『刑事コロンボ研究』執筆の前半戦が無事に決着を迎えられたようで、お祝い申し上げます。
今月の頭から hulu で『刑事コロンボ』を観始めたのですが、まず1話ごとのクオリティが当時の映画に見劣らない出来であることに驚かされました。私はなぜか(本当になぜか笑)白黒映像のドラマだとばかり思っていたので、パイロット版からTV放送用に移ってもあのクオリティを維持し得た、ピーター・フォーク本人も含むスタッフたちの能力に感銘を受けます。「ドラマだが毎話が映画のようだ」とは、『ハウス・オブ・カード』が出てきたあたりから盛んに言われ始めたクリシェですが、USAにおいては70年代からすでにそうだったのだと認識を改めさせられました。
なのですが、第4話あたりまで観て「うわあこれからも毎話90分あるのか。すごい分量だなあ」と圧倒されつつ、同時に『刑事コロンボ』序盤の作劇にあまりノれない気分もあり、菊地さんのラジオデイズにおける「パス」概念回をガイドとして、個人的に気になる回を先に観てみることにしました。まず第1シリーズ最終2話(第44〜45話)に飛んだのですが、第45話『策謀の結末 "The Conspirators”』が本当に素晴らしかったので、こちらに書かせていただきます。
本人は東欧系であるというピーター・フォーク演じるイタリア系探偵コロンボは、良心的なアイルランド支援活動家としての顔を世間に見せながら同時にIRAへの武器輸送を担うジョー・デブリン(ニュージーランド出身のクライヴ・レヴィル演: この役名 Devilin が第一次世界大戦後に独立を回復したアイルランドの首都 Dublin とほぼ同音であることは言うまでもなく、それが「Dublin の Devil」として語呂合わせになっているのでは? および、そのような役割を直接アイリッシュの俳優にではなく・同じイングランドの属国であったニュージーランド出身の俳優に演じさせることには一体どのような意味があるのか? などのトピックについてはすべて省略します)を相手にするわけですが、これら両の人物がひとつの決着を迎えるまでの流れは、とても悪魔祓い《エクソシズム》的だと思いました。祖国アイルランドの解放を願う男の思いが悪であるわけがなく・さらにイタリア(≒ローマ)とアイルランドのカトリックが全く同じであるわけもないのですが、劇中のデブリンが身を置いている行動を止めるために召喚されたのがコロンボだったというセッティングは、純カトリック的な意味での悪魔祓い《エクソシズム》の型《カタ》を思わせます。
詩的な活動家とIRA支援家というデブリン2面性を暴くために、コロンボは主に酒宴とパブ内の娯楽と詩の応酬をこなしますが、その過程をともにする2人の姿が(少なくとも表面上は)気のおけない級友のように映る。という絵面の良さが、実際は仮面劇であるところの脚本にさらなる魅力を加えていたと思います。
この過程で浮かび上がるものとして私がとくに撃たれたのは、酔い混じりにコロンボと話すデブリンがまるで「助けてほしい」と訴えているように見えたことです。実際、このエピソードはデブリンが残していた「アレ」を手掛かりとして決着しますが、「捕まらないように動いているはずの男があんな痕跡を残すなんておかしいだろ」という正気のツッコミが全く無意味に思えるのは、デブリン自身が(純フロイト的意味での)無意識裡に残していた message on a bottle にコロンボが気付き、その痕跡に呼ばれて悪魔を祓う。というエクソシズム的な型《カタ》がこの上なく強靭にエピソードの出来を支えているからだと思います。
シャーロック・ホームズ以前の「猟師の知」を、19世紀以降の精神分析とも関連する「その場にあらわれている痕跡を読み取ってそこから到来する物事を予測する能力=徴候知」に結びつけたことは、中井久夫さんがカルロ・ギンズブルグの著作から敷衍させた理論の中でも特に驚くべき業績ですが、『策謀の結末 "The Conspirators”』では文字通りデブリンの痕跡を読み取ったコロンボが一種の「治療」を行ったわけで、あのエピソードの終わりで「詰み」を取られたデブリンが(自分の計画を止められて悔しいというよりも遥かに)心穏やかに癒されて見える。という結末も含め、『策謀の結末 "The Conspirators”』は「推理モノ」という20世紀のドラマジャンルに(前述の)エクソシズムや精神分析の歴史性までをも豊かに汲んだ、素晴らしい結晶度の出来になっていると思いました。
