深い、海の底にいるような気がする。
最近の僕の唯一の楽しみと言えば、二十三時を過ぎてからのインターネットであった。
毎日僕は真っ暗な部屋で唯一の光源であるパソコンのモニターの前に座る。その電脳空間上では日本のどこかの顔も知らぬ誰かが個人のサイトを作り、何か色々な文章を書いている。
こういったツールが出来るまでは、きっとかたちにならずに、その人の生活のなかに、その人の心のなかに、ひっそりと消えていったであろう言葉を、クリックで画面を切り替えながら読み集めていると、なんだか人のゴミ箱を漁ってその住人の生活を想像しているような、見てはいけないものを覗いてしまっているような、素敵な窃視の気分になれる。
もちろん、ただ人の作ったものを見るだけでなく、僕自身もサイトを作り、そこに毎日のように文章を書いている。どうやったらもっと多くの人に見て貰えるのかなあと考えたりもする。
ランキングサイトなどに登録してみたものの、最初に少しアクセスが増えただけで、今はさほど役にはたってはいないと、アクセス解析ツールが教えてくれていた。
やっぱり、宣伝めいた何かをした方が良いのかしらん。もっと、ウケそうなことを書いたら良いのかしらん。あっ、それでは意味がない。僕は、この暗く狭く冷たい部屋でねちねちと堆積してしまった脳の内側のものを、むやみやたらと他人になすりつけたいのであって、みんなが喜ぶ楽しくさわやかな何かを笑顔で配布したいのではないのです。愛想笑いも小粋なジョークもやりたかないよ。とすると、やはり、ひたすら毎日書く他ない。パソコンに向かって、キーボードを打ち続ける他ない。
そういう具合に夢中になっていたから、出来れば起きている間中モニターに向かっていたかったのだが、人生というものは忙しい。
今まさに僕の家庭は崩壊の時期を迎えており、長男である僕は、そのためにあれやこれやとしなくてはならないことがあった。
昼になると僕は硬い床の上の寝袋から起き出す。そこは、居酒屋の二階部分、宴会用の座敷に隣接した事務所であり、その居酒屋こそが僕の現在の職場なのである。
元々そこは父親がサイドビジネスとして経営を始めた居酒屋なのだけれども、その父親が本業を放棄して家を出奔してしまったため、こちらがメインの収入源となってしまったから、残った家族で経営していかなければ僕らの収入は途絶えてしまう。
そこで、大学を辞めてすることのなかった僕は、毎日そこでの労働に汗を流しているのだ。
出勤すると、まず僕はレジの裏の倉庫に置いてある洗濯済みの、紺色の作務衣に着替える。これが厨房スタッフのユニフォームであり、これを身につけた僕の立ち姿はなかなかシュッとしている。働く男という感じがする。
アルバイトがやって来る前に、本部のロジステによって配送された、冷凍タコ唐やら、たこわさやら、冷凍マグロのサクやらを冷凍庫のしかるべき場所に仕舞い、冷蔵庫の中の使いかけの食材をチェックする。そうしているうちにホールスタッフの女の子などが来て開店するのだが、平日ならば開店早々に客が入ることはまずないので、のんびり仕込みをしたり、ぼんやりインターネットのことを考えて時間を潰す。ゴールデンタイムが近づく頃には厨房のアルバイトがやって来るので、混雑によって殺到し始めるオーダーを二人で捌いてゆくことになる。
これが、弟の崇が居ない二人シフトの時の仕事の流れで、崇が出勤する場合は、彼が開店前の作業を行い、僕は開店直前に出勤することになる。崇は僕が入店する前からここで働いており、僕より仕事が出来たので、一緒に働く場合は彼が刺し場に立つ。
今日はその崇の出勤日であったが遅刻をするという連絡があり、僕が先に出勤して準備を済ませなくてはならなくなった。裏口を入ったところに山と積まれた段ボール箱やらを整理していると、母親がやって来て、父親とは離婚の方針で進めることになったと、ひそひそ声で報告をして来る。
