『虚淵は『Fate/Zero』のあとがきで、作家を続けるうちにいつしか「ハッピーエンドが描けなくなった」ことを告白している。それはかれがリアリズムを追い続けた結果、ハッピーエンドという幻想に我慢がならなくなってしまったことを意味しているのだろう』 この記事で言う「リアリズム」って、どういうものなのか気になります。 ハッピーエンドを「幻想」と呼ぶことについても。 平和な国にいて、特筆すべき飢えも危険も感じずに育った作家が、どうしてハッピーエンドを「幻想」と呼び、それに「耐えられない」などと漏らすのか? 「こんなものは嘘っぱちだ、ぼくが本当の「リアル」ってやつを見してやる」とばかりに押しつけてくる「リアリズム」とやらが、どれほどの価値を持つものなのか? 戦争や病気で悲惨な思いをした人間が、それでもなぜか、ハッピーエンドを迎える物語を綴る。 平和な国でぬくぬくと暮らしている人間が、「これが現実だ、これが真実だ、ハッピーエンドなんて幻想だ」と、悲惨な物語を綴る。 前者のどこが「幻想」で、後者のどこが「リアリズム」なのか? どんな文脈で捉えるから、そうなるのか? ハッピーエンドが幻想で、それを語ることが我慢ならないのは、その作家が「裕福で不足したことのないお坊ちゃま」だったからだと思う。 その作家の立ち位置が、その作家の世界が、いかに恵まれていたか、いかに平和で退屈だったかということの裏返しだと思う。 絶望だとか苛烈だとかいうものに惹かれるのは、真にそれを味わってはいないから、怖いもの見たさがあるからだと思う。 平和な国の人間が、ぬくぬくと生きて、得意顔で「絶望と悲惨」について語る。 「これが真実なんだ! ハッピーエンドなんて嘘っぱちだ!」 それのどこが「リアリズム」なのか? そのリアリズムに、どんな価値があるのか? その人が「嘘っぱち」と断じたものの方が、よっぽど価値があるような気がする。 よほど真なるものという気がする。 ハッピーエンドが幻想なのは、その人自身がどうしようもなく恵まれているからだと思う。
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『虚淵は『Fate/Zero』のあとがきで、作家を続けるうちにいつしか「ハッピーエンドが描けなくなった」ことを告白している。それはかれがリアリズムを追い続けた結果、ハッピーエンドという幻想に我慢がならなくなってしまったことを意味しているのだろう』
この記事で言う「リアリズム」って、どういうものなのか気になります。
ハッピーエンドを「幻想」と呼ぶことについても。
平和な国にいて、特筆すべき飢えも危険も感じずに育った作家が、どうしてハッピーエンドを「幻想」と呼び、それに「耐えられない」などと漏らすのか?
「こんなものは嘘っぱちだ、ぼくが本当の「リアル」ってやつを見してやる」とばかりに押しつけてくる「リアリズム」とやらが、どれほどの価値を持つものなのか?
戦争や病気で悲惨な思いをした人間が、それでもなぜか、ハッピーエンドを迎える物語を綴る。
平和な国でぬくぬくと暮らしている人間が、「これが現実だ、これが真実だ、ハッピーエンドなんて幻想だ」と、悲惨な物語を綴る。
前者のどこが「幻想」で、後者のどこが「リアリズム」なのか?
どんな文脈で捉えるから、そうなるのか?
ハッピーエンドが幻想で、それを語ることが我慢ならないのは、その作家が「裕福で不足したことのないお坊ちゃま」だったからだと思う。
その作家の立ち位置が、その作家の世界が、いかに恵まれていたか、いかに平和で退屈だったかということの裏返しだと思う。
絶望だとか苛烈だとかいうものに惹かれるのは、真にそれを味わってはいないから、怖いもの見たさがあるからだと思う。
平和な国の人間が、ぬくぬくと生きて、得意顔で「絶望と悲惨」について語る。
「これが真実なんだ! ハッピーエンドなんて嘘っぱちだ!」
それのどこが「リアリズム」なのか?
そのリアリズムに、どんな価値があるのか?
その人が「嘘っぱち」と断じたものの方が、よっぽど価値があるような気がする。
よほど真なるものという気がする。
ハッピーエンドが幻想なのは、その人自身がどうしようもなく恵まれているからだと思う。