「警察権力の役割は、癒し」とは、『ユングのサウンドトラック』で菊地さんが『エクソシスト』から抽出しておられた物語構造のなかのひとつですが、『策謀の結末 "The Conspirators”』でもコロンボが一種の悪魔祓い師としての役割を担っており、それは(前述の)イタリアン×アイリッシュ的ムードによって誘発された結果なのかもしれません。同じく菊地さんが剴切な批評を寄せておられた『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』も、私はエクソシズム映画として解釈しています。どうしても勝つ札を選んでしまう博打師であるスティーヴ・カレルが、躁的な哄笑=悲鳴を上げていたら、その救難信号を聞き受けたエマ・ストーンが助けにくる。という意味で、「自分を倒して=悪魔を祓ってくれる相手を必死で追い求める」タイプの物語類型があり、『策謀の結末 "The Conspirators”』では(前段落で述べた通り)その型《カタ》が推理モノや精神分析の歴史性にも直接根ざしているのが、最も得難いように思われます。
〔『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』はとくに思い入れ深い映画なので括弧内で脱線しますが、あの映画では、悪魔憑きであるスティーヴ・カレルを癒すことができなかった最も近い人=妻も/真正面からの勝負で悪魔を祓った他人=エマ・ストーンも、どちらも女性である。つまり「治療者は必ず男性である」というアンナ・フロイトおよびジュディス・ハーマン以前の精神分析偏向を、「悪魔憑き=患者は男性で、それを祓うことができるのもできないのも女性である」と性差を逆転させるだけのように見えて、実は「患者=男性(マッチョイズムによって拒絶するのではなく、治療者の技に身を任せる)」と「治療者=女性(相手の苦悩を除去するための主体として知能を発揮する)」両方の尊厳を余すことなく解放できている。という点が、当時のUSA平均で見ても凄まじく高いレベルのフェミニズム的達成だったと思うのですが、この点を指摘できていたのは(私が読んだ限りでは)菊地さんの評だけでした。
ちなみに、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』が舞台とする1973年は『エクソシスト』の公開年であり、『エクソシスト』の本編序盤でも女優がフェミニストではなくとも反戦活動家として演技する場面がある。というのは単なる偶然の符号に過ぎませんが、『刑事コロンボ』も含んだ70年代前半USA的磁場を明らかにするものとして記しておく価値はあると思います。〕
以上、これは完全なコロンボ素人たる私が『策謀の結末 "The Conspirators”』に見出したものを縷述しただけなので、おそらくエモ過多な誤謬が含まれている可能性も高いですが、少なくとも菊地さんのご紹介でこのエピソードに辿り着き・感銘を受けたことをお伝えしたく思います。
このエピソードを通して、私が惹かれる脚本の型《カタ》はどうもカトリシズム的テーマ(独りでどうしようもなくなっている者とそれを助ける者)を取り扱ったものばかりで、ピューリタニズム的テーマ(職業意識と背中合わせの衝迫により雁字搦めの合理化に陥る)が前面に出たものを見せられると心底どうでもよくなってしまう。という偏向に気付かされ(笑)、『刑事コロンボ』序盤のエピソードがあまり楽しめなかったのもそのせいではないかと思われるのですが(笑)、ともあれ、この知見は私による私自身の臨床のために役立てつつ、引き続きドラマを楽しんでゆこうと思います。菊地さんの『刑事コロンボ研究』の完成も楽しみにお待ち申し上げております。
