9/11つながりですが、Tokyo Zawinul Bach Reunion の『Drive In High』がとても好きです。そういえば菊地さんはコロナ禍だったはずのこの頃からラップの中でパレスティナの名を出していたんだなとか、そもそも今この瞬間にも聴かれているであろう2014年夏の夜電波の『Sparkle』のMCでもガザのネームドロップはしていたんだけどエモさいっぱいで聴くとそこだけ逃しちゃうのかもという解離の問題とか、色々触発されるのですが、ザヴィヌルバッハがこういう「ふつうの、何事もない夜」向けの曲をやっているのが新鮮で何度も聴いてしまいます(そんな夜にもどこかで惨事が続いているというのが音楽的な世界把握で、ずっと続いていたはずのことを単独のトピックとして切り出して問題視したがるのがソーシャルメディア的な作法であることも)。 最近また、政治トピックについて論じたがり屋の「テロ」の用法が輪をかけてひどくなっているので、「リベラルこれできる?」ではありませんが、フランス革命史をもう一度おさらいして、「terreur」の現象的初出はフランス革命下でのフランス人によるフランス人の処刑(つまり「外部の異なる政治または宗教勢力からの突発的な武力攻撃」ではなく「単一の国内で世の中を変えようとした人間たちの内輪揉め」)に基づくことを確認して、じゃあこの出来事は terreur の定義にあてはまるかな? きみが今までやってきた「テロ」の用法はどうかな〜? みたいな詰問をいつでもできるようになっておくべきかもしれないと思い、もう一度フランス革命史をおさらいするために、最近日本語訳が出た新しいロベスピエールの伝記(ジャン=クレマン・マルタン著)を手に取ったのですが、これを読んで驚きました。「“恐怖政治” なるものは革命期フランスの法制の中には存在しなかった」という内容だったからです(笑) 「そもそも無かった」なんて修正主義は右でも左でもやりそうですが、この本の要旨は「ロベスピエールはフランス革命のスケープゴートの役割を演じ、再構成された共同体を一致団結させた」というもので、その革命過程のろくでもなさを立証するために数多くの国内虐殺事件やデマの横行を検証するという、あらゆる政治ポジョンの人間にとっても役立つであろうものでした。「そうかあ、こんな大雑把な革命イメージで自国を誇ってたんならあの恥ずかしいパリ五輪も納得だな」と思わざるを得ないもので、「terreur の革命史的に正確な定義を得ておこう」という自分のちっぽけな企図などはどうでもよくなってしまいました(笑) ただ、最初から実態として存在しない「terreur」をロベスピエールに押し付けて処刑することで清算した気になったフランス人の姿が、そもそも自分で蒔いた種の収穫によって「テロだ!」と騒ぎ立てて国軍を派遣して虐殺する21世紀USA人の心性の先駆けになっている。ということは明らかで、人間の集団性は常に新しい生贄を選ばないと団結を保てない、というフロイトのリビドー理論が正しいものであることを再確認しました。 菊地さんによるイーストウッド『アメリカン・スナイパー』評は、↑に述べたことをもっと簡潔に射抜くもので、未だに「戦争という表象への(冷静な吟味無しでの)条件反射」に関する論としてクラシックだと思います。あのカッコいい西部劇に「戦争の悲惨さ」みたいなのを見ちゃった人たちは今、どのような事件に対しどのように反応しているんだろうか? と思うとともに、いま20代くらいの人々による『アメリカン〜』はキャンセルとまでは言わずとも「ナシだろ」くらいの評価になっているらしく、時代は進んでいるなと思います。 ただこれは蛇足ですが、『アメリカン〜』評でも指摘されていた「USA式の戦争をモデルにして “PTSD” を語るのはおかしい」という点については未だそのままで、塚本晋也の新作はまだ良いかもしれないとしても、ノーランの『オデュッセイア』に関し「オデュッセウスはPTSDだ」という言い方が平然とまかり通っており、アラン・ヤングが何十年も前に批判した「PTSDという症名が与えられる過程こそがそもそも恣意的で歴史的に限定されたものだ(そこから遡ってシェイクスピアやギリシア劇の考察に適用してはいけない)」という重要な点までもがすごい勢いで押し流されているので、やっぱり人間は政治的事象より一歩手前の「自分や他人の気持ちのあり方」に関する手っ取り早い語句を無批判に歓迎したがるのだなあ、と思います。
「ポップ・アナリーゼ」の公開授業(動画)、エッセイ(グルメと映画)、日記「菊地成孔の一週間」など、さまざまなコンテンツがアップロードされる「ビュロ菊だより」は、不定期更新です。
