よしりん師範、木蘭師範、みなぼん編集長、スタッフの皆様、執筆・編集・配信ありがとうございます。 今回の「ゴー宣」と『大東亜論』の「一人でいて寂しくない人間になれ」で思い出したことがあります。新ゴー宣の「安易なケータイ関係には期待しない」というタイトルの章だったと思いますが、四六時中ケータイをいじっている親戚の少女が訪ねてきた話です。ケータイを放せないのは「自分は皆の関心の中心にいる」ことを確認したいからだという見事な分析でした。また別のくだりで、夜遊びしてきた娘を叱ろうとした父親が「あんたに私を怒る資格があるの?」と言われて絶句し、孤独に自分を縛ってきた者こそがこの社会を牽引することに気付くだろうと続きます。その章は孤独に自分を縛っている恐るべき子たちがいるはずだと結ばれていました。 >「何でも冷笑するニヒリズムの『価値相対主義』を楽しむ者と・・・一切の風刺も許さない『価値絶対主義』に走る者の両極端に分かれている」 マジを嗤うタイプの人は常に物事を相対化・客観視する立場に自分を置き、笑いの対象と笑う自分というように隔絶することで自己防衛しながら自分はマジにならず、社会的責任からも上手く逃げる傾向にあります。一方マジにのめり込むタイプの人は自己客観視が苦手な傾向の人が多く、他人から「あいつイタイ」という目で見られても気づかず、社会的責任を負いたい気は満々だけど能力不足という場合も逆に自分を認めない社会に対して反感を持ちがちです。この大きく分けた2つのタイプの人種は70年代までは家族・職場・地域といった共同体の中で交流できていました。そしてまた自己と他者を共に客観視でき、目標のために自分を縛ってマジにもなれる少数者が共同体の中心に存在し、このような人が社会を牽引してきたものと思われます。 しかし80年代半ばからのバブル景気で地に足のつかないノリが社会を席巻すると、相対主義者はその状況を客観的に楽しみましたが、ノリについていけない絶対主義者は自己の主観に基づく価値(多くはオタク的価値でその一部がオウム)に埋没し、結果社会に断層が生まれました。さらにバブルが崩壊した90年代からの大不況・震災・オウム事件などを契機とするショックドクトリンで米国発の構造改革が加速し、あらゆる共同体が崩壊に向かった結果2つの人種は交流の場を完全に失ったわけです。ここまで断絶が深刻になると、崩壊していく共同体の中で成員たちがマジになれるほどの共通の目標=公的な価値を提示することは難しくなり、これまで社会を牽引してきた少数者にも為す術がないのかもしれません。現代社会においてマジな夢を見続けられる数少ない例の一つはAKB共同体の少女たちでしょう。 >「会社という共同体、地域共同体から家族共同体までが崩壊していく過程で、砂粒の個が、『個人』には成りきれず、寂しい『私』となって『絆』や『仲間』を求めている」 結局どうとでも取れるポエムとは公的な意味や価値の無い空虚な代物です。人々は絶対的価値やマジを求めているのに、価値相対的なポエムで自分を誤魔化しながら、何者かから提供されるニセモノに満足するしかないわけです。無価値な不動産を価値ありげに見せたり、無意味な条例を有効に見せたり、社員をこき使うブラック企業を夢のある職場に見せたりする役割をポエムは果たしているわけです。繋がりの希薄な時代におけるブラックな現場のポエマーたちは、一瞬でも他人と繋がれる錯覚に希望を見出すのでしょうか。そしてヘイトスピーカーたちの似非ナショナリズムがポエムと同じ作用を持つという分析は見事だと思いました。ブラック企業で働くつらさをポエムで叫んだり、不遇感をナショナリズムで誤魔化して差別語を叫んだりするよりも、AKBのマジな少女を応援している方がよほど健全です。 >「『本気(マジ)』と『パロディ』のバランスをとる柔軟さが求められる」 これはマジに嵌りつつ自己客観視もできる人格ということでしょうか。上記で「新ゴー宣」のある章を引いて書きましたが、自分を孤独に縛ることができ、そうして社会を牽引する力を蓄える少数者とはそのような人格だと考えます。『大東亜論』における頭山満は全社員がマジの塊のような玄洋社において誰よりも熱くマジでありながら最も冷徹に自他を客観視し、玄洋社内部の問題にも国家の大問題にも正しい対処法を講じていきます。そうして頭山は明治の日本社会を牽引していきました。現代日本においては徐々によしりん師範が社会を牽引しつつあるのかもしれません。 「ザ・神様」はいよいよオオクニヌシとスクナビコナの別れが近づいているのでしょうか。失って初めてその人の重要さが分かるというものですね。最初スクナビコナが登場したときは何て厚かましくて傍若無人なキャラだと思ったものですが、こんな関係も「自分を一番自由にしてくれる不自由」(戦争論)な束縛=共同体(たった二人ですが)だったわけです。 孤独に自分を縛るためには、実は良き共同体に属していることが必要 na85
