何とですね『死刑台のエレベーター(一応念のため、フランス版です)』今月末にBlu-ray版が発売されるのです(「オマエ完全タイアップだろうよバレバレー」と言われそうですが、天地神明に誓って違うのです。ワタシもビックリしたんですよ。また書かせろよライナー!つか、こっちが話持ってかなかったらシカトかよー!と思うほどのタイミングだったんですね・笑)。
なので、プチ宣伝に続いて、けっこうでっかい宣伝となってしまいますが、こういうことを黙って進めるとステルスマーケットだという誹りを受けかねない潤いのない世の中ですので(笑)、前のめりにどーんと書いてしまうことにしました。
<レッツ宣伝ターイム(昭和風)>
*担当者様からのメールより。
(前略)
今回の『死刑台のエレベーター』Blu-rayは、録音エンジニアのオノ・セイゲン氏にBlu-rayのために本編音声を調整いただいています。
映画ソフトにマスタリング・エンジニアが入るのは業界初で、マイルスのトランペットをはじめ、本編音声がより艷やかになりました。菊地さんにご興味持っていただければ幸いです。
下記、商品情報になります。
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ルイ・マル監督生誕80周年記念
奇跡の監督デビュー作が、待望の初Blu-ray化!
商品名:「死刑台のエレベーター」Blu-ray
発売日:2012年11月22日(木)
価格:¥5,040(税込)
発売元:IMAGICA TV 販売元:角川書店
http://cinefil-imagica.com/bd/
●本編音声を世界的エンジニア、オノ・セイゲンがマスタリング
●コレクションするにふさわしい特製透明ケース採用
●特製ブックレット封入(表紙はイラストレータ100%ORANGE)
●オープニングのロゴ映像は、100%ORANGEによる特製アニメ
<オノ・セイゲン>
録音エンジニア、マスタリング・エンジニアとして坂本龍一、マイルス・デイヴィス等の作品を手がけるほか、ミュージシャンとしても海外のジャズ・フェスに出演。本作が第一弾作品となる「シネフィル・ブルーレイ・レーベル」では、BDでの視聴時に最高の音が再生されるよう、映画の音のリマスタリングに挑む。
* * * * *
と、どうでしょうかコレ。ヤバくないですかコレ? ワタシも絶対買いますコレ。え?貰えるだろうって? いやいやいや、貰えても買います。
と、プチ宣伝タム、普通の宣伝タイムが終わりまして、更に強力な宣伝タイムが始まるわけですが(笑)。以下、冒頭でご紹介した08年DVD版の解説です。自分で言うのが口惜しゅうて口惜しゅうてならないのですが、初出、ならびに『ユングのサウンドトラック』収録版よりも、以下の版が遥かによく書けています。
* * * * *
欧州に死刑があった時代のクール&スタイリッシュ
――21世紀の若者への『死刑台のエレベーター』
この、別格にクールでスタイリッシュな、映画史上のいくつかの起点をも内包する傑作は誰のものか? 映画のものなのか? ジャズのものなのか? モードのものなのか? そんなもん映画に決まっているだろう、これは映画だと安心して嘲笑できるシネフィルは数少ないはずだ。
少なくともに2008年まで(*初出時)の、あらゆるソフト化の状況に還元する限りにおいて、1957年に製作されたこの作品は、DVDよりもVHSよりも遥かにCD作品である。この作品に触れ、ことの次第を知ろうとした場合、ほとんどの日本人は、マイルス・デイヴィスのOSTとそのライナーをまず経験する。という状態が長く続いていた。
それにより、ルイ・デリュック賞が如何なる賞であるか知らずとも、この作品のサウンドトラックの、伝説的な録音経緯(「この映画のためだけにパリに招かれたマイルス」が「何の準備もなく、編集済みのこの作品を観ながら」「一発の即興セッションで総て仕上げた」)の90パーセントが事実ではないことを知ることができたし、ヌーヴェルヴァーグという運動についてまったく興味がなかろうと、<全ての関係者を引き合わせることになった音楽プロデューサー、マルセル・ロマノーが、この映画の企画以前に、マイルスのフランス向けのプロモーション映画(ドキュメント)を計画しており、それの頓挫と引き換えに本作の企画が進められた>というジャズ史上のトリビアをも知ることができた。
そして、そのどちらも――恐らく、魔術師マイルスの永遠の若さによって――とても半世紀以上前の出来事(それは、端的に言ってフランスでまだ死刑が執行されていた時代である)とは思えない生々しさで迫ってくる。にも関わらず、世界中のマイルス研究家たちは、『死刑台のエレベーター』の主要キャスト、基本的なストーリーラインすら諳んじることはできないままでいたように思う。
この、まるで当たり前のこととして処理されてしまいそうになる不全のようなものは、どういう理由によるものだろうか? 音楽ソフト業界と映像ソフト業界に何らかの違いがあるのだろうか? 音楽史におけるマイルスと、映画史におけるマル(や、推理小説史におけるカレフ、あるいはフランス俳優史におけるロネやモロー)に、何らかの大差が存在するのだろうか?
