鮎滝 渉のブロマガ

天皇陛下の「お気持ち」表明を受けて(4) かつては戦争も引き起こした天皇の譲位

2016/08/16 19:27 投稿

  • タグ:
  • 天皇
  • 天皇陛下
  • 政治
  • 選挙
  • 言論
< 目 次 >
(1) 天皇陛下から国民への御相談にどう答えるか?
(2) そもそも天皇とは何なのか? 日本の権威を担う天皇
(3) そもそも天皇とは何なのか? 祈りを捧げる天皇
(4) かつては戦争も引き起こした天皇の譲位 ←いまココ
(5)’ 嫡出子継承を守る英国、男系継承を守る日本 [9/10改訂]
(了) 伊藤博文たちが考えた天皇の譲位問題と、最後に私見
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
明治に皇室典範が定まる以前は、天皇がしばしば生前に譲位していました。

天皇は譲位すると太上天皇(上皇)と呼ばれるようになりますが、史上初の上皇となった持統上皇※1から、江戸時代後期の光格上皇まで計59の上皇がいます。今上天皇陛下は第125代天皇ですから、歴代天皇の半数近くが生前に譲位していることになります。

初の生前譲位 ― 皇極天皇による譲位 ―

未だ太上天皇(上皇)の定めも無かった時代、最初に生前に譲位をしたのは皇極天皇です※2

あまりピンと来ない御名前かもしれませんが、舒明天皇の后、中大兄皇子(のちの天智天皇)、大海人皇子(のちの天武天皇)の母と聞くと、おおよその時代、どういったお立場に居られた方なのか解るのではないでしょうか?

第34代の天皇である舒明天皇が崩御した後、次の天皇をなかなか決められない状態に陥りました。そこで緊急避難的措置として、舒明天皇の后が、皇極天皇として第35代の天皇に立ちます。一方で、政治の実権は、舒明天皇の時代から権勢を振るってきた蘇我蝦夷・入鹿父子が握りました。

ちなみに、次の天皇が定まらない時に女帝が立つのは、第33代の推古天皇が初です。

さて、蘇我蝦夷・入鹿と中大兄皇子が揃ったということは・・・・・・。

大化の改新ですね?

蘇我氏などによって豪族中心に行われる政治を変えようと、中大兄皇子はクーデターを計画。645年(皇極天皇4年)に乙巳の変を起こして、蘇我蝦夷・入鹿を討ちます。

乙巳の変を受けて、皇極天皇は中大兄皇子へ天皇位を譲ろうとしましたが、中大兄皇子はこれを辞退。結局、天皇位は皇極天皇の同母弟・軽皇子へと譲位されて孝徳天皇となり、皇極天皇は皇祖母尊となりました。これが、最初の譲位です。

クーデターをきっかけとした譲位ではありますが、皇極天皇の場合は、皇位継承を巡る争いではありません。あくまで臣下同士の政争と見るのが良いでしょう。

保元の乱 ― 皇位継承に振り回された崇徳天皇 ―

しかし、日本の長い歴史の中では、戦争につながった譲位もあります。

保元の乱(保元元年、西暦1156年)です。

事の始まりは、永治元年(西暦1141年)に、鳥羽法皇の下で天皇であった崇徳天皇が、鳥羽法皇の寵姫・藤原得子の皇子・体仁親王へ譲位させらされたことです。この時、譲位した崇徳天皇は22歳であったのに対して、即位した近衛天皇(体仁親王)はわずか3歳でした。

崇徳天皇は、譲位したため上皇にはなるのですが、譲った先は息子ではなく異母弟です。院政は、在位する天皇の直系尊属(父や祖父)である上皇が、天皇家の家父長として、天皇に代わって政務を行う政治であるため、崇徳上皇は”実権なき上皇”となってしまいました。

弟が生まれたというだけで譲位を迫られ、院政を敷く機会も奪われたこの出来事は、崇徳上皇に深い遺恨を残します。

ところが、その近衛天皇は病弱で、皇子も皇女もなすことなく17歳で崩御してしまいます。久寿2年(西暦1155年)のことでした。

そして、次の天皇の候補として3人の名前が上がりました。
・崇徳上皇の皇子である重仁親王(14)
・雅仁親王の皇子である守仁親王(12)
・鳥羽法皇の皇女である暲子内親王(18)

この候補者争いは、重仁親王が最有力と考えられていました。鳥羽法皇と崇徳上皇の間に確執こそあるものの、重仁親王は崇徳上皇の皇子であり、久安6年(1150年)に元服も終えていて、守仁親王よりも年長だからです。

しかし、ここへ当時の政治情勢が干渉します。

時は、藤原家による摂関政治が行われていた時代。藤原家の内部では、関白・忠通左大臣・頼長の兄弟が対立していました。忠通と頼長が、それぞれに養女を近衛天皇の中宮として入内させたのも、2人の主導権争いの表れです。