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よしりん師範、木蘭師範、みなぼん編集長、スタッフの皆様、執筆・編集・配信ありがとうございます。
今回の「ゴー宣」と『大東亜論』の「一人でいて寂しくない人間になれ」で思い出したことがあります。新ゴー宣の「安易なケータイ関係には期待しない」というタイトルの章だったと思いますが、四六時中ケータイをいじっている親戚の少女が訪ねてきた話です。ケータイを放せないのは「自分は皆の関心の中心にいる」ことを確認したいからだという見事な分析でした。また別のくだりで、夜遊びしてきた娘を叱ろうとした父親が「あんたに私を怒る資格があるの?」と言われて絶句し、孤独に自分を縛ってきた者こそがこの社会を牽引することに気付くだろうと続きます。その章は孤独に自分を縛っている恐るべき子たちがいるはずだと結ばれていました。
>「何でも冷笑するニヒリズムの『価値相対主義』を楽しむ者と・・・一切の風刺も許さない『価値絶対主義』に走る者の両極端に分かれている」
マジを嗤うタイプの人は常に物事を相対化・客観視する立場に自分を置き、笑いの対象と笑う自分というように隔絶することで自己防衛しながら自分はマジにならず、社会的責任からも上手く逃げる傾向にあります。一方マジにのめり込むタイプの人は自己客観視が苦手な傾向の人が多く、他人から「あいつイタイ」という目で見られても気づかず、社会的責任を負いたい気は満々だけど能力不足という場合も逆に自分を認めない社会に対して反感を持ちがちです。この大きく分けた2つのタイプの人種は70年代までは家族・職場・地域といった共同体の中で交流できていました。そしてまた自己と他者を共に客観視でき、目標のために自分を縛ってマジにもなれる少数者が共同体の中心に存在し、このような人が社会を牽引してきたものと思われます。
しかし80年代半ばからのバブル景気で地に足のつかないノリが社会を席巻すると、相対主義者はその状況を客観的に楽しみましたが、ノリについていけない絶対主義者は自己の主観に基づく価値(多くはオタク的価値でその一部がオウム)に埋没し、結果社会に断層が生まれました。さらにバブルが崩壊した90年代からの大不況・震災・オウム事件などを契機とするショックドクトリンで米国発の構造改革が加速し、あらゆる共同体が崩壊に向かった結果2つの人種は交流の場を完全に失ったわけです。ここまで断絶が深刻になると、崩壊していく共同体の中で成員たちがマジになれるほどの共通の目標=公的な価値を提示することは難しくなり、これまで社会を牽引してきた少数者にも為す術がないのかもしれません。現代社会においてマジな夢を見続けられる数少ない例の一つはAKB共同体の少女たちでしょう。
>「会社という共同体、地域共同体から家族共同体までが崩壊していく過程で、砂粒の個が、『個人』には成りきれず、寂しい『私』となって『絆』や『仲間』を求めている」
結局どうとでも取れるポエムとは公的な意味や価値の無い空虚な代物です。人々は絶対的価値やマジを求めているのに、価値相対的なポエムで自分を誤魔化しながら、何者かから提供されるニセモノに満足するしかないわけです。無価値な不動産を価値ありげに見せたり、無意味な条例を有効に見せたり、社員をこき使うブラック企業を夢のある職場に見せたりする役割をポエムは果たしているわけです。繋がりの希薄な時代におけるブラックな現場のポエマーたちは、一瞬でも他人と繋がれる錯覚に希望を見出すのでしょうか。そしてヘイトスピーカーたちの似非ナショナリズムがポエムと同じ作用を持つという分析は見事だと思いました。ブラック企業で働くつらさをポエムで叫んだり、不遇感をナショナリズムで誤魔化して差別語を叫んだりするよりも、AKBのマジな少女を応援している方がよほど健全です。
>「『本気(マジ)』と『パロディ』のバランスをとる柔軟さが求められる」
これはマジに嵌りつつ自己客観視もできる人格ということでしょうか。上記で「新ゴー宣」のある章を引いて書きましたが、自分を孤独に縛ることができ、そうして社会を牽引する力を蓄える少数者とはそのような人格だと考えます。『大東亜論』における頭山満は全社員がマジの塊のような玄洋社において誰よりも熱くマジでありながら最も冷徹に自他を客観視し、玄洋社内部の問題にも国家の大問題にも正しい対処法を講じていきます。そうして頭山は明治の日本社会を牽引していきました。現代日本においては徐々によしりん師範が社会を牽引しつつあるのかもしれません。
「ザ・神様」はいよいよオオクニヌシとスクナビコナの別れが近づいているのでしょうか。失って初めてその人の重要さが分かるというものですね。最初スクナビコナが登場したときは何て厚かましくて傍若無人なキャラだと思ったものですが、こんな関係も「自分を一番自由にしてくれる不自由」(戦争論)な束縛=共同体(たった二人ですが)だったわけです。
孤独に自分を縛るためには、実は良き共同体に属していることが必要 na85