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テレビの斜陽

2019/05/30 06:49 投稿

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  • 川崎市通り魔事件

「構造」が、問題を起こす事が有る。

「テレビ」と言う構造は、基本的に「映らない人は信用しない、映る人は監視してもいい」そんな価値観で構築されていて。この時、ここには個性の問題とか意向とか、そう言うのは、一切が否定されている。

少なくとも、”この”イメージだけでも、「切り捨て」それは発生する。テレビに映る事を良しとしない時、その人々は極論で、「社会に存在しない」のだ。

この時、あの、川崎市の通り魔事件は起きる。
完全なる想定外、だ。「存在しない」脅威が、突如そこにあった。
統治を考える時、この構造は、その資格を微妙に失った訳だが。


個性の問題、或いは作風のそれとして、テレビに写りたくない人、それは居る。

「自分は神様ではありませんが作品はその限りではありません」この時、テレビは”これ”を映さない。作品が注目される先で、どうしても作者の個性、そう言うプライベート情報の方を重視し始めるからだ。作者はそれを避ける時、テレビに映るそれを拒絶し、テレビはそして、”それ”を拒絶する。

この辺をフラグシップに、「テレビに映りたくない人」それはかなり居る訳だが。テレビは、そんな彼らを「存在しない人」と言う認識に成る、訳だ。存在しない連中に対して意識を向ける必要は無いし、それは漫画キャラの如く、如何なる非道さえも「漫画でしょ?」そんな意識で有る。

創作者の実感的にも、”この”時、この創作は「社会に存在しない」訳だ。作者は前に出ない、作品のみが前に有る、それは、テレビとしては「無い」と言う切り捨ての先に有る。その結果として、インターネット時代の今、テレビには認証外が、「切り捨て」がかなり発生する訳で。

「黄昏の狩人」その作者とその周辺も、結論ではそんな「認証外」には成ってしまった訳だが。テレビは、「映りたくない」作者よりも、「映してほしい」盗作者の方を選んでしまって、それは平成を通じて、巨大な問題と化して行った。


だから結論で、テレビは今、なにかの権威、資格?そう言うのを失ったかもしれない。

「インターネットの方が情報としては信用出来る」訳だ、テレビは正確な情報を伝えない、様な感覚に成ってしまった。正確には「ストリードの連携」その方が信用性が高い、と言う事かもしれない、テレビは構造的に、”それ”を許容できない状況が有る。良くも悪くも、「同じ」ストレスに晒された時、インターネットは問題を起こさなかったがテレビは酷いそれを起こしてしまった、訳で。構造としての強度に、それは著しい欠陥を発露した、訳だが。

「構造」の問題だ、誰を特定は出来ないのだけど。

テレビは、社会に必要な価値を創れなくなってしまった、そう言う事だろうか。



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