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『刑事コロンボ研究』執筆の前半戦が無事に決着を迎えられたようで、お祝い申し上げます。
今月の頭から hulu で『刑事コロンボ』を観始めたのですが、まず1話ごとのクオリティが当時の映画に見劣らない出来であることに驚かされました。私はなぜか(本当になぜか笑)白黒映像のドラマだとばかり思っていたので、パイロット版からTV放送用に移ってもあのクオリティを維持し得た、ピーター・フォーク本人も含むスタッフたちの能力に感銘を受けます。「ドラマだが毎話が映画のようだ」とは、『ハウス・オブ・カード』が出てきたあたりから盛んに言われ始めたクリシェですが、USAにおいては70年代からすでにそうだったのだと認識を改めさせられました。
なのですが、第4話あたりまで観て「うわあこれからも毎話90分あるのか。すごい分量だなあ」と圧倒されつつ、同時に『刑事コロンボ』序盤の作劇にあまりノれない気分もあり、菊地さんのラジオデイズにおける「パス」概念回をガイドとして、個人的に気になる回を先に観てみることにしました。まず第1シリーズ最終2話(第44〜45話)に飛んだのですが、第45話『策謀の結末 "The Conspirators”』が本当に素晴らしかったので、こちらに書かせていただきます。
本人は東欧系であるというピーター・フォーク演じるイタリア系探偵コロンボは、良心的なアイルランド支援活動家としての顔を世間に見せながら同時にIRAへの武器輸送を担うジョー・デブリン(ニュージーランド出身のクライヴ・レヴィル演: この役名 Devilin が第一次世界大戦後に独立を回復したアイルランドの首都 Dublin とほぼ同音であることは言うまでもなく、それが「Dublin の Devil」として語呂合わせになっているのでは? および、そのような役割を直接アイリッシュの俳優にではなく・同じイングランドの属国であったニュージーランド出身の俳優に演じさせることには一体どのような意味があるのか? などのトピックについてはすべて省略します)を相手にするわけですが、これら両の人物がひとつの決着を迎えるまでの流れは、とても悪魔祓い《エクソシズム》的だと思いました。祖国アイルランドの解放を願う男の思いが悪であるわけがなく・さらにイタリア(≒ローマ)とアイルランドのカトリックが全く同じであるわけもないのですが、劇中のデブリンが身を置いている行動を止めるために召喚されたのがコロンボだったというセッティングは、純カトリック的な意味での悪魔祓い《エクソシズム》の型《カタ》を思わせます。
詩的な活動家とIRA支援家というデブリン2面性を暴くために、コロンボは主に酒宴とパブ内の娯楽と詩の応酬をこなしますが、その過程をともにする2人の姿が(少なくとも表面上は)気のおけない級友のように映る。という絵面の良さが、実際は仮面劇であるところの脚本にさらなる魅力を加えていたと思います。
この過程で浮かび上がるものとして私がとくに撃たれたのは、酔い混じりにコロンボと話すデブリンがまるで「助けてほしい」と訴えているように見えたことです。実際、このエピソードはデブリンが残していた「アレ」を手掛かりとして決着しますが、「捕まらないように動いているはずの男があんな痕跡を残すなんておかしいだろ」という正気のツッコミが全く無意味に思えるのは、デブリン自身が(純フロイト的意味での)無意識裡に残していた message on a bottle にコロンボが気付き、その痕跡に呼ばれて悪魔を祓う。というエクソシズム的な型《カタ》がこの上なく強靭にエピソードの出来を支えているからだと思います。
