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『ラースと、その彼女』は本当に素晴らしいですね。「弟はいつまであの症状に取り憑かれるのですか?」・「彼が必要とする限り」というセリフが予告編にも引かれていますが、あれを思い出すだけで泣いてしまいます。
「精神的に病むというのは、その主体が特定の症状を必要とし、魅惑されているからだ」←などと書くのは19世紀時点のフロイト理論で考えてすら問題があり、20世紀的精神病の当事者にこのようなことを言うべきではもちろんありませんが、しかし『ラース〜』での主人公は「外界と不可避の接触が生じた際に自分を防衛するための盾」としてリアルドールが登場し、(菊地さんのご指摘どおり)教会権力とも精神医学とも別のコミュニティが暖かく彼と折り合う流れで瘡蓋が剥がれるようにしてリアルドールへの執着(陽性転移というか、対象備給?)が消滅する。というのが、本当に美しく哀切な流れだったと思います。「どうしても必要だと思われていた物神のような対象が、それに執着する主体の変化によって、もう必要でなくなる」という型の作劇にはどうしても泣かされてしまいます(もうちょっと児童心理寄りですが、『ブリグズビー・ベア』なども)

 と同時に、「やっぱり最後に帰ってきたのはホンモノの女性でしたね」というオチが(ご指摘のとおり)今では欠点のようにも思われますね。脚本構造上、リアルドールが消滅するのは仕方ないですが、もし『ラース〜』と同じような男が異性または同性に熱烈な移入を起こして、その原因が(一対一の交際の最中で)徐々に明かされて、最終的には移入が解けて「良い友達」の2人が残る。というパターンだったら恋愛前提主義が忌避される現在にも適合するのかもしれませんね。と書いていたら、ポール・トーマス・アンダーソンの『ザ・マスター』でホアキンがやっていた役がそんなだった気がしてきました(笑)

No.3 3ヶ月前
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