捻くれ猫通信

ビスラジ 動画の脚本 プロト

2018/04/10 15:04 投稿

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どうも皆さまこんにわ!!
ビスマルクです
先日行われた秋イベント、レイテ沖海戦前段作戦はいかがだったでしょうか?
まさにレイテ沖海戦の名に恥じないビックイベントだったのではないでしょうか?

 今回のイベントの戦果をrukaさんの所のBismarck drewと話していたらこんな質問が来ました

レイテ沖海戦と言われ何を準備したら良いのか、誰を育てておけば良かったのか分からなかった
ということです

 確かに初心者の方や歴史に興味がなかったり、苦手な方は知らないですよね

と、言うわけで今回は冬イベの後段作戦に備えレイテ沖海戦とは何ぞや?

という所を勉強していきたいと思います

この動画は歴史を参考に構成されたエンターテイメント動画です

史実を考証する動画ではありません

Wikipedia読んだり本をあさって調べるのが苦手な人や歴史を知らない人向けにザックリとした内容になっています

 そして、UP主の個人的見解で作られていますので、本当に詳しく知りたい方は個人で調べて下さい

 内容には間違った部分が含まれているかもしれませんので予めご了承ください

以上が諸注意です


 まずはレイテ以前の話をしたいと思います


 江戸時代末期


 そのころ黒船が来航し日本に開国を迫ってきていました
幕府の弱腰の姿勢に人々は反感を覚え、海外と渡り合える新しい日本を目指し、尊王攘夷運動が起こりました
日本は幕府と討幕派の二つに分かれており、戦争に向けた準備が始まりました
それを見た諸外国はそれぞれの陣営に大砲や銃などの武器を売り、戦争で日本を疲弊させ植民地支配しようと考えていました

幕府は少し前に隣の中国でアヘン戦争が起き、アジア一の大国であった清が破れた事を知って、次は日本が狙われるのではないか?と諸外国の調査を始めます
そして、外国と日本の兵力差を目の当たりにした幕府は諸藩や幕府が一つにならなければ海外に飲み込まれてしまうと考え、
江戸城の無血開城、大政奉還を速やかに行い、諸外国に付け入る隙を与えずに日本を統一していくのでした

皆さんは坂本龍馬を知っていると思いますが、坂本龍馬はグラバー商会と交易をしていました

他にも生麦事件や四国艦隊砲撃事件などの経緯を経て、討幕派の薩摩藩や長州藩はイギリスなどから新知識や技術を積極的に導入し、
その関係は明治政府が設立されてからも続いていきます

明治時代になり日本は諸外国に負けないためにも富国強兵を目指します

四方を海に囲まれた島国である日本にとって海軍の設立は急務でした

そこで明治政府はイギリスから海軍の技術を導入することにしたのです

ちなみに今皆さんが食べているカレーは英国式のカレースープが元であり、それを日本海軍がレシピを知り、お米に合うようにとろみを付けたのが始まりと言われています。
だからカレーは横須賀が発祥の地と言われているんです
実は当時英国でカレーは高級料理で式典に出されていたりもしたそうです

海軍目線で見ればイギリスは師匠ですね(笑)

