>>134 >>135 いちおう「皇太子」・「立太子」という言葉について解説します。 言はずもがなですが、「皇太子」は「天皇、あるいは皇帝の後継ぎの皇子」という意味で、「皇太弟」・「皇太孫」という言葉もありますが、身分上は同じであり、「令」の規定によると、三后(皇后・皇太后・太皇太后)よりは身分は下であり、敬称は「殿下」、文章中では「東宮」・「皇太子」・「殿下」の語を用いる時は一文字分の空白を設けること(闕字(欠字)にすること)、皇太子に関する職務は「春宮坊」が行うこと、天皇が行幸しているときには天皇にかわって「留守官」として「監国」(代わりに政治をとること)を行わなくてはならない、となっています。称徳天皇崩御時の白壁王(光仁天皇)や、桓武天皇崩御時に安殿親王(平城天皇)が皇太子の身分のまま天皇の権限を代行したのはこれによるものと言われています。 「皇太子を冊立する」ことが「立太子」です。 その起源は『日本書紀』によると、神武天皇の時に行われたということになっていますが、古代においては「大兄」という制度があり、継体天皇以後、大王の長男などを複数人「大兄」とし、その中から皇嗣を選ぶというもので(山背大兄王とか、中大兄皇子とか)、いわゆる「皇太子」が登場するのは、信憑性の高い説によると、持統天皇の「飛鳥浄御原令」以後だとされ、『釈日本紀』という書紀の注釈書によると、具体的には持統天皇が孫である軽皇子(のちの文武天皇)に、持統11年2月16日(697年3月13日)に「立太子」したというのが始めだとされています。ただし、この時に立太子礼が行われたかどうかは不明で、その後も立太子は天皇の「詔書」で行われたことが分かっているだけです(例:聖武天皇が神亀4年9月(727年10月)に生まれたばかりの基王を11月2日に立太子したことなど。ちなみに基王は翌年薨去しています)。 平安時代に制定された「貞観儀式」によると、立太子の儀は内裏の正殿である紫宸殿の前庭で、親王以下百官の参列のもと行われるもので、宣命大夫が立太子の宣命を宣することとなっており、この宣命宣制の儀は立太子の儀の中心として近世まで行われたそうです。 さらにこの時に皇太子に仕奉する「職員」(しきいん)を任命し、拝覲(はいぎん、高貴な人に対面すること)や節会(せちえ、ありていに言えば、行事などのある日の宴会。相撲節会・踏歌節会など)が行われ、さらに天皇家の山陵に立太子が行われたことが奉告されたそうです。さらに醍醐天皇の御代である延喜4年(だいたい904年あたり)に保明(やすあきら)親王(朱雀天皇の前の皇太子で、その後病没しています)の立太子以降は「壺切の大刀」と呼ばれる一種の「神器」のようなものを与えることにもなったそうです。 ぐだぐだと述べましたが、要は、「立太子礼」という形になったのは、平安時代からであり、奈良時代あたりは天皇の「詔」があればOKだった、ということです。 こりゃ馬さんが述べられているように、南北朝時代の後小松天皇から江戸時代の後西天皇の時代の300年間にわたり、立太子礼は中断されましたが、霊元天皇の天和3年(だいたい1683年、徳川綱吉の初期あたり。「元禄」の前の前)に復活し、この時に立太子儀に先立ち、「儲君治定(ちょくんちてい)」が行われるようになったそうです。明治22年(1889年)の旧皇室典範により、皇位継承の順位が規定され、立太子礼は形式上のものになった、ということです。 ざっと調べてみた感じではこんなところです。説明不足だったり、蛇足でしたらごめんなさい。(_ _) なお、少し補足しますが、孝謙天皇(称徳天皇)は(位を譲ったとは『続日本紀』には記されてはいるのですが)、自分が「重祚」したという意識はあまりないと思います。というのは、淳仁天皇、大炊王(おおいおう)は恵美押勝の乱の後、母親ともども内裏から強制退去させられ、「廃位」されており、上皇にはなっていないからです。これにより、事実上孝謙上皇は「復位」したことになり、その後「称徳天皇」と呼ばれているわけです。当然、その後、即位の儀式を行ったという記事も『続日本紀』には存在しません。 淳仁天皇は、『続日本紀』では「廃帝」と記されており、長いこと歴代天皇には含まれておらず、明治になってから初めて「承認」されています(陵墓指定だけは似た境遇の光仁天皇がやってくれた)。ちなみに、孝謙天皇は仲麻呂政権から「宝字称徳孝謙皇帝」という称号を与えられており、諡号はそこから来ています。 以上、長々とすみませんでした。
