あげちうのブロマガ

古い絶対と新しい失望

2020/05/22 08:01 投稿

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  • 紛争解決
  • 権力

信仰の、その強度の問題ではある。

現状、自分の立場は昭和の頃の様な「権力による正義」と言うのが期待し難い状況が有る、”それ”を持ってる所が不正をした、と言う懸念と言うか、或いは事実が有るからだ。そもそも昭和の頃、「昭和天皇」と言うカリスマ?が居た時点でも、”そこ”に近づくにつれ、或いは物理の量子力学的に挙動が不安定に成っていく、と言うのは有って。物理も結構曖昧な部分がある、「人が見てると挙動が変わる」分子、と言うのも有るのだ。

王の権威と言えど、人間である、最終的な正義とは成り得ない。その決定を絶対にする時、正義はそこで歪み、そして利益性は喪失し、或いは疫病その他、その原理と化す訳だが。

「大衆は神である」その思想としては、その挙動に”理屈の上では”今も、特に問題は無い。王の権威と言えど、「大衆」その承認あってこそ、である。”彼”はそこから可能な限り外れる事は許されなかったが、最後の神判を何処に委ねる?と言う事が出来なかった、かの時、そこに問題は発生していた、訳だが。

微妙に、それを打開出来てないまま、平成を超えて今の令和に成っている。
世界は大いなる喪失と共に、今後をどうすべきか?を迷ってる感じだが。


「神様って何?」

それは大いなる命題だ。人間の”上”に存在する、正義、倫理、因果それを司る存在。その実在は薄ら感じつつも、具体的に何?と言うのは何となくしか解らず、そこに隙があり、カルトの教祖は”そこ”に居る。一応理解では、「王の権威」とはその中に居る一人として最も正しい存在、と言う事だが。”主観でしかない”なら、その他大勢と、一切大差ないのだ。

主観では無い、とは?

最後の権力、その存在ではある。客観的に「正しい」それは”何”が司るか。
何故か、人間が決めねばならない、のだ。そして、それを神様は査定するだけである。

「最後は大賀さんで決着にしよう」

その時、正義とは何か。


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