明治政府は近代化を急激に推し進め列強の仲間入りを目標にしました

壬午事変、甲申政変の後、日清戦争が起こり日本は格上である清に勝利し下関条約を認めさせ
、日本に自信をもたらしました

しかし、これを快く思わなかった露仏独の三国干渉により遼東半島を変換させられた日本は外国との不平等な関係に大きく不満を募らせました

この戦争で日本は結果として列強の国に近づき、不平等条約・・・治外法権の撤廃や関税自主権回復などに力を入れていきました


日清戦争は1882年明治27年のことであり、日本は新政府樹立から27年で・・・ちょんまげ付けて刀を振り回していた日本が僅か27年で列強の仲間入りを果たしたのです


さて、このころの日本海軍には戦艦などの艦を建造する技術力は無く、その殆どを海外から輸入していました

日本海軍は日清戦争の後、ロシア帝国に対抗するため「六六艦隊計画」を進めます

これは戦艦を6隻、装甲巡洋艦を6隻配備する計画でした

この計画で建造された最も有名な戦艦は今も横須賀にいる敷島型四番艦三笠です

三笠は計画によりイギリスのヴィッカース社(後のヴィッカース・アームストロング社)により建造されました

それでは「あらゆる意味で」日本の命運を分けた日露戦争について少し話そうと思います

当時ロシア帝国は清に圧力をかけ、遼東半島の旅順、大連を租借し南下政策を推し進めていきます

義和団事件の後、ロシアは満洲に軍隊を駐留させ利権を確保していきました

そんなロシア帝国に対抗すべく、当時世界第一位の大帝国であり「栄光ある孤立」を貫いていたイギリスが初めて同盟を結んだ相手が
新興国の日本であり、「日英同盟」なのです

見方によって日本はイギリスのロシアに対するいい手駒にされたようにも思えますが、
そんな思惑を差し引いてもイギリスは日本とかなり友好的だったのではないでしょうか


ここが日露戦争で意外と知られていないポイントなんですが

ロシアが南下政策を進める中、日本では非戦論が一般的でした


と、言うのも当時の日本の戦力では到底強大なロシア帝国に敵わないことが分かっていたからです

今の日本が一国でロシアに戦争吹っ掛けるのと同じくらい無謀です(笑)

そんな訳で日本は密書を送ったり会談を行うなどして外交努力によりロシアとの摩擦を避けようと努力しました
(今の日本に足りない粘り強い外交)


しかし、ロシアは強大な軍事力を背景にこれを無視し、遂には韓国まで軍を推し進めたことで開戦が不可避となり日露戦争が始まります


陸軍は遼東半島上陸後、旅順攻囲戦、奉天会戦と圧倒的物量で上回るロシア陸軍を辛うじて後退させることに成功し、
海軍は当時世界最強と言われたロシア帝国のバルチック艦隊を日本海海戦において東郷平八郎率いる旗艦三笠の連合艦隊が文字通り壊滅させ
ロシアの司令長官を捕虜にしました
これによりロシアは海軍の再編に50年近くかかりましたが
そんなロシアに対して日本帝国海軍の喪失艦は僅か水雷艇三隻でした

これにより日本はイギリス、アメリカに次ぐ世界三大海軍になったのです

この勝利によりアメリカの仲介で日本はロシアと講和交渉しポーツマス条約が結ばれました

アメリカはこの仲介で満洲などで権益を得ようとしましたが、日英露に逆に締め出され、結果として対日感情(国民よりも政治的な)が悪化していきました

当時諸外国にも恐れられていたロシアに勝利したことで、アメリカやイギリスなど他の列強諸国も日本に対する評価を高め
非白人国として唯一の列強国となり、後に五大国の一角となりました
特にイギリスは日本との友好を深め同盟を強化していきました


日露戦争終結後の翌年1906年に造船技術の歴史的革命・・・イギリスでドレットノート級戦艦が誕生しました!!
俗に言う弩級戦艦です

1900年ごろまでは主砲二基四門と両弦に副砲を並べまくるのが主流だったんですが(詳しくは戦艦三笠の写真をご覧ください)
副砲を装備せずに連装主砲を五基装備させることによって(詳しくは戦艦ドレットノートの写真をご覧ください)片弦火力が最大四基八門使用可能となり
「本艦1隻で従来艦2隻分」の戦力に相当し、
さらに艦橋に設置した射撃方位盤で統一して照準することで命中率が飛躍的に向上、長距離砲の命中率はそれ以上でした
また英国の従来の戦艦の速力がレシプロ機関で18ノット程度なのに対し蒸気タービン機関を装着していて21ノットの高速が出るようになり、
ここから大艦巨砲主義の時代へと移り変わっていきました


その四年後1910年、今までは30センチ砲が主流だったのに対し、イギリスで新しく34センチ砲を搭載したライオン級戦艦が登場し、
弩級戦艦を超える主砲の口径から、超弩級戦艦と呼ばれるようになりました

