>一般的には、スターリン、ヒトラー、毛沢東、ムッソリーニ、金日成などの顔が浮かぶが、今回は「事実と虚構」の区別がつかなくなった人々と言っている。 まず、changeさんの論点はズレているのでは?と指摘しておきます。ここで問題にされていることは、指導者=全体主義的政治家の問題ではなく、被治者乃至全体主義政治システムの対象である「我々」の問題です。本文に「全体主義下ではその手中にある多くの人」と書いてあるではないですか。 しかも、奇怪なことに、上記のお歴々の中に日本人が一人もいない。 まさか、日本型ファシズムはなかった、と? まぁ、ヒロヒトの名が出ないことは、図らずも、丸山政治学における日本ファシズムの特異性(批判もありますが)を証明しているようなカンジがあります。 丸山眞男は天皇制軍国主義を「無責任の体系」と呼んだし、アイヒマンは自身の裁判で「命令に従っただけ」と言い放った。洋の東西を問わずファシズムは、思考停止や無責任という我々自身の、「草の根」の内なる問題です。 >全体主義の強力な敵は、事実と虚構の区別、真と偽の区別を情熱と明晰さをもっておこない、自分自身の経験とそれを証言する能力に基づく現実性に依って立つ者であると。 確かにそのとおりだと考えます。しかし、全体主義に包囲された孤立無援の状況にあっては、「明晰さ」「現実性に依って立つ」ことだけではなく、即ち合理性や論理性だけでなく、怒り、憎しみといった感情的身体的エネルギーも必要だろう、と考えています。 両者が一体化した時、真に人間的な抵抗であり、自由が発露されるのではないか、と考えていますが、しかし、それは必ずしも全体主義に勝利することを約束するわけではないでしょう。 だからこそ、私は全体主義状況を忌み嫌うのです。 >これは知性の降伏や、恐怖に怯えるがゆえにみずから進んで信じたほうが都合のよいものは全て信ずるという態度 これについては、私は新型コロナワクチン接種に関する言論状況を事例として摘示します。 即ち、mRNAワクチンは効かないし、ヒトの免疫機構を破壊する、しかも血栓毒という不都合な事実。そして、結果的に高齢者の接種後死亡者が多数発生し、若年層の突然死や後遺症、超過死亡の異常な増大(10万人くらい?)が事実として、突きつけられています。 しかし、日本社会的には絶対に認めない可能性が高い。 何故なら、8割以上の人がワクチン接種をした今、多数派は自分が体に「毒」を入れたとは、信じたくないでしょうから。 いくら、接種後後遺症者や死者がいて、当事者が声をあげても、8割接種により完成したワクチン接種全体主義では、黙殺の対象でしかない。抑圧装置としての全体主義が駆動しています。 ところで、本文の次の指摘について >冷笑的な態度や、信じること自体の拒絶や、あらゆることはひとしなみに腐敗しているという主張の形をとることもある(charge氏) 「特に政治的な問題になれば、「善悪」などなく、全体主義の「事実と虚偽」を議論しても無意味である」 これでは、charge氏自身が今回の論者の指摘を傍証しています。色んな意見があり、人それぞれ、みたいな、論議を喪失させるためだけの悪しき価値相対化です。しかも、価値相対主義かと思えば、偏った対象を執拗に悪魔化する傾向が見られたりします。 その意味では論理的明晰さは重要だ、と分かります。
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>一般的には、スターリン、ヒトラー、毛沢東、ムッソリーニ、金日成などの顔が浮かぶが、今回は「事実と虚構」の区別がつかなくなった人々と言っている。
まず、changeさんの論点はズレているのでは?と指摘しておきます。ここで問題にされていることは、指導者=全体主義的政治家の問題ではなく、被治者乃至全体主義政治システムの対象である「我々」の問題です。本文に「全体主義下ではその手中にある多くの人」と書いてあるではないですか。
しかも、奇怪なことに、上記のお歴々の中に日本人が一人もいない。
まさか、日本型ファシズムはなかった、と?
まぁ、ヒロヒトの名が出ないことは、図らずも、丸山政治学における日本ファシズムの特異性(批判もありますが)を証明しているようなカンジがあります。
丸山眞男は天皇制軍国主義を「無責任の体系」と呼んだし、アイヒマンは自身の裁判で「命令に従っただけ」と言い放った。洋の東西を問わずファシズムは、思考停止や無責任という我々自身の、「草の根」の内なる問題です。
>全体主義の強力な敵は、事実と虚構の区別、真と偽の区別を情熱と明晰さをもっておこない、自分自身の経験とそれを証言する能力に基づく現実性に依って立つ者であると。
確かにそのとおりだと考えます。しかし、全体主義に包囲された孤立無援の状況にあっては、「明晰さ」「現実性に依って立つ」ことだけではなく、即ち合理性や論理性だけでなく、怒り、憎しみといった感情的身体的エネルギーも必要だろう、と考えています。
両者が一体化した時、真に人間的な抵抗であり、自由が発露されるのではないか、と考えていますが、しかし、それは必ずしも全体主義に勝利することを約束するわけではないでしょう。
だからこそ、私は全体主義状況を忌み嫌うのです。
>これは知性の降伏や、恐怖に怯えるがゆえにみずから進んで信じたほうが都合のよいものは全て信ずるという態度
これについては、私は新型コロナワクチン接種に関する言論状況を事例として摘示します。
即ち、mRNAワクチンは効かないし、ヒトの免疫機構を破壊する、しかも血栓毒という不都合な事実。そして、結果的に高齢者の接種後死亡者が多数発生し、若年層の突然死や後遺症、超過死亡の異常な増大(10万人くらい?)が事実として、突きつけられています。
しかし、日本社会的には絶対に認めない可能性が高い。
何故なら、8割以上の人がワクチン接種をした今、多数派は自分が体に「毒」を入れたとは、信じたくないでしょうから。
いくら、接種後後遺症者や死者がいて、当事者が声をあげても、8割接種により完成したワクチン接種全体主義では、黙殺の対象でしかない。抑圧装置としての全体主義が駆動しています。
ところで、本文の次の指摘について
>冷笑的な態度や、信じること自体の拒絶や、あらゆることはひとしなみに腐敗しているという主張の形をとることもある(charge氏)
「特に政治的な問題になれば、「善悪」などなく、全体主義の「事実と虚偽」を議論しても無意味である」
これでは、charge氏自身が今回の論者の指摘を傍証しています。色んな意見があり、人それぞれ、みたいな、論議を喪失させるためだけの悪しき価値相対化です。しかも、価値相対主義かと思えば、偏った対象を執拗に悪魔化する傾向が見られたりします。
その意味では論理的明晰さは重要だ、と分かります。