古川 享(ふるかわ すすむ)
1954年東京都生まれ。麻布高校卒業後、和光大学人間関係学科中退。1979年株式会社アスキー入社。出版、ソフトウェアの開発事業に携わる。' 82年同社取締役就任、' 86年同社退社、米マイクロソフトの日本法人マイクロソフト株式会社を設立。初代代表取締役社長就任。' 91年同社代表取締役会長兼米マイクロソフト極東開発部長、バイスプレジデント歴任後、2004年マイクロソフト株式会社最高技術責任者を兼務。' 05年6月同社退社。' 08年4月慶應義塾大学大学院メディアデザイン研究科教授に就任。専門分野はメディアビジネス、マーケティング、プロダクト・デプロイメント、企業連携。
脳梗塞から復活した古川亨氏登場!
進藤:古川さんにはこの対談の1回目のゲストでご登場いただいているんですよね。
古川:進藤さんがお子さんを産んだあとの復帰戦にも呼んでいただいたから今回で3回目だね。
進藤:毎度ありがとうございます! その3回とも、古川さんの環境が変わっていて時間の重みを感じます。1回目はマイクロソフトにいらっしゃるころで。
古川:2回目のときには慶應大学大学院のメディアデザイン研究科がスタートしたころ。そして現在はプータロー、みたいな(笑)。
進藤:違う違う(笑)。本当にお元気になられてよかったです!
古川:ありがとう! たまたまラッキーだったんです。脳梗塞が起きた場所を考えるともっとシリアスでもおかしくなかったとお医者さんもビックリしてました。
進藤:あれは夏ごろでしたね。
古川:去年の8月。シアトルから飛行機に乗るときに、搭乗前からちょっとロレツが回らなかったの。寝不足だったせいかと思ってたんだけど、成田に着いたときにはもう明らかにおかしくなっていた。それで自宅に戻ってから救急車を呼ぶのでは手遅れになったらいやだなと思って、帰宅途中で直接病院に自力で行って。
進藤:え、ご自身で?
古川:うん、まるで歯医者にでも行くかのように歩いてね(笑)。でもそこにはMRIがなくて、通常のCTをかけてみたんだけど別になにもなくて。だけど一晩経ったら左手の動きもおかしくなったので転院することにしたのね。そのとき生まれてはじめて救急車に乗ったから、運ばれながらも写真撮りまくっちゃった(笑)。
進藤:本当に? もう、古川さん、余裕ありすぎ(笑)。
古川:だって救急車の内部見学なんてできないし(笑)。でも結局、あまりにも脳の深いところでの出血だったから外科手術ではなく、点滴だけで治療したんです。それで左手も完全にマヒすることなく、進行が途中で止まったという感じに。
進藤:もう、強運というか、本当によかった。気づくのが早かったのと、医学進歩のおかげですね。一般の治療病院に1ヵ月いらしたあと、リハビリの病院に移って。
古川:2ヵ月半。
進藤:そして去年の12月上旬に。
古川:8日に退院して、13日にはもうハワイでリハビリしいていました(笑)。
古川享氏病状を自らのツイッターで発信し生きていく力に変えた
進藤:ご自身の脳出血について早い段階からSNSで発信されました。私の周囲でも心配でチェックしていました。
古川:だけど悲嘆にくれたような話にはしたくなかったから、やっちゃったーって感じであえて隠さずにいろいろ公開してました。それなのにこの間、自分のウィキペディアを見てみたら「半身不随になった」というところで止まってた。悪い話はあっという間に広まるけど、回復しましたっていう話は誰も書かないんだよね。
進藤:そこが大事なのにー! またひとつ古川さんの伝説が増えたのに。でも、自分のことで精一杯というときなのに、自ら発信されたのはなぜですか。
古川:「まだ生きてるよ」って1対1で個別に知らせるというのも、そういう時代じゃないなと思ったし。少なくともこの20~30人には知らせたいってときには、やはりTwitterやFacebookの力は大きいなと思ったんです。それともうひとつは生きていくうえでのパワーをもらえると思ったから。
進藤:パワーですか。
古川:うん。泣き言を言いたいわけではないけど、でもちょっとでもがんばると、いろいろな人からほめてもらえちゃうじゃない。それとあらゆる治療方法、リハビリの仕方や薬の名前から民間療法まで含めていろいろな情報がうわーっと集まってきたし。
進藤:そうなんですか。
古川:自分としても予測がつかないことだから、たとえば1ヵ月後、半年後にはどこまで回復する可能性があるかということもつかめないと不安じゃないですか。
進藤:そうでしょうね。
改めて生きてきた証とはどういうことかを考えた
古川:だからいろいろな本、それこそ学術研究論文から脳溢血に関する本をたくさん買いました。いままでにどういうレベルの経験をして、こんなふうに回復したということを直接メッセージくれるような人もいました。だから単にメッセージを発信していたというより、人とつながっている実感がありましたね。
進藤:倒れられてから、いろいろと心境の変化がおありになりまし たか。
古川:そうだね。人間、死ぬまでの間になにを残せるか、生きてきた証とはどういうことかということはすごく考えました。それは自分の個人史を書籍にしたいとか、銅像をつくりたいとか、ただ何年何月にこういうことをした、ではなくて。自分の知る人がある年齢になったとき、僕はその年齢のときにはこんな映画を観て、このコンサートに行き、こういう体験をしたんだということを残してあげたり、それと同じような追体験をしてほしいと伝えられるような、そんなからくりをつくれたらな、なんてことを考えたりね。
進藤:というと?