音楽家/文筆家/音楽講師 ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。
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9/11つながりですが、Tokyo Zawinul Bach Reunion の『Drive In High』がとても好きです。そういえば菊地さんはコロナ禍だったはずのこの頃からラップの中でパレスティナの名を出していたんだなとか、そもそも今この瞬間にも聴かれているであろう2014年夏の夜電波の『Sparkle』のMCでもガザのネームドロップはしていたんだけどエモさいっぱいで聴くとそこだけ逃しちゃうのかもという解離の問題とか、色々触発されるのですが、ザヴィヌルバッハがこういう「ふつうの、何事もない夜」向けの曲をやっているのが新鮮で何度も聴いてしまいます(そんな夜にもどこかで惨事が続いているというのが音楽的な世界把握で、ずっと続いていたはずのことを単独のトピックとして切り出して問題視したがるのがソーシャルメディア的な作法であることも)。
最近また、政治トピックについて論じたがり屋の「テロ」の用法が輪をかけてひどくなっているので、「リベラルこれできる?」ではありませんが、フランス革命史をもう一度おさらいして、「terreur」の現象的初出はフランス革命下でのフランス人によるフランス人の処刑(つまり「外部の異なる政治または宗教勢力からの突発的な武力攻撃」ではなく「単一の国内で世の中を変えようとした人間たちの内輪揉め」)に基づくことを確認して、じゃあこの出来事は terreur の定義にあてはまるかな? きみが今までやってきた「テロ」の用法はどうかな〜? みたいな詰問をいつでもできるようになっておくべきかもしれないと思い、もう一度フランス革命史をおさらいするために、最近日本語訳が出た新しいロベスピエールの伝記(ジャン=クレマン・マルタン著)を手に取ったのですが、これを読んで驚きました。「“恐怖政治” なるものは革命期フランスの法制の中には存在しなかった」という内容だったからです(笑)
「そもそも無かった」なんて修正主義は右でも左でもやりそうですが、この本の要旨は「ロベスピエールはフランス革命のスケープゴートの役割を演じ、再構成された共同体を一致団結させた」というもので、その革命過程のろくでもなさを立証するために数多くの国内虐殺事件やデマの横行を検証するという、あらゆる政治ポジョンの人間にとっても役立つであろうものでした。「そうかあ、こんな大雑把な革命イメージで自国を誇ってたんならあの恥ずかしいパリ五輪も納得だな」と思わざるを得ないもので、「terreur の革命史的に正確な定義を得ておこう」という自分のちっぽけな企図などはどうでもよくなってしまいました(笑) ただ、最初から実態として存在しない「terreur」をロベスピエールに押し付けて処刑することで清算した気になったフランス人の姿が、そもそも自分で蒔いた種の収穫によって「テロだ!」と騒ぎ立てて国軍を派遣して虐殺する21世紀USA人の心性の先駆けになっている。ということは明らかで、人間の集団性は常に新しい生贄を選ばないと団結を保てない、というフロイトのリビドー理論が正しいものであることを再確認しました。
菊地さんによるイーストウッド『アメリカン・スナイパー』評は、↑に述べたことをもっと簡潔に射抜くもので、未だに「戦争という表象への(冷静な吟味無しでの)条件反射」に関する論としてクラシックだと思います。あのカッコいい西部劇に「戦争の悲惨さ」みたいなのを見ちゃった人たちは今、どのような事件に対しどのように反応しているんだろうか? と思うとともに、いま20代くらいの人々による『アメリカン〜』はキャンセルとまでは言わずとも「ナシだろ」くらいの評価になっているらしく、時代は進んでいるなと思います。
ただこれは蛇足ですが、『アメリカン〜』評でも指摘されていた「USA式の戦争をモデルにして “PTSD” を語るのはおかしい」という点については未だそのままで、塚本晋也の新作はまだ良いかもしれないとしても、ノーランの『オデュッセイア』に関し「オデュッセウスはPTSDだ」という言い方が平然とまかり通っており、アラン・ヤングが何十年も前に批判した「PTSDという症名が与えられる過程こそがそもそも恣意的で歴史的に限定されたものだ(そこから遡ってシェイクスピアやギリシア劇の考察に適用してはいけない)」という重要な点までもがすごい勢いで押し流されているので、やっぱり人間は政治的事象より一歩手前の「自分や他人の気持ちのあり方」に関する手っ取り早い語句を無批判に歓迎したがるのだなあ、と思います。