岸端編集長、小林師範、泉美師範、今週も配信ありがとうございます。 まずは、「ザ・神様」の感想から。今週の「ザ・神様」を読んで、無性に温泉に入りたくなったのは私だけでしょうか。首都圏は相変わらず肌寒い日々が続いていて、時にはスクナビコナのように寒さのあまりに「仮死」状態になってしまう場合があります。その時に浸かる風呂ときたら「あー生き返る」という気持ちで満たされてしまい、スクナビコナが生き返った時はあの時の「生き返る」という気持ちを思い出してしまいました。そして、温泉に浸かるとこれが風呂と違い、関節痛や打撲なんかも不思議と回復してしまうのですよね。当然、息苦しさも取れて後は布団に入って寝れば体調は万全になります。 しかし、スクナビコナが生き返ったと思ったら突然の別れ!やっぱり、「ザ・神様」は目が離せません! 社会のポエム化について、小林師範が指摘するまでもなく、伝統行事などを除いて近所でも何かと行事や呼びかけがあると、ポエム化した文句で人々の関心を寄せようとする行為が見え見えな場合があります。そんなことする暇があるんだったらチラシでも配るなり、通行人に自由にとってもらう様にしてそこに詳細な説明を書けばいいのになと思うのですが、チラシにもポエム化した宣伝文句で埋まっていて正直、うんざりします。 このような状態になった背景には、共同体の崩壊は勿論の事、貨幣に異常な権力が芽生えたからなのではないのかと思うようになりました。共同体がしっかりしていた頃は御惣菜や食料品、燃料の御裾分けや物々交換が当たり前で、商店街でも常連さんにはおまけがつくなど、其処にはお金では買えない共同体が生まれましたし、村民でも土地や家の貸し借りには土地代や家賃の支払いや手続きも持ち主と借主の間で法や金銭に縛られることなく、自由な条件で貸し借りができて、さらに、もし一件の農家で不作になったとしても別の豊作な一軒から分けてもらい、一年を越すことが出来ました。これは金の貸し借りでも同じです。しかし、近代化が進み、近代化産業が進むと国家が国民に税金を取る必要が出てきたことから、これら共同体を破壊し、国民一人一人から貨幣による税金の支払いが必要となり、その結果、これまで共同体で得てきた自給自足や物々交換からすべての生活を貨幣に依存していくようになってきます。このような状況になると、これまで物々交換や自給自足で得てきた物資は勿論、土地や水などの生活必須品にまで貨幣が必要になり、さらには労働の目的も生活をしていくための労働から貨幣を得るための労働に変わり、共同体の中で得ていた個人の自由は貨幣によって完全に制限されてしまうことになります。 この結果、貨幣にならない共同体は完全に解体されていく反面、貨幣さえあれば全てが手に入るという思想が入り込み、この結果、共同体にとって必須である信用という概念も失い、人々はより一層、寂しさを強いられる社会で暮らすこととなるわけです。 社会における数々のポエム化は貨幣に全ての生活要素を依存するという近代化社会の負の遺産を表している一つの重要な現象であると今回の「ゴー宣」を読んで思いました。都市でも近年は共同体を取り戻そうと、少しでも余裕のある大人たちは必至で飲食店などの娯楽施設でたまり場を作っているという話を聞きます。要するに、都市内でも、共同体を求めて「村化」が進んでいるというのです。ポエム化、村化、そしてネトウヨ、自己啓発居酒屋に一致していることは、近代化社会の限界が来ているということで、共同体を作る余裕のある大人は村化を求めて、貨幣と時間を費やして村化をめざし、ポエム化したネトウヨや自己啓発居酒屋など、貨幣と時間に余裕のない人々は根拠のないポエムと「愛国心」によって共同体の崩壊によって生じた堪え切れない寂しさから忘れようと自己暗示をかけて、なんとか自分自身を抑えているわけです。 