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【第157回 芥川賞 候補作】『星の子』今村夏子

2017/07/10 11:00 投稿

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 小さいころ、わたしは体が弱かったそうだ。標準をうんと下回る体重でこの世に生まれ、三カ月近くを保育器のなかで過ごしたそうだ。
 父と母の話によると、退院してからがまた大変だったらしい。母乳は飲まないし、飲んでも吐くし、しょっちゅう熱をだすし、白いうんちをだすし、緑の絵の具のような鼻水をだすしで、両親はわたしを抱いて家と病院のあいだを駆け回る毎日だったという。生後半年目のとき、最初は顔にポツポツとあらわれた湿疹が、わずか一週間で全身に広がっていったそうだ。中耳炎にかかったときの激しい泣き声も、胃腸炎でたてつづけに吐いたときも、身を引き裂かれるほどつらかったけど、湿疹の症状がそばで見ていて一番つらかったわよ、と母がいっていた。専門医にすすめられた薬を塗ってみても、ありとあらゆる民間療法を試してみてもよくならなかった。ミトンをはめられた小さな手がふびんでならなかったよ、と父がいっていた。
 真夜中にかゆみで泣き叫ぶわたしのそばで、なすすべもない両親は一緒になっておいおい泣いたのだそうだ。五歳だった姉もつられて泣きだし、それを合図に近所の犬たちが一斉にワンワン吠えだす……。それが毎晩つづくものだから、うちには苦情が絶えなかったそうだ。もちろん、全然覚えていない。
 当時、母は専業主婦で、父は損害保険会社に勤めるサラリーマンだった。父は、生まれてまもない我が子について抱える悩みを、会社でぽろっと口にした。たまたま父の話をきいた同僚のその人は、それは水が悪いのです、といった。は? 水ですか? 水です。
 翌日、プラスチック容器に満タンに入れられた水を、父はその人から渡された。「この水で毎朝毎晩お嬢さんの体を清めておあげなさい」といわれた。タダだというから、もらって帰った。
「落合さんがいうには、ごしごしこするんじゃなくて、水に浸したタオルで湿疹がでてるところをやさしくなでるだけでいいんだって」
「うんわかったやってみる」
 母はできることはなんでもすると決めていたので、父がきいてきたやりかたで、早速その晩わたしの体を洗った。その夜は、いつもより夜泣きの回数が少なかったそうだ。翌朝もわたしの体を洗った。その晩も、その次の日の朝も。一日二回。いわれたとおりにした。お風呂に入れると必ず泣いていた子が、水を変えただけで気持ちよさそうに身を任せてくることが、まず不思議だったという。三日目、目に見えて肌の赤みが引いていた。かゆみでむずかることが少なくなり、夜は泣いている時間より眠っている時間のほうが長くなった。母の日記を読むと、水を変えて二カ月目で、「治った! これは、治ったといえる!」と書いてあるから、たぶんそうなのだ。
 父がもらってきた水は、湿疹や傷に効くだけではなかった。両親とも、この水を飲みはじめてから風邪ひとつひかなくなった。飲み水や調理用としても万能で、砂糖もみりんも入ってないのに、ほんのりと甘いのは、水自体が生きているからなのだそうだ。これを使って煮炊きすると食材のカドが取れて仕上がりがまろやかになります、とパンフレットの説明にはそう書いてあった。父ははじめのころ、水の容器がからになると会社に持っていき、新たに満タンの容器と交換してもらっていたのだけど、三回目からは、悪いのでこちらで購入させてもらいますとことわって、パンフレットと注文カタログをもらってきた。
 水は、『金星のめぐみ』という名前で通信販売されていた。パンフレットには小さな文字で十数行にわたってびっしりと効能が書いてあった。免疫力向上、美肌、高血圧、低血圧、虫刺され、右脳の活性化、虚弱体質……。とにかくなんにでも効くということだ。カタログをめくると、野菜やお菓子や調味料やサプリメントの販売もあった。後ろのほうのページには杖や、衣料品、めがね、家具なんかも掲載されていた。母はまず水を変え、次いで食材を変えた。母が食材を変えて思ったこと……。「私は今まで一体何を子供達に食べさせていたのか?」「毒を与えていたも同然!」
 そのころの母の日記には、わたしの飲んだもの、食べたもの、睡眠時間、おしっこの色と回数、うんちの色と状態と回数、体温、脈拍、体重、顔色、舌の色、白目の色、その日に着た服の素材が逐一記録されている。水と食材を変えたおかげで、わたしは成長とともに健康になっていき、母の記録もじょじょにシンプルになっていった。三歳で脈拍と服の素材のチェック項目がなくなり、四歳で体重と白目がなくなり、小学校に上がるころには、食べたものと体温とうんちの状態だけが記されるようになった。そのうち、母は日記自体つけるのをやめてしまった。半分以上が白紙のままの十年日記は、捨てるのももったいないので、わたしが中学三年生のときの社会科のノートになった。持ち運ぶには重たいから学校の机のなかに入れっぱなしだった。ひまつぶしにたまにめくって読んでいると、クラスメイトがのぞきこんできたりした。
「顔色良好、舌異常なし、左目わずかに充血……ってなに。毎日こんなの書いてるの?」ときかれれば、「昔お母さんがつけてたんだ。これお母さんの字だよ」とこたえた。
「うんちの色、だって。ぎゃはは」
 みんなおもしろがった。
 母は自分の日記が中学生たちに読まれているなんて想像もしなかっただろう。日記を書いていたことすら、覚えているかどうかあやしい。学校で使うノートがほしいといったわたしに、使いかけでよかったらそのひきだしに入ってるからどれでも持ってっていいわよ、といったから、そのとおりにしただけなのだけど。
 わたしの湿疹が金星のめぐみのおかげで完治した話は、奇跡の体験談として顔写真付きで会報誌に掲載された。母の日記には、そのときの記事の切り抜きも一緒にはさんであった。
 カメラのほうを向いてにっこり笑う小さなわたしの体を、父と母が両側からぎゅっと抱きしめている写真だ。ふたりともわたしのほっぺたに顔をくっつけて、幸せいっぱいの笑顔を見せている。


※7月19日(水)18時~生放送

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