菊地さんの「勝ち組」定義を読むたびに噴き出してしまいます(笑) 初めて読んだのは『スペインの宇宙食』だった気がしますが、太平洋戦争で日本が勝ったと(それも東南アジアの諸島に在って)思い込んでいる人々のことを「ラテンアメリカ不条理文学のような」と形容しておられた(『スペイン〜』が手元に無いので正確な引用ができませんが)のが未だに印象深く、戦後日本がほとんど持てなかったラテン性を「勝ち組」の人たちだけが維持できたという見立てはとても音楽的に美しいと思います。クストリッツァの『アンダーグラウンド』はセルビア映画なのかもしれませんが、あれも「勝ち組」たちの共同性の話であり、かなり強固なラテン性を感じます。 ところで「勝共連合」という、安倍殺害事件あたりで日本でも知られた団体名がありますが、これはもちろん「共産主義に勝つ連合」を意味しているのでしょうが、漢語文の読み方によっては「共産主義の連合が勝つ」とも解釈可能で、集団的なリビドーで育てられた仮想敵に勝利するよりもむしろ圧倒されたいという、ファンタジックな萌え狂いが自白的に表出したネーミングのようにも思われます。これはフロイト的な「(想像上の脅威に)屈服したい」という欲望が別様にあらわれたものとして興味深いのですが、「勝共連合」のネーミングに関してこういう分析をしている人を(すくなくともXでは)一度も見たことがありません。 “わたしはこういう歌〔引用者註:ナチの行進歌〕の歌詞をときどきふと小耳に挟んで少しばかり知っていた。それはすべて極めて耳障りで、みすぼらしくて、芸術なんて言えた代物ではないと同様に民謡調からもまったくかけ離れていた──「赤軍戦線と反動勢力を打ち殺した戦友が/われらの列に加わって行進する」 これはホルスト・ヴェッセル歌の歌詞である。そこには舌を悩ませ、謎を解かなければならないところがある。ひょっとして、主語は赤軍戦線と反動勢力で、かれらに射殺された戦友が今まさに行進している「褐色の軍服を着た大隊」の兵士の頭の中に浮かんでいるのではなかろうか。〔中略〕この戦友たちは幾度かしてはならない銃殺をしたために捕えられて、心の中で憧れを抱きつつかれらのSA(突撃隊)の友と一緒に行進しているのかも知れない……一体、行進している人たちの誰が、観衆の誰がこんな文法上の、あるいは美学的なことなど考えるだろうか。” ↑は、ヴィクトール・クレムペラー著『第三帝国の言語』からの引用ですが、なぜこういう当たり前に指摘されるべき文法のおかしさが現在のネット空間では相手にされなくなってしまったのか(プロ・アマ問わず、音楽批評としては歌詞の分析ばかりされるのに)と思われてなりません。ヴィクトールはナチスも初期シオニズムも否定していた信頼できるユダヤの叡智ですが、そんな知識人が成していた政治・音楽両方の分析を現在の政治専たちが全くできなくなっているのは不気味で、既に日本語訳版がある『第三帝国の言語』が簡単には入手できなくなっている現状さえも、何か政治的に強力な知を遠ざけておきたい何者かによる陰謀ではないかと勘繰りたくなってしまいます。 やはりこういうことをちゃんと書けるのはユダヤの知識人なんだよなと思っていたら、先月にダニエル・ボヤーリン『無国家解決』の日本語版が出まして、刊行イベントには中村隆之さんも登壇されます。シオニズムを解体するよりはむしろ定義を確認することにより一新する目的で書かれた本に、フランツ・ファノンの存在が援軍として引かれていて、なおかつその内容には所謂「悩める知識人」のムードが一切ない・ユダヤ的な執拗な問い直しと入り組んだユーモアが込められているという、最近読んだ中でも特に素晴らしい本でした。その本関連のイベントに中村隆之さんが関わることも含め、有効な知の連合はちゃんと動いているんだなあと感じます。
「ポップ・アナリーゼ」の公開授業(動画)、エッセイ(グルメと映画)、日記「菊地成孔の一週間」など、さまざまなコンテンツがアップロードされる「ビュロ菊だより」は、不定期更新です。