家の近所でも事あるごとに怒鳴り散らす老人がいまして、その老人は金を払ってまで同年代の老人たちを家に呼び寄せて交流を深めていますが、この現象は後継ぎだったはずの息子に経営権を完全に取られて自分の店から完全に追い出されて仕事を失い、暮らしの資金も息子家族に完全に依存する形になってしまい、さらに自分が住んでいる建物も別の人に手渡すことになってから現れ始めました。元々、友人がいないし、子供たちにも疎まれてしまう寂しさから必死で金で仲間を呼び寄せて、気に入らないと仲間以外の周囲に怒鳴り散らすことによって寂しさからくる鬱屈を晴らしているわけです。ネトウヨやポエム化自己啓発に耽っている若者の周囲にはこのような老人や大人がきっと多いのでしょう。そして、貨幣さえあれば生きていける反面、貨幣に絶対に依存し、貨幣に縛られている世の中に老若男女問わず、寂しさを感じているのかもしれません。ポエム化自己啓発とネトウヨは近代化グローバル社会における民衆の現象なのだと思いました。 一方でこれらポエム化自己啓発やネトウヨなどの本気を冷笑する冷笑主義も結局は貨幣を基準に考えているからこそ、冷笑にふけることが出来るのではと思います。これが自分の生活の要である貨幣に関われば冷笑なんてとてもしていられないでしょうし、貨幣さえあれば自由という近代化社会によって生じた思想に大きく影響を受けているという点ではポエム自己啓発やネトウヨと同じ穴の貉であると言わざるを得ません。自分たちに共同体が生まれたときからなく、経験もしたことすらない上に、周囲にいるのは寂しさによって耐えられなくなった大人ばかりであり、貨幣によって自由が縛られている社会ではそんな縛られている社会に諦めという冷笑と虚脱感に身を沈めるか、ポエム自己啓発とネトウヨによって鬱憤を晴らすかの選択しかもはや与えられていないと思います。 もちろん、このような世の中でも家族や周囲の人々に支えられ、思考することを止めない人々が多くいることも事実で、これ以上、多くの人々を堪えられぬ寂しさから解放させるためにも、「一人でいても寂しくない人間」が必要となってくるでしょう。そして、「一人を以て千万人に当たる」人物を少しでも多く輩出するためにも共同体の再構築と現代技術を駆使した伝統回帰にむけて、各個人が頑張るしか、道はないと思います。 「大東亜論」はそのために必読書である。
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岸端編集長、小林師範、泉美師範、今週も配信ありがとうございます。
まずは、「ザ・神様」の感想から。今週の「ザ・神様」を読んで、無性に温泉に入りたくなったのは私だけでしょうか。首都圏は相変わらず肌寒い日々が続いていて、時にはスクナビコナのように寒さのあまりに「仮死」状態になってしまう場合があります。その時に浸かる風呂ときたら「あー生き返る」という気持ちで満たされてしまい、スクナビコナが生き返った時はあの時の「生き返る」という気持ちを思い出してしまいました。そして、温泉に浸かるとこれが風呂と違い、関節痛や打撲なんかも不思議と回復してしまうのですよね。当然、息苦しさも取れて後は布団に入って寝れば体調は万全になります。
しかし、スクナビコナが生き返ったと思ったら突然の別れ!やっぱり、「ザ・神様」は目が離せません!