古川:たとえば、自分のひ孫があるレストランに行ったとき「あなたのひいおじいちゃんの好きだったワインをお預かりしています。実はあなたが生まれた年のワインなんですよ」といきなりワインが出てきたらいいな、とかさ。
進藤:サプライズ!
古川:それはひいおじいちゃんが死ぬ前に「ひ孫が25歳くらいになったときにもしガールフレンドをつれてきたら食事をおごってやってくれよ」と預託しておいたもので。それがレストランじゃなくても、映画館でもアミューズメントパークでもいい。そうやって次の世代にまわして、伝えていくことができたらと思ったの。そういう意志の伝えかたって、あらゆる世界でできるんじゃないかと思うんですよ。昔からPay It Forward的なことをちらちらと考えてはいたことだけど、今回はそんなことをじっくり考える機会にはなりましたね。
みんなが飛翔するためのカタパルト的な役目に
進藤:そもそも古川さんは、マイクロソフト時代から、なにかを成し遂げたいと試行錯誤している人の後押しをされていて。慶應のメディアデザイン研究科、KMDもまさに世の中を変えたいと思っている若者たちの背中を押す学科ですよね。
古川:そう、がんばっているはみだしものくんたちをね(笑)。ふつうの世界では異端児として取り扱われる子でも、みんなけっこうがんばってる。僕自身も受験校にいて、中学受験のために勉強していたころは天才じゃないかと思っていたのに、中学に入ったらどんなにがんばったって300人中297番にしかなれなくて。
進藤:ふむふむ。
古川:結局、大学も行かずにふらふらしてたのは演劇関係でひとり、あとは私ぐらいだから。
進藤:KMDの教授になられて何年目ですか。
古川:6年目かな。だけど教える、といっても決して自分の考えを押しつけるなんてことは自分のやりかたではなくて。私はあくまで学生さんたち自身が化学反応を起こすときの触媒でしかない。化学反応を始めるときのきっかけとしてトリガー、引き金にはなってあげるけど、自分の色に染まってくださいというつきあいかたは誰ともしたくないんですよ。
進藤:たしかにそうでしたね。
古川:だから困っているのならこう解決するといいと思うよと助言するし、お金に関することでも企業とのコンタクトの取りかたでもいろいろアドバイスするし。みんなが自分の力で飛翔するときのカタパルト的な役目、それが自分の残された人生のお役目でしょうと思うんですよ。
進藤晶子氏これまでは最終目標に到達するための回り道かも
進藤:私がこんなことを申し上げるのもおこがましいのですが、古川さんのこれまではひとつのテーマで貫かれているという印象を受けます。
古川:スタート地点を考えると、僕はアスキーで取材をしていたわけで。当時から人とのコミュニケーションのとりかたを考えていたし、自分自身が取材をしながらも世の中がこう変わっていくといいなとずっと主張してきたからね。そしてずっと思っていたのがパソコンってただのハードウェアではないということ。子どもがパソコンと仲よくなりすぎて人とのコミュニケーションの仕方を忘れてしまったり、いびつな人格に育っちゃうというのは違うと思う。本来は人とコミュニケーションをとるためのもの、パーソナルコンピューター、スマホも含めて、ネットワークにつなぐ蛇口としてのものなので。実際にはパソコンそのものを使いたいのではなく、遠くにいる人と。
進藤:つながるために使うもの。
古川:'79 年ころのアスキーで副編集長として、そういったコンピュター&コミュニケーションについての話を特集記事にしたこともあるんだけど。たとえばHi‐Fiオーディオのセットで何百万もスピーカーやアンプにお金をかけていてもレコードは4枚しか持っていない人もいるわけ。
進藤:へえ~!