ちなみに戦艦ガングートは弩級戦艦で、超弩級戦艦の登場によりたった四年で旧式化しました(ソ連涙目)

さて、ガングートが旧式化したのと同じように三笠などの敷島型戦艦や鞍馬型巡洋戦艦、
日本で建造された最初で最後の弩級戦艦の河内型も旧式化してしまいました

そこで日本海軍は新しく戦艦8、装甲巡洋艦8の艦隊を作る構想を考えていました

これを「八八艦隊計画」と言います

そしてこの八八艦隊計画を進めるにあたり初めに建造されたのが4隻の装甲巡洋艦(一等巡洋艦)で伊号装甲巡洋艦と初めに名付けられ
その一番艦が超弩級戦艦として建造技術導入を兼ねて英国ヴィッカース社で建造されました

それが私、金剛でーす!!

ここから大正時代

その後二番艦「比叡」が横須賀海軍工廠、三番艦「榛名」が神戸川崎造船所、四番艦「霧島」が三菱長崎造船所で建造されましたが
この時初めて主力艦が民間で建造され、その技術がやがては戦艦大和に至るまでその全てに影響を与えていきました

戦艦金剛で培われた技術はその後日本で生まれた戦艦たちの母親の様な存在であるとも言えるのではないでしょうか

先程も説明した通り金剛型巡洋戦艦は初めは巡洋艦として建造された為、戦艦なのに旧国名ではなく山の名前がついているのです


金剛が竣工して間もなく第一次世界大戦が勃発しイギリスと日英同盟を結んでいた日本も連合国軍として参戦することとなり
新鋭艦である金剛型にも出撃命令が下りました

当時金剛型4隻から成る第三戦隊は世界最強とうたわれており、北海・地中海方面のドイツ海軍に手を焼いていたイギリス海軍からその一時貸与を申し入れられた程でした

そして第一次世界大戦中の1916年5月、海軍史上有名なユトランド沖海戦が起こり、これが巡洋戦艦たる金剛型のあり方を大きく変えることになりました

海戦自体は史上最大規模の砲撃戦であるにも拘らず、
ライオン級の3番艦「クイーン・メリー」がドイツ巡洋戦艦「デアフリンガー」からのたった2発の直撃弾によって轟沈させられたのです
その原因は水平防御力の不足であり、実はどの戦艦にも共通する弱点でした

各国はこのユトランド沖海戦を教訓に巡洋戦艦の防御力不足、戦艦の速度不足、戦艦・巡洋戦艦の水平防御の不足の三つの課題に立ち向かうこととなりました

金剛型は元々防御力が大きかったことと高速戦艦であったため(竣工時27.5ノット→改装後30ノット)水平防御強化に努めました
この時の改装が艦これの第一次改装・・・金剛改にあたります

金剛型が改装される少し前、第一次世界大戦終息後・・・超弩級戦艦登場以降から各国の戦艦建造競争が追い付き追い越せと始まりました
そしてあまりにも激化していく建造競争を抑えるため

1922年にワシントン海軍軍縮条約が締結されました(イギリス、アメリカ、日本、イタリア、フランス)
これは戦艦や空母などの主力艦の保有数を制限するものでした

その為建造中であった天城型巡洋戦艦の天城、赤城、改長門型の加賀型戦艦の加賀などが建造中止になり処分されることになるのです

しかし、この条約で決められた時日本には空母の保有数に余裕があったため建造中であった天城・赤城は空母へと改装されることになりました
ところが1922年に関東大震災が起き戦艦天城は建造中に大破してしまいその後解体されました
今でも戦艦天城の解体された一部が浮き桟橋の資材として利用され、現在も民間の造船所に現存しています

そこで急遽、魚雷の実験に使用される予定だった戦艦加賀が空母へと生まれ変わることになったのです


更に8年後の1930年になるとロンドン海軍軍縮条約が締結されました
この軍縮条約により金剛型の一隻を削除することになり、改装の一番遅れていた比叡が主砲など兵装の一部を下ろし訓練艦となりました
この時比叡の改装に使われる予定だったバルジや主砲などの装備は海軍が処分せずにこっそりと倉庫にしまっておき、第二次世界大戦で活躍するのでした
ちなみに比叡は第三次ソロモン海海戦後、自沈し海軍から除籍されるその日まで、正式な艦種類別は練習戦艦のままでした

