あげちうのブロマガ

そこに糧があった理由と今

2020/10/13 07:14 投稿

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  • ゲーム
  • 創作

結局最後は好きか嫌いか?ではある。

「ゲームって何が面白いの?」シンプルな問いは、平成を通しての疑念その起点として有り続けた、かもしれない。
意識的にメインじゃ無かったのは「だから」と言うのもあろうか。物語の方が最終的にはセンターコアがあり、全体の意思決定が楽だ、混乱が無い。”先生”が右と言えばそれが神の決定である、それで上手く行く気楽さは代えがたい、それが幻想でしか無くても。

もちろん「単なる幻想だ」と解った後で、それを信じる気には成らないが。

この時、「漫画が好き」と言う感覚は、シンプルで物理的な同意をそこに置きはする。理由は説明できない、単に「面白い」だから。必要であり、”それ”を続ける事が自身を生かす糧に成る、と言う実感と共に、それは物理の認証を受けてか、そこに糧を産み続ける、訳だが。

あくまでも個性の問題だ。
嫌いな個性には、何処まで行っても無意味な徒労だ。

”普通”は、マンガやアニメ、ゲームにそこまで傾倒できない、単に漫画である。”普通”は、それよりも優先せねばならない事の方が多い、日常優先し得る作業の方が生命維持にとってはもちろん重要であり、”それ”がお金で対処出来るとしたら、夢が売れないとしたら稼ぐしかないし、多くは実はその方が気楽だ。アインシュタインにも答えが出なかった問題を前に、何が出来ると言うのか?「作家はそこに挑まねばならない」が、徒労に挑むくらいなら。

何とか昭和、平成を通して「好き」を続けてる人々のみが、そこで生活してる訳だが。


一応、今の「ゲーム」は重要ではある、”そこ”で最後の決定は下る、物語では決まらない。”そこ”に対して、自身の所属する陣営としてどれだけの貢献が出来るか?そこに熱意を持つか、或いは。武器一つ、銃弾一発にしろクオリティの問題は有る、「使える」”それ”を供給する事が勝利に繋がるとしたら、その労苦は徒労に成らない筈だ。

負けが決まった後では、意味も無いが。

平成は、”ここ”に挑んでしまった感覚は有る、最終的には一人の売春婦を殺して、だ。昭和天皇の意向を守らんとしたそれは、でも暴力に蹂躙され、それを世界は止められなかった結果、平成という時代の方向は決まった。邪が実は支配し、気づくと借金しか増えてない、そこは単なる賭場でしかなく、マーチンゲール法は虚構でしか無かった。人類全体が大いなる過失の中で罪を問われたのだ、そう言う絵としては見える。

ゲームは面白いですか?

「物理」と言う終点を前に、続くのは徒労か、或いは。


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