とてもそうは思えない。音楽だけがすばらしい映画も、映像だけがすばらしい映画も、原作や脚本だけがすばらしい映画も、俳優だけがすばらしい映画も掃いて捨てるほどある。しかし本作は、公開当時からそれらすべてががっぷり四つに組んだ(ノエル・カレフの原作は大分いじられているとしても、それは「サスペンス映画」史の常道とも言える)、斬新で完璧なアンサンブルを誇る、画期的な作品であると評され続けたし、こうして改めてDVD化された21世紀初頭の目から観ても、その事実はまったく書き換える必要がないように思える。しかし、である。
まずは、今回のDVD化を喜ぼう。そして、我々は今回、瑞々しく経験することになるだろう。この映画が、一種の、根本からのウソに貫かれていることを。古典的な作品が、錯視によって等身大の評価からかけ離れるということはよくある。しかし特にこの作品は、とても魅力的ではありながら、存在の隅々まで仕掛けられてしまった複数の誤謬の絡み合いによって、「固定された戸惑い」としか言いようのない、盤石な不安感を、長きにわたって映画史に与え続けたと僕は思う。
以下、それについて書く(中略)。50年以上の風化作用を経て改めて見てみると、実は非常に危なっかしく、荒削りの、若き『死刑台のエレベーター』が、現代の若者たちに何を訴えるのか、僕には非常に興味がある。
* * * *
50年前の映画(特にヌーヴェルヴァーグ)を観る。という行為がもたらすいくつかの結果の中でも、特にこの作品は「50年前のフランス人と、現在の日本人」という対比に関して「昔のフランス人はオトナだったなあ、今の日本人ガキっぽいこと」といった、あまりに単純な(だからこそ説得力のある)図式には決して収まりきれない。という結論を導くと予想される(そしてその感覚は21世紀を活性化させる可能性を持っているのだが、それは日仏版の見比べによってより明確になる)。
端的に言えば、この映画のあらゆるステージに貫かれているのは「大人っぽく振る舞う」という演舞性であり、そしてそれは演舞であるが故に、根本から細部まで、破綻が張り巡らされているのである。
冒頭に書いた「別格のクール&スタイリッシュ」こそが、この映画の肝であるという言説を、誰もが、半ば機械的なまでに信じたし、そして、信じながら漠然と疑ってきたのではないか。この映画の魅力の源泉は実はそこにある。もちろん、この映画は、現在の目で観直しても、痺れるほどにクールでスタイリッシュである。しかし、敢えて言うならば、それはカリカチュアライズされた、コスプレのクール&スタイリッシュである。完成された、真のクールとスタイルであるならば人をこれほど不安にさせないはずだ。その不安は、ストーリーによるものではない。
この映画が我々に与える底知れぬ不安は、半世紀の間、モーリス・ロネが強いられる閉所恐怖と高所恐怖(かの江戸川乱歩は、この映画はテクノロジーに支配された来るべき都市生活が被る、新しく無機的な拷問を描いている。と言った)と、完全犯罪の計画がみるみる破綻してゆくさま、つまり作劇上の意図によるものだと思われてきたし、愛と懐疑に引き裂かれながらパリの夜を彷徨うジャンヌ・モローの、情の深い演技の艶が、それを単なるサスペンスから愛の悲劇へと昇華させている。と絶賛されてきた。そして、弱冠25歳の俊英であるマルが、これほどの完成度を見せたことはスキャンダラスと言ってよいほどの扱いを受けてきた。
しかし、現在の目で観直すに、この映画の中で、もっとも安定しているのは(マルの実年齢にもっとも近い設定であろう)、サブキャラクターの、無軌道な若いカップルである。彼らの行動は(「アルジェリア後の欧州ユース式」とも言うべき)無軌道ではあるが、それは無軌道という一貫性に貫かれており、矛盾も混乱も一切ない。