音楽家/文筆家/音楽講師 ジャズメンとして活動/思想の軸足をジャズミュージックに置きながらも、ジャンル横断的な音楽/著述活動を旺盛に展開し、ラジオ/テレビ番組でのナヴィゲーター、選曲家、批評家、ファッションブランドとのコラボレーター、映画/テレビの音楽監督、プロデューサー、パーティーオーガナイザー等々としても評価が高い。
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菊地さんの「勝ち組」定義を読むたびに噴き出してしまいます(笑) 初めて読んだのは『スペインの宇宙食』だった気がしますが、太平洋戦争で日本が勝ったと(それも東南アジアの諸島に在って)思い込んでいる人々のことを「ラテンアメリカ不条理文学のような」と形容しておられた(『スペイン〜』が手元に無いので正確な引用ができませんが)のが未だに印象深く、戦後日本がほとんど持てなかったラテン性を「勝ち組」の人たちだけが維持できたという見立てはとても音楽的に美しいと思います。クストリッツァの『アンダーグラウンド』はセルビア映画なのかもしれませんが、あれも「勝ち組」たちの共同性の話であり、かなり強固なラテン性を感じます。
ところで「勝共連合」という、安倍殺害事件あたりで日本でも知られた団体名がありますが、これはもちろん「共産主義に勝つ連合」を意味しているのでしょうが、漢語文の読み方によっては「共産主義の連合が勝つ」とも解釈可能で、集団的なリビドーで育てられた仮想敵に勝利するよりもむしろ圧倒されたいという、ファンタジックな萌え狂いが自白的に表出したネーミングのようにも思われます。これはフロイト的な「(想像上の脅威に)屈服したい」という欲望が別様にあらわれたものとして興味深いのですが、「勝共連合」のネーミングに関してこういう分析をしている人を(すくなくともXでは)一度も見たことがありません。
“わたしはこういう歌〔引用者註:ナチの行進歌〕の歌詞をときどきふと小耳に挟んで少しばかり知っていた。それはすべて極めて耳障りで、みすぼらしくて、芸術なんて言えた代物ではないと同様に民謡調からもまったくかけ離れていた──「赤軍戦線と反動勢力を打ち殺した戦友が/われらの列に加わって行進する」 これはホルスト・ヴェッセル歌の歌詞である。そこには舌を悩ませ、謎を解かなければならないところがある。ひょっとして、主語は赤軍戦線と反動勢力で、かれらに射殺された戦友が今まさに行進している「褐色の軍服を着た大隊」の兵士の頭の中に浮かんでいるのではなかろうか。〔中略〕この戦友たちは幾度かしてはならない銃殺をしたために捕えられて、心の中で憧れを抱きつつかれらのSA(突撃隊)の友と一緒に行進しているのかも知れない……一体、行進している人たちの誰が、観衆の誰がこんな文法上の、あるいは美学的なことなど考えるだろうか。”
↑は、ヴィクトール・クレムペラー著『第三帝国の言語』からの引用ですが、なぜこういう当たり前に指摘されるべき文法のおかしさが現在のネット空間では相手にされなくなってしまったのか(プロ・アマ問わず、音楽批評としては歌詞の分析ばかりされるのに)と思われてなりません。ヴィクトールはナチスも初期シオニズムも否定していた信頼できるユダヤの叡智ですが、そんな知識人が成していた政治・音楽両方の分析を現在の政治専たちが全くできなくなっているのは不気味で、既に日本語訳版がある『第三帝国の言語』が簡単には入手できなくなっている現状さえも、何か政治的に強力な知を遠ざけておきたい何者かによる陰謀ではないかと勘繰りたくなってしまいます。
やはりこういうことをちゃんと書けるのはユダヤの知識人なんだよなと思っていたら、先月にダニエル・ボヤーリン『無国家解決』の日本語版が出まして、刊行イベントには中村隆之さんも登壇されます。シオニズムを解体するよりはむしろ定義を確認することにより一新する目的で書かれた本に、フランツ・ファノンの存在が援軍として引かれていて、なおかつその内容には所謂「悩める知識人」のムードが一切ない・ユダヤ的な執拗な問い直しと入り組んだユーモアが込められているという、最近読んだ中でも特に素晴らしい本でした。その本関連のイベントに中村隆之さんが関わることも含め、有効な知の連合はちゃんと動いているんだなあと感じます。