あげちうのブロマガ

信用のある過失と、信用の無い成果

2019/06/01 06:34 投稿

  • タグ:
  • テレビ
  • インターネット
  • 川崎市通り魔事件
  • ゴブリン

ゴブリンは死ぬから、もう脅威では無い。

一体、何処を見ればそれを言えるのか?だ。

それは、原因を考えると一つの解決ではある、のだけど。
テレビは、構造として「映りたくない人を避ける」当然だが、その結果で、テレビは構造としてか、映りたくない人を「切り捨て」る、訳だ…一種「給金の支払いから」だ。”それ”が、社会的な責任を重く負う様になると、それが人の倫理にも影響を与える様に成る。その結果、それが社会規範、「社会的な良識的主観」と化し…結果、それはテレビに映りたくない人を金銭的にも排斥する様に成っていった、訳で。

テレビに映りたくない人々に、富を分配する必要は無い、訳だ。

ええ…(;´Д`)?

ともかくこの結果、テレビは物理に衝突、著しい利益性の喪失、それを発露し始める、”使うだけ”で増えない。しかし?それは益々「主婦」その立場に同意を求め始めて、逃げ込み。”それ”を否定出来ない時、テレビは社会的な否定感を、「社会にストレスを与えつつ」耐えてしまう。家庭内への不和を避けようとする時、社会はテレビに対して妙な威圧を受け、だんだん、テレビの言いなりに成っていく、訳だ。

昭和の頃は、まだ良かった。昭和天皇は一種、「主婦的な立場」ではある、”居るだけ”だが、もちろん主婦よりもかなり重要だ、その意向はテレビを抑止し得た。それでも排斥が出たのに、居なくなった後は抑止し得るモノを失い、もっと酷くなって。結果、社会は何故か、一部へ重い否定を発露し始めた訳だが。

…結果、その困窮していく経済状態と、社会的な排斥に伴い発生するヒキニート、それがやがて「ゴブリン」に正当性を与え、それが社会を逆に、もっと悪い方向へ制御し始めた、訳だが。


良くも悪くも、”ここ”でテレビは大きな問題を発露してしまった。自身の出来る事をしようとした結果、「ゴブリンは殺した」にせよ、自身にとっても尊い人命、幼い命、それらを数多、犠牲にしてしまった。因果の結果ではある、犠牲者は当然、自身の創る社会、その支持者らだ。富と快適な環境を与えられていた、それはその対価の様に、想定外の犠牲となった訳だが。

結果で、今テレビは、著しい「不信」それを抱える事には成った。「これは、ダメだ」第一の意見、社会的な規範?としては、問題が多すぎる。結果で、同じ環境下で問題を起こさなかった「インターネット」側に、信用、それは一時的にか、移動し。そのままなら?ストリードの連携、それはそこに存在し、それは排斥を創らない。結果、”そこ”は富を発生させ、ゴブリンの主張、「生活出来ないので」それを否定する。「働けば何とかなるだろ」この環境なら言えるが、テレビの環境では無理だ。

結果、ゴブリンは存在理由を失い、殺害しても問題は無くなった…、むしろ社会的には利益でさえ有り。結果、彼らを恐れる必要が無い時、今まで排斥された人々も、社会的な否定を恐れる必要が無くなった、訳だけど。

一時的に、だ。
人間だって、信用が喪失したまま、と言うのは嫌だ。
この先永遠に、か、テレビは「次点以下」と言う軽い扱いを受けるのか?それは。
テレビはやっぱり、元の「まず!」そこへ上がろうとするのだけど。

それは、抑止し得るのだろうか。
結果は、何処に現れるのか。

信用、それは大きな問題だ。



コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事