古川:だけど本来の目的は、そういう高額のオーディオ装置を人に見せびらかすことではなく、いい環境のなかで音楽を楽しむことじゃないですか。コンピューターの場合も同じで、ネットワークにつなげて人と人との関係をよりよくしたいとか、もっと豊かな生活を送りたいといった本来の目的から離れて、パーソナルコンピューターを使うこと自体を目的にするからどんどんいびつになるんです。だけど、そういう環境で育った次世代の子どもたちは時間に対する感覚や、国籍だとか距離感といったものをほとんど不自由だとは感じなくなる、自由な新しいスタイルの人間になるのかもしれない。そうやってパーソナルコンピューターが普及したあと、さらにまた新しいものの発想をするような人間が育てられるようになったときがホンモノだよねっていうことを、自分が25 歳だったころに書いていて。
進藤:まさに先見の明。
古川:だからその状態に少しずつ近づいているのかも、とは思います。だからアスキーでは8年間、マイクロソフトでは25年近く働いたわけだけれど、そのことも最終的にそこに近づくための回り道、最終目標に到達するためのアイドリング期間だったのかもという感じはありますね。
進藤:今回、倒れられたこともきっと今後、これからの活動に生かされていくんでしょうね。
アスキーマインドが形を変えて再生してくれたら
古川:離れていた人と入院したことをきっかけに再会したりして、いろんな人と改めてつながるチャンスになったし、さらにこの人とこの人を会わせたらすごいことが生まれるんじゃないかと思いながら、新たに人と人とをマッチングさせようとするきっかけになったような気もします。
進藤:これからなさりたいことも、山盛りありそうですね(笑)。
古川:ハハハ、大人の悪巧みって言われているけど(笑)。合わせて週アスの存在やアスキー総研がもっているパワーがカドカワと川上(量生)さんのところとくっつくことで新たになにかが始まりそうでワクワクします。僕みたいに門外漢になったものからすると、アスキーって特別な存在でもあってね。僕がまだ若いころ、あるマンションに編集室があってドアを開けると30足くらいスニーカーが並んでて。今日から就職した私はどこの机ですかと聞くと、窓際の画板をもってベランダで座ってろって言われてさ。
進藤:アハハ、画板ですか!
古川:バスルームでは風呂桶のふたで仕事してるやつもいたくらいだから(笑)。でも、当時はホントおもしろいやつらが集まってたなあ。
進藤:熱い! 青春ですね。
古川:僕は8番目の社員だったんだけどね。当時表参道の地下鉄駅にアスキーの広告看板で、「未来を予測する最良の方法は、未来を創りだすことだ By Alan Kay」と掲示されていて、我が意を得たりと思ったんだ。
進藤:ふむふむ。
古川:そして給料が手取りで10万円もなかったころでも、新しい流れが来るからこの機材がほしいと言えば何千万円するものでも、ちゃんと事業責任を取るんだったら買ってもいいよと投資してくれた。創業者がやりたいことを自由にやるだけではなく、途中から入ってきた人間にも等しくチャンスがもらえたんです。そういうアスキーの自由な雰囲気が、いろいろな人を育てたんだし。そういうアスキーマインドが形を変えて再生してくれたらいいなとも思うんです。
進藤:そうですよね。
古川:私自身はここから仕事人としての人生をスタートさせたから、やっぱり原点はアスキーにあって。そうやってアスキーに育ててもらい、チャンスをもらったということをPay It Forwardで次の人にまわしたい。そういう技量がアスキーにはあったからね。そのマインドが復活してくれればうれしいし、そのために僕に手助けができるのならぜひやりたいと思うんですよ。
今回の聞き手
進藤晶子(しんどうまさこ)
'71年9月10日生まれ、大阪府出身。フリーキャスター。著書に、本誌連載をまとめた『出会いの先に』(小社刊)がある。
http://www.shindomasako.jp/
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