軍縮条約により排水量と搭載砲が決められ、各国はその基準内での建造でしのぎを削っていきました
その中で日本は他国の条約型に対抗するために条約で定められている8インチ(20.3センチ)砲を装備した一方で
居住性を犠牲にし、その火力重視の設計は、英国の観艦式に参加した重巡洋艦足柄で「飢えた狼」や「我々は初めて軍艦(バトルシップ)を見た。今まで我々が乗っていたのは客船(ホテルシップ)だった」とまで言わせました

それと軍縮条約を最後まで律儀に守り続けたのは英国だけであり、軍縮条約により最も損をしたのもイギリスでした
正に紳士の国です

第一次世界大戦後、世界情勢は急激に変化していきました

世界一の軍事力を保持していたイギリスは疲弊し、戦争特需で景気が上がった日本やアメリカが世界に強い影響を持つようになったのです

しかし、日本は未だイギリスやアメリカと平等の扱いとはならず、次第に強いコンプレックスを抱いていくようになります

この頃の各国の関係を見ると分かりますが米英日仏伊vs独露の関係でしたので日本はアメリカやイギリスと協力関係にあり
仮想敵国はロシアでした

パリ講和会議で日本は人種差別撤廃案を主張し、人種差別撤廃を訴え大多数の国の支持を得ましたが、アメリカ、イギリス、オーストラリア(植民地や奴隷制のある国)などの反対によって否決されました

当時アジアの中で数少ない独立国であった日本は、国際連盟に加盟し、アメリカ・イギリス・フランス・イタリアの5カ国と並ぶ世界の1等国として国際連盟の常任理事国となりました

ドイツ植民地であったマーシャル諸島(日本は南洋諸島に南洋庁を設置した)が日本に委任統治された結果、日本の太平洋地域への進出が進み、フィリピンやハワイ諸島を領有するアメリカと直接的に領土・領海の境域が接するようにもなり、
日米の対立関係は深まり、アメリカの圧力で日英同盟が解消されるなど、太平洋戦争(大東亜戦争)への伏線が芽生えることにもなったのです


ここから昭和時代に突入します

第一次世界大戦の戦争特需で日本経済は飛躍的に伸び好景気となりましたが、その後世界恐慌により経済は悪化していきました
イギリスなどの国はブロック経済でその余波を最小限にとどめましたが、貿易で輸出が赤字となった日本や
第一次世界大戦で負け巨額の賠償金を背負ったドイツはひとたまりもありませんでした
これが原因で戦後ナチスが台頭するようになったのです

昭和になると日本は国内的には立憲君主制の体裁をとり、藩閥政治から脱却し1920年代には政党が内閣を構成するようになっていきます

しかし、政党政治の度重なる腐敗が不況により困窮する国民の不信と怒りを買い、大陸侵略による事態の打開と国家改造を目論む勢力が政治の実権を握るようになっていきました
更に1920年代から軍部は独立性を強め政府の意思に反し軍事活動や戦闘を多数引き起こし、相次ぐ軍事クーデターにより、ついには政党政治を葬り去ることになります


1930年になると再びアメリカやイギリスが中心となりロンドン海軍軍縮会議が行われましたが内容は
主力艦の制限の延長と補助艦の保有比率を米:英:日 = 10:10:7とするものでした
その時の内閣はこれを受諾しましたが海軍は統帥権を侵していると内閣に反発しました

当時日本では陸海軍のトップは内閣では無く天皇であり、天皇が軍を動かす権利を統帥権と言いました

先程も説明した通り度重なる不況から、軍部急進派や右翼団体の思想が急激に広まっていきました
その背景には明治政府開設後から昭和に至るまで日本は一度も戦争に負けたことが無い為大きな慢心が心に潜んでいたのです

