この場を借りて、 ジョルジョ・アガンベン 著/高桑和巳 訳 「私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック」(青土社) という本を紹介したいと思います。 [前置き] Q&Aコーナーでお名前が挙げられた森田洋之氏については、「ついに、こ こまで来たか」と感じています。 森田氏が昨年4月に書かれた「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか」 という記事があります。新型コロナを取り巻く状況に対して、私の認識を 改めさせる決定打となりました。(私が読んだのは6月頃。この後、「ゴ ー宣」に戻ってきました。)では、「何か変だぞ」という気づきを与えて くれたのは何か。 ジョルジョ・アガンベン氏の説く「死者の権利が蔑ろにされている」とい う指摘がそれでした。昨年5月、NHKの番組中、哲学者・國分功一朗氏の口 を通して、この視点に接することができました。そのアガンベン氏の新刊 本が、ついに日本に渡ってきたのです。 [本題] イタリアでは、健康への脅威が問題になるや否や、人々は反発もせずに自 由の制限を受け容れたと記されています。ここで、市民の持っていたはず の「健康権」が、健康への法的義務へと顚倒してしまったと、アガンベン 氏は指摘します。 そこに至る道筋として、60年代にテロ対策として成された「私権制限の法 制化」と、近代医学による「延命指向への傾き」に言及していきます。 日本がたどった道筋に似ていると、私には感じられました。 2020年、アガンベン氏もネット用語でいうところの「炎上」を経験してい ます。國分氏がアガンベン氏の言葉を日本人に紹介したのも、「埋もれさ せないため」だったと言います。「葬儀」という別れの儀式も経ずに、生 者と死者は切り離される。人間から「社会性」が剥ぎ取られていく。氏の 言う「死者の権利」とは人間としての尊厳そのものであり、社会のあり方 についての問いかけなのだと、私は捉えています。 まだ、読み込めていませんが、ひとまず情報共有が出来ればと思い、書き ました。(免疫が下がるので、そろそろ寝ます。) [補足] 高桑和巳氏が「翻訳者あとがき」で言う「国民には責任はない」という主 張には同意できませんが、この本を「分かりやすい日本語で、丁寧に訳し てくれた」という点において、言論の自由を尊重する態度に対して、敬意 を表したいと思います。
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この場を借りて、
ジョルジョ・アガンベン 著/高桑和巳 訳
「私たちはどこにいるのか? 政治としてのエピデミック」(青土社)
という本を紹介したいと思います。
[前置き]
Q&Aコーナーでお名前が挙げられた森田洋之氏については、「ついに、こ
こまで来たか」と感じています。
森田氏が昨年4月に書かれた「人は家畜になっても生き残る道を選ぶのか」
という記事があります。新型コロナを取り巻く状況に対して、私の認識を
改めさせる決定打となりました。(私が読んだのは6月頃。この後、「ゴ
ー宣」に戻ってきました。)では、「何か変だぞ」という気づきを与えて
くれたのは何か。
ジョルジョ・アガンベン氏の説く「死者の権利が蔑ろにされている」とい
う指摘がそれでした。昨年5月、NHKの番組中、哲学者・國分功一朗氏の口
を通して、この視点に接することができました。そのアガンベン氏の新刊
本が、ついに日本に渡ってきたのです。
[本題]
イタリアでは、健康への脅威が問題になるや否や、人々は反発もせずに自
由の制限を受け容れたと記されています。ここで、市民の持っていたはず
の「健康権」が、健康への法的義務へと顚倒してしまったと、アガンベン
氏は指摘します。
そこに至る道筋として、60年代にテロ対策として成された「私権制限の法
制化」と、近代医学による「延命指向への傾き」に言及していきます。
日本がたどった道筋に似ていると、私には感じられました。
2020年、アガンベン氏もネット用語でいうところの「炎上」を経験してい
ます。國分氏がアガンベン氏の言葉を日本人に紹介したのも、「埋もれさ
せないため」だったと言います。「葬儀」という別れの儀式も経ずに、生
者と死者は切り離される。人間から「社会性」が剥ぎ取られていく。氏の
言う「死者の権利」とは人間としての尊厳そのものであり、社会のあり方
についての問いかけなのだと、私は捉えています。
まだ、読み込めていませんが、ひとまず情報共有が出来ればと思い、書き
ました。(免疫が下がるので、そろそろ寝ます。)
[補足]
高桑和巳氏が「翻訳者あとがき」で言う「国民には責任はない」という主
張には同意できませんが、この本を「分かりやすい日本語で、丁寧に訳し
てくれた」という点において、言論の自由を尊重する態度に対して、敬意
を表したいと思います。