さかはら あつしのブロマガ

高橋克也公判傍聴の記録第一日目その三:裁判員裁判と「宮崎駿」弁護士。

2015/01/17 19:37 投稿

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裁判の記録は後にキチンとし手続きを踏めば得られるだろうし、他の多くの専門家が書くだろうし、私など素人の戯れ言を書きつられているだけなので、全てを網羅することは諦め、私にしか書けないことを記そうと思う。

今日の見せ場は、弁護人、冒頭陳述、弁護人は絶対に「宮崎駿を意識している」と思う。世界で最も、ロイターよりもブルームバーグよりも信頼している、落合信彦の手帳よりも信頼している世界の情報源、東スポですら、「宮崎駿似」と言っている。

しかし、親愛なる東スポの記者の「宮崎駿似」という表現と「宮崎駿を意識している」という表現の距離は100万億里の距離の差がある。

高橋克也公判第一日目にして、弁護人の性質とその発想と意識の限界が十分に露呈されたかもしれない。

スーツの選び方、眼鏡の選び方まで、「宮崎駿を意識していない」ということが難しいぐらい意識している。

一方、検事チームは、色彩感覚が貧相なことで知られる日本のビジネススーツの中でも、際立って貧相で、ほぼ全員がダークの同じような色のピンストライプのスーツだ。

思わず、私は「あの、スーツは官給品のユニフォームかなにかなんですか?それとも出入りの仕立て屋がいて、みんな同じところで買っているのですか?」と私たちのガイド役を担当している女性検事に思わず聞いてしまったぐらいなのだ。

女性検事は「みんな、バラバラのところで買うんですが、なんか同じようになるんですよね」と言っていた。

私は映画を作る、人物を造形するという視点で人を見る癖があるのだけれど、「宮崎駿」弁護士は「宮崎駿を意識している」というところが全てであると思う。作劇的にはそれで全てで、それ以上はない。

それを、「裁判員裁判」という「一般人」に訴えかけるために、リベラルで公平で知的な人物像を作り上げ、「裁判員」に語りかけているというイメージ操作をしている可能性もある。そうだとしたら、かなりの手練である。

意図がなければ、ただの薄っぺらい「気取り屋」である。

狙いならば、印象操作、イメージ操作が彼の今回の裁判員裁判の法廷闘争の戦略ドクトリンということになる気がする。

パワーポイントを使う「宮崎駿」弁護士の「弁護人冒頭陳述」はもったいぶった、「人は死ぬ、必ず死ぬ」という麻原彰晃こと松本智津夫の引用から始まった。

そして、神智学・霊性進化論の説明と社会的背景の説明から入っていった。

一瞬、「ほー、この『宮崎駿』ちゃんと勉強しているじゃん」と感心したが、良く聞いてみると、オウム真理教の精神史(太田俊寛)の「まんまパクリ」であることに気づかされた。

私も一年かけて結構、多くの「オウム真理教」関連本を読んだが、「オウム真理教の精神史」は白眉の出来であると思う。太田俊寛には会ってみたいとコンタクトし、メールをやりとりしたことがある。映画の撮影が終われば、会ってみたいと思う。

その後、「宮崎駿」弁護士は、高橋克也の生い立ちを軽くなでた。

会社員の父、パートタイマーの母、進学校から国立大学に進んだ兄、そして、兄のようには接してもらえなかった高橋克也という説明であった。

私は映画監督だが、「高橋克也」に無罪を勝ち取らせるための法廷闘争劇を作劇するならば、「宮崎駿」弁護士に最後の最後、意思決定の直前に裁判員に大きな影響を与える事実を言わせる作戦を取らせるのではないかと思う。

それが「宮崎駿」弁護士のベストショットに違いないと私は信じる。

私が「宮崎駿」弁護士を買いかぶりすぎているかもしれない。。良くある話である。

私はそれなりに、オウム真理教の信者の本を読んできたが、本当に自分をさらけ出しているものを読んだ記憶がない、村上春樹の「約束された場所で」も表面をなでただけである。

映画で人物を造形する際、パブリック、パーソナル、プライベートと存在の空間と関係性をわけて考える。

プライベートとはトイレにいてウンコが出る瞬間の表情であり、渋滞に巻き込まれた車の中で、一人大声で歌を歌う歌声であり、書斎で鼻くそをほじくる己であり、エッチをしてイク瞬間の表情である。

「兄のようには接してもらえなかった高橋克也」を語るなら、その瞬間をありありと捉える必要があり、生い立ちを語るなら、本人含め、三世代、祖父、祖母の世代まで理解しなければならないと思う。

アレフの施設を何度か訪問し、出家信者数名の話をグループで何時間も聞いた。

その時、「親父と私はあまり関係ない、影響もない」という言い方を名門大学を出てオウムに入った人が私にしたので、「あのね、私はもとももと勉強ができなかった、だからね、色んな人、勉強のできる人、天才、偉人を真剣に研究したんです。でね、学生の時に、高校からいきなりハーバード大学に進んだ日本人の家に遊びにいったことがあったんですね。それで、電話台の下に広辞苑と新英和中辞典があるのを見たんです。お父さんは学者だけど、なるほど、ここに生活様式の根本的な違いがあるな、この意識の違いが毎日、毎分、毎秒あると、それは人生に大きな違いをもたらすなと感じたんですが、そういうことはないですか?」と言うと、彼は顔色を変え、「そう言われると、あります」と話を始めた。

そういう時間を過ごしているうちに、私のドキュメンタリーを作っていく姿勢を信じてくれて、やっと今に至り、「編集権をさかはらが持つなら」と言ってもらったのである。

私が記者会見で大見得を切った、「真相に迫る」とはそういうことである。

また、無邪気な25、6の「押しの一手」のテレビ女性記者があんまりしつこく私に「ドキュメンタリーの撮影風景を撮影させろ」と言うので、私は頭に来て、「あのね、あなたが、あなたの処女喪失を精神科医に相談するとする、それをロングショットで撮影させてくれますか?」と尋ねると、「嫌です」と言うので、「でしょ、私のドキュメンタリーはそういうドキュメンタリーです」と言うと周りの関係者は笑っていたが、それは冗談ではない。

それでも「押しの一手」だったのは逆に見上げるが、どうしてそうなるのかと言うと、それは結局、その放送局の組織文化であり、組織の設計、成り立ちなのではないかと思う。

私のドキュメンタリーでは、荒木さんのそういうところに踏み込みたいし、平行するルポルタージュでも同じである。

オウム真理教の精神史(太田俊寛)の「まんまパクリ」で始めた「宮崎駿」弁護士は法廷を「抽象から具体」に時間をかけていく戦法なのかもしれない、「宮崎駿」弁護士が、もし、プライベート、そう、全ての告白本を書いた元オウム信者の誰も語らなかったようなプライベートを法廷で高橋克也にさらけ出させることをやれたら、検察チームにはかなり手強い相手ではないかと思う。

それをやられると全部持って行かれるだろう。

それこそ、私がドキュメンタリーとルポルタージュでやりたい、「オウム真理教の真実」の解題であるからだ。

私が作りたい、「オウム真理教の真相に迫る」映画とは、そういう映画である。

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さかはら あつし



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