そのせいで若い世代の軍人が洗脳され五・一五事件や二・二六事件が起き、軍部はその暴走を止めることができませんでした

同じ経緯で1931年満州事変が起こります

この満州事変こそが日本の大きな転換期であり、第二次世界大戦や太平洋戦争はここから始まったと言っても過言ではありません

満州に駐屯していた帝国陸軍の関東軍が暴走し満州鉄道の爆破などを行い、それを理由に関東軍は進軍し満州国を建国してしまいます
当時の政府は戦争不拡大の立場をとりますがそれは昭和天皇もまた同じ立場でした
つまりは関東軍の軍事行動は明らかな統帥権侵犯と言えます
しかし、当時の内閣はこれを容認し作戦は進行していきました
これに対し昭和天皇は戦争反対の立場を取っていましたが「君臨すれども統治せず」の思想(英国の思想)に従い、国会で可決されたことには一切口出ししませんでした
今の時代ではとても素晴らしい思想ではありますが当時の日本にとってはもしかしたら少し早すぎた思想だったかもしれません

この関東軍の軍事作戦を練った関東軍参謀の歴史的大馬鹿野郎がいるのですが、そいつは後にインパール作戦と言う史上最悪の作戦を決行します
気になる方はインパール作戦を調べてみて下さい

さて、満州事変が起きてから満州国が建国されるまでの2年間、間抜けにも欧米諸国は日本の進軍のことの重大さに全く気が付きませんでした
その2年の月日が経ちようやく重い腰を上げ国際連盟はリットン調査団を派遣し、調査結果から国際連盟は日本に満州からの撤退を言い渡します
通告を受けた日本は国際連盟から脱退しましたが、この時とくに御咎めはなく
それを見ていたドイツも後に国際連盟から脱退しました

この頃になるとプロパガンダや情報統制、洗脳教育により日本国民は戦争に沸いていました


そして6年後の1937年になると日本軍と中国軍が衝突する盧溝橋事件が起こり日中戦争・・・支那事変が始まりました

陸軍は快進撃が続き中国の首都を陥落するまでに至ります
第一次世界大戦までの世界の常識として首都が陥落すれば負けという風潮があり、当然日本も中国に勝利したものと思いました
しかし、中国軍はそれを逆手に取り次々と首都を移しゲリラ戦術を展開していくのでした
いかに練度で優っていた陸軍も広大な中国を占領できるほどの軍事力は無く、次第に戦争は泥沼化し
第二次世界大戦が終息する1945年までの8年間戦争は続くことになります

ここで一旦世界に目を向けます

ドイツではナチスが台頭しています、そこに日本、イタリアを加え日独伊三国同盟を結びますが
何故日本はこの同盟を結んだかご存知でしょうか?

理由は日本が孤立していたから・・・だけではありません

日本は中国を攻めるにあたり背後の存在を気にしていました
もし、中国と呼応して挟撃でもされたら日本は壊滅的打撃を受けることになったでしょう
その日本の強大な敵とは・・・「ソ連」です

当時ソ連の社会主義に対しドイツは独裁主義でした
そもそもソ連はロシア帝国の独裁政治に反発し
その革命で国が出来上がっていました
ですのでドイツの思想とはまったっく相いれないもので、日本的にドイツは思想が近かったのです
その為日本は東西でソ連を挟撃することを想定し日独防共協定を結びました

しかし、日本の甘い見立てはドイツの独ソ不可侵条約の締結により早くも崩れ去ります

その後日本は慌てて日ソ中立条約を結ぶことになり、日独防共協定はもはや紙屑同然となってしまいました

さて今までの話から分かるように日本の仮想敵国は常にロシア帝国でありソ連でした

もちろん日本は日独伊三国同盟を結んだからと言ってもアメリカやイギリスと戦争しようとは夢にも思っていませんでした

何故ならアメリカやイギリスは議会制民主主義であり日本と同じようにソ連の社会主義とは相いれなかったからです

日独伊三国同盟を結成するまでの間にも失態や汚職など様々な理由で数多くの内閣が退陣していき
その空白に軍国主義や右翼思想が入り混じり戦争へと加速していきました

1940年内閣には海軍大将米内光政が首相を務める米内内閣が成立しました

この時の海軍の立場としては戦争に反対でした
海軍は造船技術なども含め多くを海外から学んでおり、グローバルな視野を持つ人間が多く、日本と海外の戦力差を的確に捉えていました
それに対し陸軍は・・・(以下略

