どうも、今回は不謹慎かもしれませんがやはりやりきれない思いが私のなかにありますのでスッキリしたいということで投稿させていただきます。
迷惑かもしれませんが見てくださる方にも私のブログを見て今一度人間の終焉について考えてくださったら幸いです。
今週の月曜日に大事な人、祖母が永眠されました。死因は肺炎で実質老衰による死亡でした。
祖母は認知症を発症しており自分が誰であるのか、そして孫である俺さえも忘れているようでしたがまだ意識がある、元気だった頃は頃は私を見て
『誰や?』
と言いますが、孫だと教えると少し表情を和らげて歓迎してくれていたのを思い出します。
2月に肺炎を患いその時は何とか持ちこたえましたが6月に入ると自分で食べ物を飲み込むことができなくなるまで衰弱をしていきました。
最後の1週間祖母は昏睡状態で実家では飲まず食わずの状態が続き私が見舞いに行った時にはアウシュビッツ強制収容所に入れられたユダヤ人のような、今の日本では台所事情、ありえないといえるほどやせ細った、もはや骨と皮しかないと言っても過言ではないような状態となっていました。
愕然としましたね。
穏やかな笑顔を絶やさなかった祖母が骸骨になっているのを見てこみ上げる涙を抑えるのに必死でした。
でもね、生きてるんですよ。
もう理科室にあるような骸骨の模型のようになっても祖母は生きているんです。もうほとんど意識がない状態でしたが手を握ると握り返してくれるし、私の、家族の言葉に反応してくれるんです。
最後世話をしてくださった看護師さんは私の祖母の心臓の強さに驚愕をしていたぐらい祖父の生命力は強かった。
飲まず食わずで骨だけになっても祖父の心臓だけは動き、血液を体中に運んでいる。
それは祖母は生きたい!と叫んでいるようだった。
でもそれも終わりを告げた。午前に6時に静かに、眠るように祖父は息を引き取ったのを私は電話で聞いた。
映画で見た『おくりびと』という人たちが来て祖母の体、髪、顔を洗い、おめかしをして着物に着替えさせているのを見た。
本当に映画でやったとおりの手順で祖母を手厚く扱ってくれたことは感謝してもしきれない。
ただ祖母は私が見舞いに来た時よりもさらに痩せており骨盤、恥骨が完全にあわらになっているような状態になっており非常に痛々しかったのを覚えている。
打ち合わせがお祭りが起こったように、蜂の巣をつついたような騒ぎで行われ泣く時間さえ
、死んだ実感さえ感じていなかったを覚えている。
ただお通夜が終わり葬式が始まるとだんだんと祖母が、ばあちゃんが死んだというのがわかってきて告別式が終わり最後、棺の中に花束を入れるときになって、ばあちゃんが死んだというのが頭の中を完全に支配し始めていた。
まだ子供の頃に、まだ元気だった頃はよく家族と一緒に旅行に行ったこと、実家に来た時は嫌な顔をせずニッコリと笑って私を迎え入れてくれたこと、と走馬灯のようにフラッシュバックしては消えていく。
そして祖母に甘えるということが恥ずかしいと思って素直になれなかった、シャイな態度でしかばあちゃんに接してやれなかった自分に後悔して、絶望した。
見栄を張らずにもっと甘えてもよかった・・・・。ばあちゃんははそれを待っていたのではないのか・・・・。
実は寝ているだけでまたゆっくりと起き上がって私にほほ笑みかけてくれるのではないかとか馬鹿な考えが頭をよぎったりもした。
だがばあちゃんは棺の中でもうずっと目をつぶったまま起きることはないのだ。
花に囲まれて静かに眠るばあちゃんをみて俺は初めてばあちゃんがもうこの世にいないということを知覚し、それからは涙が止まらなかった。
自分でも抑えきれない激しい濁流が涙という形になって押し寄せて決壊する。
嗚咽を堪えるのに必死だった。ばあちゃんの顔が歪んで見えない。
ごめんな、ばあちゃん。俺ちっとも孫らしい事をしてやれなかった。
交通事故にあって腰が砕ける重症になっても励ましの言葉をかけてやれなかった。
認知症が始まってからもまるで他人事のように接することしかできなかった。
もっとばあちゃんと話したかった。昔のこと、そしてこれからのこと。
もっともっとばあちゃんと一緒にいたかったよ・・・・。
・・・・・済みません。やっぱりこれ以上は無理みたいです。
ただ私が言いたいことは皆さんも家族が、大事な人がいるのなら自分が思う以上に、後悔のないように接して、付き合って、そして共に生きていかないと私のようにその大事な人が死んでから激しく後悔します。
どうか私のような親不孝者にならないでくださいね。
以上、今日のブログでした。長文でしたが最後まで見てくださったかた有難うございました。