シャーロック・ホームズ以前の「猟師の知」を、19世紀以降の精神分析とも関連する「その場にあらわれている痕跡を読み取ってそこから到来する物事を予測する能力=徴候知」に結びつけたことは、中井久夫さんがカルロ・ギンズブルグの著作から敷衍させた理論の中でも特に驚くべき業績ですが、『策謀の結末 "The Conspirators”』では文字通りデブリンの痕跡を読み取ったコロンボが一種の「治療」を行ったわけで、あのエピソードの終わりで「詰み」を取られたデブリンが(自分の計画を止められて悔しいというよりも遥かに)心穏やかに癒されて見える。という結末も含め、『策謀の結末 "The Conspirators”』は「推理モノ」という20世紀のドラマジャンルに(前述の)エクソシズムや精神分析の歴史性までをも豊かに汲んだ、素晴らしい結晶度の出来になっていると思いました。
「警察権力の役割は、癒し」とは、『ユングのサウンドトラック』で菊地さんが『エクソシスト』から抽出しておられた物語構造のなかのひとつですが、『策謀の結末 "The Conspirators”』でもコロンボが一種の悪魔祓い師としての役割を担っており、それは(前述の)イタリアン×アイリッシュ的ムードによって誘発された結果なのかもしれません。同じく菊地さんが剴切な批評を寄せておられた『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』も、私はエクソシズム映画として解釈しています。どうしても勝つ札を選んでしまう博打師であるスティーヴ・カレルが、躁的な哄笑=悲鳴を上げていたら、その救難信号を聞き受けたエマ・ストーンが助けにくる。という意味で、「自分を倒して=悪魔を祓ってくれる相手を必死で追い求める」タイプの物語類型があり、『策謀の結末 "The Conspirators”』では(前段落で述べた通り)その型《カタ》が推理モノや精神分析の歴史性にも直接根ざしているのが、最も得難いように思われます。
〔『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』はとくに思い入れ深い映画なので括弧内で脱線しますが、あの映画では、悪魔憑きであるスティーヴ・カレルを癒すことができなかった最も近い人=妻も/真正面からの勝負で悪魔を祓った他人=エマ・ストーンも、どちらも女性である。つまり「治療者は必ず男性である」というアンナ・フロイトおよびジュディス・ハーマン以前の精神分析偏向を、「悪魔憑き=患者は男性で、それを祓うことができるのもできないのも女性である」と性差を逆転させるだけのように見えて、実は「患者=男性(マッチョイズムによって拒絶するのではなく、治療者の技に身を任せる)」と「治療者=女性(相手の苦悩を除去するための主体として知能を発揮する)」両方の尊厳を余すことなく解放できている。という点が、当時のUSA平均で見ても凄まじく高いレベルのフェミニズム的達成だったと思うのですが、この点を指摘できていたのは(私が読んだ限りでは)菊地さんの評だけでした。
ちなみに、『バトル・オブ・ザ・セクシーズ』が舞台とする1973年は『エクソシスト』の公開年であり、『エクソシスト』の本編序盤でも女優がフェミニストではなくとも反戦活動家として演技する場面がある。というのは単なる偶然の符号に過ぎませんが、『刑事コロンボ』も含んだ70年代前半USA的磁場を明らかにするものとして記しておく価値はあると思います。〕
以上、これは完全なコロンボ素人たる私が『策謀の結末 "The Conspirators”』に見出したものを縷述しただけなので、おそらくエモ過多な誤謬が含まれている可能性も高いですが、少なくとも菊地さんのご紹介でこのエピソードに辿り着き・感銘を受けたことをお伝えしたく思います。
このエピソードを通して、私が惹かれる脚本の型《カタ》はどうもカトリシズム的テーマ(独りでどうしようもなくなっている者とそれを助ける者)を取り扱ったものばかりで、ピューリタニズム的テーマ(職業意識と背中合わせの衝迫により雁字搦めの合理化に陥る)が前面に出たものを見せられると心底どうでもよくなってしまう。という偏向に気付かされ(笑)、『刑事コロンボ』序盤のエピソードがあまり楽しめなかったのもそのせいではないかと思われるのですが(笑)、ともあれ、この知見は私による私自身の臨床のために役立てつつ、引き続きドラマを楽しんでゆこうと思います。菊地さんの『刑事コロンボ研究』の完成も楽しみにお待ち申し上げております。