あげちうのブロマガ

英雄と魔女と悪魔の助力

2020/10/14 12:37 投稿

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  • ゲーム
  • PS5

解っている事?はある。

適当な権力を持った当時の人々は皆、「王の権威」それを求めたのだ。
そして、それは結局は、全くそう言うのを持たない存在へ引き継がれる事に成って。

その結果、彼らは、自身の存在意義その物さえ否定される事態へ陥った。

特権を持った、しかし凡庸な個人など、現場には嘲笑の対象でしかない。
それに対して反論し得る物を持てない限りは、そこに居る事自身がストレスだ。現場は無言で言う、「単なる出来損ないのゴミは向こうに行ってろよ」居ても邪魔なだけだ。そして、そこには無意味はある、現場に頼めば自分が創るよりよっぽど高いクオリティで具現化するのだし、自身には、それが出来る特権がある。何故、部下と張り合う様な真似をせねばならない?それは現場にしろストレスだし、”そこ”に向かうなら、現場を先生とせねばならないのだ、有り得ない構図だ。

結果、彼らは技術を習得する、と言うルートを取る事が出来ないまま、自身の発想と言うか、結論で言えば個性だ、”それ”に依存する訳だが。

”それ”を出す限り「王の権威」それを前にしてはそれは、ゴミ扱いにしかならない。

昭和天皇が、「王の権威」で有る頃はまだ良い、”それ”に触れられるのは特権階級である自分らだけで、つまり選ばれし民だ、天皇陛下がそうであるように、それは問題無かった、が。平成に入り、”それ”が民間に堕ちてしまう時、誰でも触れる事が出来るなら?彼らの存在は根本的に無意味だ。この現場は現場には想像も出来ない恐慌を彼らに呼んだ、と言うべきか。結果、ある種の暴挙が起こり、平成は混乱に呑まれた訳だが。


今のPS5のデザインは結局、”その”恐慌を引きずっている、気がする。
特に「女性」その場合、その個性と言うのは非常に極論化する傾向が有り。

ゲームは一人クリア出来れば”それ”で良い。
英雄は一人で良いし?その破綻は二度と起きる必要は無いからだ。

と言う、そんな極論をゲームに投影する時、そのハードは恐らく商品価値を持てない。


漫画やアニメ、と言うのは多くは”これ”で良い。”それ”を支援する為に漫画を描いている様なモノ、だ。ただ、”それ”をゲームに投影すると、多くは難易度が高すぎる?とか、虚無感を感じるとか、そう言う感じになる、クリアが出てしまったら後のプレイヤーは養分でしかないし、またクリアする事にも、もう意味は無いからだ。本来ならもっと、広域的で汎用的な「困難」を題材にせねばならない、が。その個性が見ているのは、極めて個人的で限定的な危機だ。それは多くのプレイヤーには何の関係も無く、そこに大金を投入し労苦を費やす事に同意も出来ない。それは困窮を呼ぶ物でしかなく。

「では私の子供を救う事は出来ないと言う事ですか?」

権力を持ったその人に、この説明は逆効果にしかならない訳で。


何処まで行っても、PS5のデザインには否定感が付き纏う。上の倫理観、プレイヤーの1000人くらいはクリア出来なきゃ意味がない、そう言う?問題ないデザイン、を出したらその後は全否定さえされかねない。ユダヤ教の何かの特権は、”ここ”に対して注力してしまったが、今も芳しい結果には至ってない?そこは奈落へどんどん堕ちていく。

特別な存在など居ない、と言う理想を前にしても、ある局面での「特別」それは物理的に居る、と言う現実があり。それを踏まえて平等を構築せねばならない、と言う理解は男性的かもしれない。ともかくその理想に迫られた女性は、自身の個性を認めないその場に認めさせようとする、不可能だ、それは何かの破綻に通じては居る。

夢魔に憑りつかれた感じはある。

突破口はあるのだろうか?


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