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いちおう「皇太子」・「立太子」という言葉について解説します。
言はずもがなですが、「皇太子」は「天皇、あるいは皇帝の後継ぎの皇子」という意味で、「皇太弟」・「皇太孫」という言葉もありますが、身分上は同じであり、「令」の規定によると、三后(皇后・皇太后・太皇太后)よりは身分は下であり、敬称は「殿下」、文章中では「東宮」・「皇太子」・「殿下」の語を用いる時は一文字分の空白を設けること(闕字(欠字)にすること)、皇太子に関する職務は「春宮坊」が行うこと、天皇が行幸しているときには天皇にかわって「留守官」として「監国」(代わりに政治をとること)を行わなくてはならない、となっています。称徳天皇崩御時の白壁王(光仁天皇)や、桓武天皇崩御時に安殿親王(平城天皇)が皇太子の身分のまま天皇の権限を代行したのはこれによるものと言われています。
「皇太子を冊立する」ことが「立太子」です。
その起源は『日本書紀』によると、神武天皇の時に行われたということになっていますが、古代においては「大兄」という制度があり、継体天皇以後、大王の長男などを複数人「大兄」とし、その中から皇嗣を選ぶというもので(山背大兄王とか、中大兄皇子とか)、いわゆる「皇太子」が登場するのは、信憑性の高い説によると、持統天皇の「飛鳥浄御原令」以後だとされ、『釈日本紀』という書紀の注釈書によると、具体的には持統天皇が孫である軽皇子(のちの文武天皇)に、持統11年2月16日(697年3月13日)に「立太子」したというのが始めだとされています。ただし、この時に立太子礼が行われたかどうかは不明で、その後も立太子は天皇の「詔書」で行われたことが分かっているだけです(例:聖武天皇が神亀4年9月(727年10月)に生まれたばかりの基王を11月2日に立太子したことなど。ちなみに基王は翌年薨去しています)。
平安時代に制定された「貞観儀式」によると、立太子の儀は内裏の正殿である紫宸殿の前庭で、親王以下百官の参列のもと行われるもので、宣命大夫が立太子の宣命を宣することとなっており、この宣命宣制の儀は立太子の儀の中心として近世まで行われたそうです。
さらにこの時に皇太子に仕奉する「職員」(しきいん)を任命し、拝覲(はいぎん、高貴な人に対面すること)や節会(せちえ、ありていに言えば、行事などのある日の宴会。相撲節会・踏歌節会など)が行われ、さらに天皇家の山陵に立太子が行われたことが奉告されたそうです。さらに醍醐天皇の御代である延喜4年(だいたい904年あたり)に保明(やすあきら)親王(朱雀天皇の前の皇太子で、その後病没しています)の立太子以降は「壺切の大刀」と呼ばれる一種の「神器」のようなものを与えることにもなったそうです。
ぐだぐだと述べましたが、要は、「立太子礼」という形になったのは、平安時代からであり、奈良時代あたりは天皇の「詔」があればOKだった、ということです。
こりゃ馬さんが述べられているように、南北朝時代の後小松天皇から江戸時代の後西天皇の時代の300年間にわたり、立太子礼は中断されましたが、霊元天皇の天和3年(だいたい1683年、徳川綱吉の初期あたり。「元禄」の前の前)に復活し、この時に立太子儀に先立ち、「儲君治定(ちょくんちてい)」が行われるようになったそうです。明治22年(1889年)の旧皇室典範により、皇位継承の順位が規定され、立太子礼は形式上のものになった、ということです。
ざっと調べてみた感じではこんなところです。説明不足だったり、蛇足でしたらごめんなさい。(_ _)
なお、少し補足しますが、孝謙天皇(称徳天皇)は(位を譲ったとは『続日本紀』には記されてはいるのですが)、自分が「重祚」したという意識はあまりないと思います。というのは、淳仁天皇、大炊王(おおいおう)は恵美押勝の乱の後、母親ともども内裏から強制退去させられ、「廃位」されており、上皇にはなっていないからです。これにより、事実上孝謙上皇は「復位」したことになり、その後「称徳天皇」と呼ばれているわけです。当然、その後、即位の儀式を行ったという記事も『続日本紀』には存在しません。
淳仁天皇は、『続日本紀』では「廃帝」と記されており、長いこと歴代天皇には含まれておらず、明治になってから初めて「承認」されています(陵墓指定だけは似た境遇の光仁天皇がやってくれた)。ちなみに、孝謙天皇は仲麻呂政権から「宝字称徳孝謙皇帝」という称号を与えられており、諡号はそこから来ています。
以上、長々とすみませんでした。