に対して、モーリス・ロネ扮する「大尉」の行動の矛盾や混乱は複層的であり、ある意味、無軌道なカップルよりも愚かではないかとすら思える。
彼の行動だけ見ても、まず秘書の鉛筆削りが、よしんば日課や癖だとしても、犯行の要である実弾の発射音隠しに(ピストルに消音機は装着されていない)するのはあまりにリスキーすぎる(気まぐれな鉛筆削りにピッタリ併せて、別の部屋で実弾を発射できるだろうか? その根拠は「凄腕の軍人だったら」以上には書き込まれていない)。
また、これは彼自身の行動ではないが、上昇時に電源を切られたエレベーターが、電源を入れたら下降する。というのも、若干の疑問を残す(急激な下降シーンに、いきなり静止しているロネのショットがインサートされるという大ポカは「ザッツ・ヌーヴェルヴァーグ」だとしても)。
そして、そもそも証拠隠滅のために大変な苦労を強いられた彼が、翌朝、営業の再開と共にまずすることが、証拠の品(鉤つきのロープ)を取り戻すことではなく、恋人に会うべく車を探すことだというのは、いくら不倫愛に燃えた男の行動だとしても、お粗末すぎはしないだろうか。これは、キャラクター設定と演技プランが大人っぽいだけの、その実「まるで無軌道なガキ」のような行動としか思えない。
そしてそこは、問題の一端でしかない。この映画は我々の移入を宙吊りにして進むのである。
そもそも、落下傘部隊の名隊員、歴戦の勇士だった彼は、高所恐怖、閉所恐怖を始めとする、あらゆるトラブル対応力に長けたキャラクターであるはずだ。
つまり、この映画は、主人公が被るトラブルに対する主人公の強度(同時に弱度)の設定と描写が明確になされていない。「兵隊なんだから大丈夫なんだよな」と安心すべきなのか「あんな目に遭ったら死んじゃうよ」とサスペンスを感じるべきなのか、モーリス・ロネの「漠然と真剣な表情」という単調な演技に守られるようにして、主人公への移入の、根本的な不安定さにこの物語は貫かれている。この点が盲点化するのは、言うまでもなく、作劇上の肝である、実際の宙吊りの衝撃とすっかり交換され、隠蔽され切ってしまうからだ。
僕はこれがマルの見事な詐術であるとはまったく思わない。1957~8年という熱狂の中で、様々な不全や誤謬が振り返られることなく一直線に実行されたのである。一言で言えばパンキッシュなのである。
なので、モーリス・ロネがそもそもどんな奴なのか、映画の最後になっても、実のところあんまりよくわからない(有名な『鬼火』をはじめ、ロネはそういう役が得意、というか、そんなのばかりなのだが)。
完全犯罪を冷静に志向しながらにして、ひょんなきっかけで破綻していってしまう。という非常にわかりやすい設定の主人公にまったく移入できない。不倫愛に移入できないとか、次々の失錯に移入できないとかではなく、そもそもどんな奴なのか、どの程度の焦りや恐怖の度合いなのかに移入できない。
そんな奴が、とてつもない恐怖と不安に遭遇している。一種の不条理劇のようですらあり、しかしまったくそういう風には見えない。新鮮で知的で、非常に都会的に見えるのである。
それは、若きマルの、若きヌーヴェルヴァーグの不完全さという魅力である。この作品は、乱暴に言えばパンキッシュで、最初から脱構築的なゴダールと違って、一般的なサスペンスメロドラマの格好をしているだけに、よりパンキッシュであり、不安定が目立つ。錯綜した不安定美と言えるだろう。
停止したエレベーターは怖いわ、主人公がそれに対してどの程度の耐性があるか解らないわ、そもそもどんな奴なのか解らないわ、この映画が我々に与える不安は二重底、三重底なのである。
再びそして、それは、マイルス・デイヴィスの音楽とあまりに見事なほどのマリアージュを奏でている。