2人の父である忠実は頼長の方を後押ししており、頼長が優勢になっていきます。忠実は忠通から、摂関家の正邸・東三条殿や宝物の朱器台盤を接収し、摂関家をまとめる氏長者の地位も剥奪。これらを頼長に与えた上で、忠通を義絶(勘当)してしまいます※3

一方、近衛天皇が皇子を遺さずに崩御したため、近衛天皇の母・美福門院は、自身の意向を反映できる皇位継承者を探していました。

摂関家内部の権力闘争で苦しい立場に追い込まれた忠通は、美福門院と連携することで逆転を図ります。そして、この2人が推したのが、天皇になった時に他勢力からの影響を受けない守仁親王でした。

守仁親王は、まだ12歳と年少であり、父の雅仁親王が天皇になることなく存命中と、何かと障壁の多い候補です。しかし、「守仁親王を天皇にするため、先に雅仁親王を後白河天皇として立てること」で形を整え、美福門院・忠通は、後白河天皇の即位に成功します。

後白河天皇とそれを後押しした美福門院らは、前者は自身の政治的基盤を固めること、後者は将来の守仁親王への譲位に備えた関係強化で一致。美福門院は、16歳になった自身の娘・姝子内親王を守仁親王の后とし、姻戚関係を結びます。

一方、忠通も後白河天皇の即位によって復権。さらに世間で広まっていた「近衛天皇の崩御は呪詛によるもの」という噂を受けて、美福門院と忠通で「呪詛したのは藤原忠実・頼長父子である」と鳥羽法皇に讒言。頼長は、事実上の失脚に追い込まれます。

ところが、保元元年7月2日、新体制が固まる前に最大の後ろ盾である鳥羽法皇が53歳で崩御してしまいました。

先に動いたのは、政権基盤の安定を急ぐ後白河天皇・忠通方でした。

同年7月5日「上皇 左府(左大臣) 同心して軍を発し、国家を傾け奉らんと欲す」という噂に対応するとして、京中の武士の動きを停止する措置を実施。さらに、7月8日には、忠実・頼長が荘園から軍兵を集めることを停止する後白河天皇の御教書を下し、高階俊成と源義朝の随兵を東三条殿に遣わして邸宅を没官しました。没官とは、謀反人に対する財産没収の刑です。

謀反人の烙印を押された頼長は、兵を挙げる以外に事態を打開する方法はないと考えます。そこで挙兵の正当性を得るため、崇徳上皇を担ぐことを決意しました。

一方、崇徳上皇も、後白河天皇方の動きに危機感を抱いて、7月9日夜に御所としていた鳥羽田中殿を脱出。同母妹である統子内親王が御所としていた白河にある白河北殿に押し入ります。
翌7月10日、宇治から上洛した頼長も白河北殿に入り、崇徳上皇・頼長方の拠点としました。

しかし、彼我の戦力差は明らかでした。
後白河天皇・忠通方・・・総勢1,100騎(平清盛300、源義朝200、源義康100騎)ほど
崇徳上皇・頼長方・・・総勢200騎(平忠正100、源為義100)ほど


数で劣る崇徳上皇・頼長は、興福寺の僧兵など大和からの援軍を待とうとします。

しかし、7月11日未明、白河北殿に夜襲を受けて敗北します。炎上する白河北殿から脱出を試みた頼長は、脱出する際に重傷を負って敗走中に死去。崇徳上皇の方は脱出して行方をくらまし、13日、同母弟の覚性法親王に仲裁を求めるべく仁和寺に出頭しますが、仲裁を断られて身柄を確保されます。

その後、崇徳上皇は讃岐へ流刑※4 となり、重仁親王は仁和寺に入って出家しました。

(つづく)
――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――
※1 天智天皇(中大兄皇子)の娘で、壬申の乱で勝利した天武天皇(大海人皇子)の后。ただの中継ぎではなく、天武天皇の政策を引き継いで政治を執り行った珍しい女帝です。その生涯については、里中満智子先生の『天上の虹 持統天皇物語』を読むのをおすすめします。


※2 記録上、継体天皇(西暦450年?-531年)が生前に譲位をしたという記録があります。


※3 忠通の子で頼長の甥にあたる慈円が、『愚管抄』で「日本一の大学生、和漢の才に富む」と賞賛するなど、頼長は、誰しもが認める博識で仕事のできる人でした。

しかし、律令や儒教の論理を重視する頼長は、実際の慣例を無視する政治をしました。そのやり方は周囲の理解を得られず、院近臣の中・下級貴族たちから反発を招きます。また、苛烈で他人に厳しい性格だったようで、ついには、近衛天皇からも嫌われます(『宇槐記抄』)。

頼長に「天皇を呪詛した」との噂が立った時、彼の味方が少なかったのは、この辺りの事情もあったのかもしれません。

コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事