ちなみにこの頃の総理大臣任命も天皇が行っていました

さて陸軍は海軍が内閣を作ったのもあって公然と倒閣運動に乗り出し戦争を加速させていきました


第二次世界大戦


1929年ナチス・ドイツは独ソ不可侵条約を結ぶとポーランドに侵攻しイギリス、フランス相手に第二次世界大戦が勃発しました

この時日本は「欧州戦争に介入せず」と声明しており、中立の立場を保ちアメリカやイギリス相手に戦争するなんて考えてもいませんでした

アメリカも同じように中立の立場を取っていました

アメリカは日独防共協定が締結されたころから日本に対して強い経済制裁を加えるようになります
それに対し日本は日独伊三国同盟を結びこれに対抗しようとしますが
それに怒ったアメリカが禁油措置を取りました

日本は軍艦や飛行機の燃料を含めその殆どを輸入に頼っていました
これは現代でも同じですよね
その時の日本には2年分の蓄えしか石油がありませんでした

日本が占領していた満洲などからは石炭しか取れず、石油は全く取れませんでした


その為、日本は二つの選択肢を迫られることとなります

一つ目は満洲や中国から軍を引き上げアメリカとの間に新しい条約を結び戦争を回避する

二つ目は戦争を続けるために石油が産出される南西諸島に進軍することです


そして二つ目を選んだ場合ハワイやシンガポールに拠点を置く英米濠との戦争は避けられないものとなります

その時日本国内はマスコミや軍のプロパガンダで大きく戦争に沸いており最早引き返すことはできませんでした
第一次世界大戦まで全ての戦争に勝利していた日本は盲目的にアメリカに対する勝利を信じていたのです


そして太平洋戦争への火蓋が切って落とされました

この時海軍山本五十六連合艦隊司令長官は、1年間は戦況を維持しうるが、それ以上は無理であろうと語っていました


太平洋戦争


太平洋戦争でアメリカと対決するにあたり海軍では図上演習が行われました
しかし、全ての戦闘シュミレーションで日本は敗北しました

海軍はアメリカの強大な軍事力の前では敗北を避けられないと分かってはいましたが
今更戦争を止めることは不可能でした

そこで海軍は戦争開始から早々に負けることで和平条約を締結することを考えます

しかし、ただ負けるにもアメリカとの交渉をできるだけ優位に持っていきたいと思っていました


そこで連合艦隊司令官山本五十六を中心に考えられた作戦が真珠湾攻撃作戦でした


この打撃によりアメリカの戦意を挫き交渉の場を作ろうと考えていました


しかし、当時のアメリカ国民は戦争に否定的でした
これが山本五十六にとって大きな誤算となります

イギリスやフランスの要請もあり早く戦争に参加したかったアメリカのルーズベルト大統領はどうすれば世論が戦争に傾くか必死に模索しており
そこで目を付けたのが真珠湾攻撃でした
ルーズベルト大統領の目論見は見事的中し真珠湾攻撃後アメリカ国民は「リメンバー・パールハーバー(真珠湾を忘れるな)」を唱えて
戦争へと世論が傾いていきました

真珠湾攻撃は火に油を注ぐ結果となりルーズベルト大統領がガッツポーズした瞬間となりました

そして真珠湾攻撃を事前に知っていたルーズベルト大統領は主力空母を遠洋に出撃させ日本は本来の目標である敵機動部隊本体を叩くことはできませんでした

真珠湾攻撃は日本の戦術的勝利、戦略的敗北となりました


これにより日本は一つ和平交渉への道が閉ざされます


さて、ここで山本五十六と空母機動艦隊について少しだけ話したいと思います

山本五十六は一時アメリカのハーバード大学で勉学に励んでいたこともありアメリカを含め世界情勢にとても詳しい人物で
ロンドン海軍軍縮条約で日本は英米に対し軍艦が少ない保有数となった時
「劣勢比率を押しつけられた帝国海軍としては、優秀なる米国海軍と戦う時、先ず空襲を以て敵に痛烈なる一撃を加え、然る後全軍を挙げて一挙決戦に出ずべきである」
と軍令部に進言するほど航空機に関心を示していました