彼女は昼間のうちに、知り合いの税理士のところへ行っていたらしい。僕も会ったことがある、温厚そうな人物で、僕がひたすらに離婚をした方がいいと母を説得している姿を見て、苦笑していたのが印象的だ。
「出て行った人が遊んでるのに、この店でみんなで働いてるのが馬鹿らしくなっちゃった。来年には店を閉めて、家も出ようと思うの」
「それでいいんじゃないの」
僕が軽く答えて作業に戻ろうとすると、
「悟はどうするの?」
「その時家を出るよ」
「何をするか決まってる?」
「決まってないけど、何かあるでしょ。居酒屋の兄ちゃんをずっとやりたいとは思ってないし」
言うと、母親は困惑した顔をする。投げやりに聞こえたのかもしれないが、そういうつもりはない。
やがてアルバイト達が出勤し、客も入って店内が賑わって来るのだが、崇はなかなか出勤して来ない。他のことはいい加減だが仕事に関してはきっちりしているあいつにしては珍しい。何かあったのかと気にしていると、厨房アルバイトの亮介がにやにやしながら話しかけてくる。
「この間の女の人、今日は来ませんね」
「そうだね」
「悟さんが冷たくするから、いやになっちゃったんじゃないですか?」
「そうかもね」
「あの人、どういう知り合いなんですか?」
「中学生の時、同じ部活だったんだよ」
「あの人、悟さんに会いに来てたんですよ」
「そんなわけないだろう」
と言ったが、彼の言う通りであろうというのは僕も察している。
僕と彼女は中学生時代の剣道部を三年間一緒に過ごした間柄であり、帰る方向が一緒なので、しばしば同じ道を歩いて帰ることになった。
彼女は僕の歩く五十メートルほど前を歩く。すると、僕もそれを意識しないわけにはいかないから、何か乱暴な声をかける。彼女はそれに、怒ったように返事をする。かといって、その子は足を速めて去ってしまうわけでもなく、いつも、声をかければすぐ聞こえるような距離を保つのだ。
そしてまたある時は、髪型を変えたらわざわざ僕に感想を求めて来たりもした。周りにいる生徒の耳目が気になる僕が「似合ってない」と、つっけんどんに言うと、怒って更衣室に戻り、元の髪型に戻して来たものだ。
相手が自分を意識しているのではないかと、薄々は気がついていたが、理由の思い当たらない僕は確信が持てないまま時間が過ぎて、そして、中学時代最後の春休みのことだ。
これから高校へ行って離れ離れになってしまうということで男同士で家に集まって泊まり、遊んでいた。そこに、彼女は双子の妹を使って手作り弁当を届けて来たのである。この時も僕は、恥ずかしがって手をつけられず、そのまま突っ返してしまったのだ。
あれから六年が過ぎた。しばらく遠くで暮らしていた僕がこの街に戻るのは久しぶりなのだが、どこで噂を聞きつけたのか、彼女はこの店を訪ね、厨房で働く僕に満面の笑みで話しかけて来たのである。
それに対し僕は、かつての弁当や髪型に対する仕打ちを気にしつつも、仕事を邪魔するなよ馬鹿野郎、と、かつてと同じように邪険に接していた。
「もっと優しくしたらいいのに」
亮介がそう言うとおりだ。まったく、なんであんなに勿体ないことをしてしまうのだろう? 久しぶりに見た彼女は、体型も大人らしくなって、化粧なども上手くなって、ちっとも悪くない。むしろ好ましい。昔だってそうは思っていたのだ。
ならば、ここは本能の命じるままに素直に欲情をすればいいのだ。どうせ僕なぞ、休みの日は死んだような目で文章を書いているだけで、人間らしいことなど何もしていない。せめて、まともな挨拶くらいは返したっていい。
しかし、そんなことをしてなんの意味があるのだろうという気もする。この先僕は、一家離散をして、何もなくなってしまう。この街を出て、どこへ行くのかもわからない。こうして、まがりなりにも人間らしくしていられるのもあと僅かなのだ。今更態度を変えても、どうにもならない。
第2回に続く