微妙に同意も有る。
「正義は勝つんです」
そうですかねぇ。
平成初期にしろ、想像する何かではある。自分も体感した「渾身の作品が売れない」それを前にすると、色々と歪んでいく物は有って。この辺は、昭和の頃から重いのだ。金持ちが金さえ出せば大ヒットになるし、”それ”がどれだけクソゲーでも関係ないし、反発しようが、それは最終的には権力に潰されるのだ。幾つもの事例を前にして解る事だ。人々は救ってくれない、そこに正義は何処に?
大衆は神である?
それは有り得ない。
もちろん、”これ”は「神様」が、自分の期待する存在じゃ無かった、と言う…ただ、それだけの不満なのだけども、それでも重い同意と事例のある、面倒な話ではある。
とは言う物の、”この程度の”不満で、何かの大いなる厄災が続いてるのか?と言うのは…中々に理不尽さはあって、それは逆に前出の不満を、そこで増幅もさせる訳だが。或いはこの面倒さをごり押しする形で、平成の始まりに起きた悲痛?それは有ったのかもしれないが。
結果は、割と妥当さはある。
「新聞記者」「漫画家」「宗教家」それは、成功には見放されている。
何かの窮乏と、何かの逃避と、前出の「渾身の作品が売れない」その結果に或いは苦しんではいる。自身の主義主張は悉く現実に否定され、評価はどんどん下がって行って、それでも前にいる、そこに対して逆に、重いストレスの中に有るのかもしれず。
…とは言うが、彼らは排除された訳でもなく、世間にストレスを与えつつ、それは今も、前にいる訳で。
奇妙さを伴う集中と言うか、認識の歪み、そう言うのは、重い。
一人だけ見捨てられていく、様な。そんな雰囲気と、それへの理不尽だ。
風見鶏で有る結果、イソップ童話のコウモリの様な事態に陥った、そう言う面も或いは有る。求めるのは「成功」かもしれないが、”それ”は今、「大衆は神である」思想としては”ここ”に繋がってくるのだ。そこに不同意が有る状態で、成功と言うフラグが付かない…それは何かの理不尽さは有る、とも言えるか。
…とは言え、内輪からも批判される様な状態は、好ましくも無く。
”それ”は、神に逆らった様、なのだろうか?
ともかく平成が始まる際に犠牲に成ったろう女性は、何故、誰も助けなかったか。
そこは妙に、疑問には成る。