第二次世界大戦がはじまる前までは各国は航空戦力による打撃力を微々たるものだと考えており
艦隊決戦思想を抱いていました

しかし、航空機に着目した山本五十六により日本は世界に先駆け大幅に航空戦力を増強するようになり
世界で初めて最初から空母として設計され全通甲板を持つ空母「鳳翔」が建造されました

その後、赤城・加賀・飛龍・蒼龍・龍驤などの空母を次々建造していき航空戦力を拡張していきました
そして空母機動部隊第一航空戦隊、通称一航戦は世界最強の航空部隊と謳われるまでに成長していきます

さて、この頃になると大和型戦艦の計画が持ち上がるようになります
未だ日本海海戦での艦隊決戦による勝利を忘れられない軍令部に対し山本五十六は
これからは航空機の時代になり戦艦は砲撃の前に撃破されるので無用の長物になると対立しましたが
大和型二隻の建造が決まりそれと引き換えに翔鶴型二隻の航空母艦が建造されることになりました


真珠湾攻撃が行われるのと同じころ日本は南へと進軍します


イギリスは南下してくる日本からアジアでの最大の拠点であるシンガポールを守る為
艦隊を派遣することを決定します

この時の英首相であるチャーチルや英国は国際連盟において実は親日的立場を取っており
日本の中国や満洲への侵攻に対し
「日本人が中国で行っている事は我々がインドで行っていることと同じ」
「これで中国も少しは収まるだろう」として支持を表明していました

このように第二次世界大戦が始まってもイギリスは日本の未来を憂い数々の手を尽くしていきます
これは江戸時代より続く絶大な信頼関係と友好の証であり、それは第二次世界大戦が終息した後も変わることがありませんでした

是非ともWikipediaでチャーチルのページを読んでみて下さい

東洋に英艦隊を派遣する際、チャーチルはイギリス海軍の反対を押し切り
当時浮沈艦と呼ばれたイギリスの最新鋭戦艦である戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」
と戦艦「レパルス」の派遣を決定します

そして世界を震撼させた革命的航空戦・・・マレー沖海戦が勃発しました

この戦いでプリンスオブウェールズとレパルスは世界で初めて航空機による爆撃で轟沈します
それまでは戦艦の主砲で雌雄を決する艦隊決戦主義が主流で、航空機の爆撃で戦艦が沈むなんてどの国も考えておらず世界に衝撃が走ると同時に
マレー沖海戦でイギリスは最新鋭の戦艦二隻を失うのでした

真珠湾、マレー沖海戦の教訓によりイギリスやアメリカは航空戦の重要さを思い知らされ
次第に艦載機や空母に力を入れていくようになりました

その後、インド洋海戦と続きミッドウェー海戦で日本が赤城、加賀、飛龍、蒼龍の四隻を失うまで
日本はアメリカ・イギリス相手に負けることはなく、日本の空母機動部隊は世界で一番の強さを誇りました

しかし、早々に敗退し和平条約に持ち込みたかった日本海軍の目論見は日本が勝ち続けた結果
世論の戦争ブームを後押しすることとなり水の泡と帰すことになりました

ミッドウェーでの大敗の後、ソロモン海戦・カダルカナルでの攻防・ラバウル航空戦・マリアナ沖海戦と進み

日本は敗退の一途を辿り、アメリカの新型艦載機や日本空母の轟沈、基地航空隊壊滅により日本は航空機のその殆どを失いました

そして日本帝国海軍連合艦隊はこの状況を打破するため最後の組織的作戦である捷一号作戦(しょうごうさくせん)を発動させ


「歴史上最大の海戦」と呼ばれる「レイテ沖海戦」がここに幕を開けたのです


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