迷惑かもしれませんが見てくださる方にも私のブログを見て今一度人間の終焉について考えてくださったら幸いです。
今週の月曜日に大事な人、祖母が永眠されました。死因は肺炎で実質老衰による死亡でした。
祖母は認知症を発症しており自分が誰であるのか、そして孫である俺さえも忘れているようでしたがまだ意識がある、元気だった頃は頃は私を見て
『誰や?』
と言いますが、孫だと教えると少し表情を和らげて歓迎してくれていたのを思い出します。
2月に肺炎を患いその時は何とか持ちこたえましたが6月に入ると自分で食べ物を飲み込むことができなくなるまで衰弱をしていきました。
最後の1週間祖母は昏睡状態で実家では飲まず食わずの状態が続き私が見舞いに行った時にはアウシュビッツ強制収容所に入れられたユダヤ人のような、今の日本では台所事情、ありえないといえるほどやせ細った、もはや骨と皮しかないと言っても過言ではないような状態となっていました。
愕然としましたね。
穏やかな笑顔を絶やさなかった祖母が骸骨になっているのを見てこみ上げる涙を抑えるのに必死でした。
でもね、生きてるんですよ。
もう理科室にあるような骸骨の模型のようになっても祖母は生きているんです。もうほとんど意識がない状態でしたが手を握ると握り返してくれるし、私の、家族の言葉に反応してくれるんです。
最後世話をしてくださった看護師さんは私の祖母の心臓の強さに驚愕をしていたぐらい祖父の生命力は強かった。
飲まず食わずで骨だけになっても祖父の心臓だけは動き、血液を体中に運んでいる。
それは祖母は生きたい!と叫んでいるようだった。
でもそれも終わりを告げた。午前に6時に静かに、眠るように祖父は息を引き取ったのを私は電話で聞いた。
映画で見た『おくりびと』という人たちが来て祖母の体、髪、顔を洗い、おめかしをして着物に着替えさせているのを見た。
本当に映画でやったとおりの手順で祖母を手厚く扱ってくれたことは感謝してもしきれない。
ただ祖母は私が見舞いに来た時よりもさらに痩せており骨盤、恥骨が完全にあわらになっているような状態になっており非常に痛々しかったのを覚えている。
打ち合わせがお祭りが起こったように、蜂の巣をつついたような騒ぎで行われ泣く時間さえ
、死んだ実感さえ感じていなかったを覚えている。
ただお通夜が終わり葬式が始まるとだんだんと祖母が、ばあちゃんが死んだというのがわかってきて告別式が終わり最後、棺の中に花束を入れるときになって、ばあちゃんが死んだというのが頭の中を完全に支配し始めていた。
まだ子供の頃に、まだ元気だった頃はよく家族と一緒に旅行に行ったこと、実家に来た時は嫌な顔をせずニッコリと笑って私を迎え入れてくれたこと、と走馬灯のようにフラッシュバックしては消えていく。
そして祖母に甘えるということが恥ずかしいと思って素直になれなかった、シャイな態度でしかばあちゃんに接してやれなかった自分に後悔して、絶望した。
見栄を張らずにもっと甘えてもよかった・・・・。ばあちゃんははそれを待っていたのではないのか・・・・。
実は寝ているだけでまたゆっくりと起き上がって私にほほ笑みかけてくれるのではないかとか馬鹿な考えが頭をよぎったりもした。
だがばあちゃんは棺の中でもうずっと目をつぶったまま起きることはないのだ。
花に囲まれて静かに眠るばあちゃんをみて俺は初めてばあちゃんがもうこの世にいないということを知覚し、それからは涙が止まらなかった。
自分でも抑えきれない激しい濁流が涙という形になって押し寄せて決壊する。
嗚咽を堪えるのに必死だった。ばあちゃんの顔が歪んで見えない。
ごめんな、ばあちゃん。俺ちっとも孫らしい事をしてやれなかった。
交通事故にあって腰が砕ける重症になっても励ましの言葉をかけてやれなかった。
認知症が始まってからもまるで他人事のように接することしかできなかった。
もっとばあちゃんと話したかった。昔のこと、そしてこれからのこと。
もっともっとばあちゃんと一緒にいたかったよ・・・・。
・・・・・済みません。やっぱりこれ以上は無理みたいです。
ただ私が言いたいことは皆さんも家族が、大事な人がいるのなら自分が思う以上に、後悔のないように接して、付き合って、そして共に生きていかないと私のようにその大事な人が死んでから激しく後悔します。
どうか私のような親不孝者にならないでくださいね。
以上、今日のブログでした。長文でしたが最後まで見てくださったかた有難うございました。
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