社会のポエム化について、小林師範が指摘するまでもなく、伝統行事などを除いて近所でも何かと行事や呼びかけがあると、ポエム化した文句で人々の関心を寄せようとする行為が見え見えな場合があります。そんなことする暇があるんだったらチラシでも配るなり、通行人に自由にとってもらう様にしてそこに詳細な説明を書けばいいのになと思うのですが、チラシにもポエム化した宣伝文句で埋まっていて正直、うんざりします。
このような状態になった背景には、共同体の崩壊は勿論の事、貨幣に異常な権力が芽生えたからなのではないのかと思うようになりました。共同体がしっかりしていた頃は御惣菜や食料品、燃料の御裾分けや物々交換が当たり前で、商店街でも常連さんにはおまけがつくなど、其処にはお金では買えない共同体が生まれましたし、村民でも土地や家の貸し借りには土地代や家賃の支払いや手続きも持ち主と借主の間で法や金銭に縛られることなく、自由な条件で貸し借りができて、さらに、もし一件の農家で不作になったとしても別の豊作な一軒から分けてもらい、一年を越すことが出来ました。これは金の貸し借りでも同じです。しかし、近代化が進み、近代化産業が進むと国家が国民に税金を取る必要が出てきたことから、これら共同体を破壊し、国民一人一人から貨幣による税金の支払いが必要となり、その結果、これまで共同体で得てきた自給自足や物々交換からすべての生活を貨幣に依存していくようになってきます。このような状況になると、これまで物々交換や自給自足で得てきた物資は勿論、土地や水などの生活必須品にまで貨幣が必要になり、さらには労働の目的も生活をしていくための労働から貨幣を得るための労働に変わり、共同体の中で得ていた個人の自由は貨幣によって完全に制限されてしまうことになります。
この結果、貨幣にならない共同体は完全に解体されていく反面、貨幣さえあれば全てが手に入るという思想が入り込み、この結果、共同体にとって必須である信用という概念も失い、人々はより一層、寂しさを強いられる社会で暮らすこととなるわけです。
社会における数々のポエム化は貨幣に全ての生活要素を依存するという近代化社会の負の遺産を表している一つの重要な現象であると今回の「ゴー宣」を読んで思いました。都市でも近年は共同体を取り戻そうと、少しでも余裕のある大人たちは必至で飲食店などの娯楽施設でたまり場を作っているという話を聞きます。要するに、都市内でも、共同体を求めて「村化」が進んでいるというのです。ポエム化、村化、そしてネトウヨ、自己啓発居酒屋に一致していることは、近代化社会の限界が来ているということで、共同体を作る余裕のある大人は村化を求めて、貨幣と時間を費やして村化をめざし、ポエム化したネトウヨや自己啓発居酒屋など、貨幣と時間に余裕のない人々は根拠のないポエムと「愛国心」によって共同体の崩壊によって生じた堪え切れない寂しさから忘れようと自己暗示をかけて、なんとか自分自身を抑えているわけです。
家の近所でも事あるごとに怒鳴り散らす老人がいまして、その老人は金を払ってまで同年代の老人たちを家に呼び寄せて交流を深めていますが、この現象は後継ぎだったはずの息子に経営権を完全に取られて自分の店から完全に追い出されて仕事を失い、暮らしの資金も息子家族に完全に依存する形になってしまい、さらに自分が住んでいる建物も別の人に手渡すことになってから現れ始めました。元々、友人がいないし、子供たちにも疎まれてしまう寂しさから必死で金で仲間を呼び寄せて、気に入らないと仲間以外の周囲に怒鳴り散らすことによって寂しさからくる鬱屈を晴らしているわけです。ネトウヨやポエム化自己啓発に耽っている若者の周囲にはこのような老人や大人がきっと多いのでしょう。そして、貨幣さえあれば生きていける反面、貨幣に絶対に依存し、貨幣に縛られている世の中に老若男女問わず、寂しさを感じているのかもしれません。ポエム化自己啓発とネトウヨは近代化グローバル社会における民衆の現象なのだと思いました。
一方でこれらポエム化自己啓発やネトウヨなどの本気を冷笑する冷笑主義も結局は貨幣を基準に考えているからこそ、冷笑にふけることが出来るのではと思います。これが自分の生活の要である貨幣に関われば冷笑なんてとてもしていられないでしょうし、貨幣さえあれば自由という近代化社会によって生じた思想に大きく影響を受けているという点ではポエム自己啓発やネトウヨと同じ穴の貉であると言わざるを得ません。自分たちに共同体が生まれたときからなく、経験もしたことすらない上に、周囲にいるのは寂しさによって耐えられなくなった大人ばかりであり、貨幣によって自由が縛られている社会ではそんな縛られている社会に諦めという冷笑と虚脱感に身を沈めるか、ポエム自己啓発とネトウヨによって鬱憤を晴らすかの選択しかもはや与えられていないと思います。
もちろん、このような世の中でも家族や周囲の人々に支えられ、思考することを止めない人々が多くいることも事実で、これ以上、多くの人々を堪えられぬ寂しさから解放させるためにも、「一人でいても寂しくない人間」が必要となってくるでしょう。そして、「一人を以て千万人に当たる」人物を少しでも多く輩出するためにも共同体の再構築と現代技術を駆使した伝統回帰にむけて、各個人が頑張るしか、道はないと思います。
「大東亜論」はそのために必読書である。