文字数と、専門度合い設定の関係から、マイルスのサウンドトラックが、如何に「不安定」であるかを詳細に論じることはできないが、マイルスの全活動に貫かれる「一見、完璧な名作。に見えるも、実は謎だらけで、聴きようによっては稚拙や手抜きにすら聴こえかねない不安定さ」や「大人っぽさと子供っぽさの見事で乱暴な調和」という特性は、アスリート的な評価軸の強いアメリカのジャズ界よりも、ヌーヴェルヴァーグという異質な環境の中でより明確になり、インターナショナルで超ジャズ級の魅力が見事に花開いたと言っても過言ではない。
たった4時間のスタジオセッションで2時間の劇映画のサントラがすべて録音された(この逸話は事実である)というのは奇跡とも言えるが、遊びとも手抜きとも言える。テイク数が少ないので、ギクシャクするシーンとぴったりくるシーンのギャップが大きい。
冒頭の、見栄切りのように見事なカマしと、中盤の名調子にヤラれてしまって気がつかないが、モーテルでのシャンパンパーティーのシーンなど、苦肉の策で、残りのトラックを貼り付けただけにしか見えない。一番有名なテーマ曲も、マイルスの先導に続いてバンドが入った瞬間ヒヤッとする。
匂い立つようなムードに続く、このギリギリの外れ感。「なんかここからちょっと、調子っ外れじゃない?」「雰囲気だけで適当にやってないか?」「いやあ、でも凄いわやっぱ。結果オーライだよね。天才だわ」といった懐疑と感嘆の往復こそがマイルスの本質であり、ここではまるで、マイルスこそがヌーヴェルヴァーグであるかの如きで、マルがマイルスにどの程度転移していたか、冷静な判断が下せないほどになっている。
(マイルス研究に重心が移るため中略)
名女優の名演技。にケチをつけ、先見の明を見せつけたのもマイルスだ。ジャンヌ・モローに対し「あいつはリズムよくクールに歩くということができない」と喝破したのは有名である。
顔と声、表情こそ日本人好みのモローだが、ハリウッド女優などに比べれば頭が大きく、頭身数が少ない(20世紀の日本人にとっての「フランス女優」の代表的なあり方だが)。頭部から肩にかけてのバランスの悪さをカヴァーする、凝ったデコルテの衣装で貫き、ここぞという時にはアップで決めるが、有名な彷徨いのシーンでの実像は、大人の女というより、金持ちの家の子供のようにヨチヨチのフラフラである。
表面の色香に騙されず、ウォーキングという身体原理の中に彼女の「幼さ/不格好さ」を見出したマイルスの卓見は、だから同属による卓見だと言えよう。レコーディングセッションにはモローも同席しており、残された二人の写真は、女優とジャズメンというより、中学校の(しかも、さほど仲が良いわけではない)同級生がふざけているようなものばかりだ。
と、ここまで読んで、まるで『死刑台のエレベーター』は詐欺か過大評価の果てである作品で、僕が過大評価による偶像を壊そうとでもしていると誤解する方も多いだろうが、既にご覧になったか、これからご覧になる方には、僕の言わんとすることがわかるはずだ。初見のあなたにも(の、ほうが)きっと。
この作品は、今から52年前に(注*既に56年前。になった)、25歳のフランス人監督が、31歳のジャズミュージシャンを起用し、29歳の女優を主演にした、クールでスタイリッシュな「大人ごっこ」の傑作である。公開当時から長きにわたり、それはごっこではなく真実だと思われてきた(少なくとも、ほとんどの日本人には)。まんまとやったわけだ。そして、この作品の本当の意義、「危険なまでにスタイリッシュな」というより「スタイリッシュということの危険さ」をたっぷり孕んだ、無軌道な輝きとその意義を等身大で味わうのに、今こそ絶好の時期だと言えるだろう。ため息が出るほどの大人ごっこ。中年が青春ばかりを描き、青年が幼児性を実行するばかりの現代に、死刑台のエレベーターとマイルスの旋律が、クールに下降してゆく。
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