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とある変化とその後

2019/03/28 18:12 投稿

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  • 中華思想
  • 被せ

「殴る相手が居ない」それは、吉報ではあるが。

今までどうしてたのか?を考えると、やっぱり重い失望と共に喪失感、その他もろもろは、痛みでさえある。
「被せ」を、「高度な事をしている!」そう理解し、或いは皇帝の示す方向へと進んだ結末だ。

殴る相手が、居ない。

…そこでただ、茫然としている感じ。


「大衆」と言う神が居て、その神に相応しい奥様として「大賀さん」それがある。
その二つの狭間に、立ち入る余地など無い。それはもう、完成した何かだ。
そしてそれは、別に色々と叩いた結果でそこに有る、訳じゃない。
”当り前の話”を、その何かは信じなかった…それだけの話だ。

それは全くあの、「フルル」と言う”立て看板に”恋したグレープ君、と言うフンボルトペンギンの如く。

それでも気づく?事態は何か、有ったろうか。
栗原容疑者は、何かの結末に至ったのだろうか。

「じゃあ我々は!一体何の為に頑張ってきたんだ!!」

絶叫に近いそれに対して、返答は出来ない状況があり、そしてそれは、その中心から離れる程に、強く?は成る。
”それ”がその、狂気とも言える敵意を向けていた相手は、実際には「何の問題も無い」単なる犠牲者、だ。
道理としては、その”外に居る”人々は、単純に土下座でもしてるしかない、そんな事態。意味論的にはか、栗原容疑者と同レベルの、その、分厚い何か。

”それ”が目指したのは、「被せ」による世界支配か、或いは”新しさ”か何かだ。

寝言言ってんの?

ありがちだ、二次創作者が、「自分の方が絵が上手い」から、オリジナルを名乗らんとする、その。

スマホは、つまり「掌の上に有るパソコン」である。
そして、それはPCで出来る事をそこで、しかし”より悪い環境で”出来るに過ぎない。

ガラケーならまだ、ガラケーとしてのオリジナルは有って、まだ使えた感は残るが。

スマホはふと気づくと、”全て”PCでやった方が、何もかも良い。
そして、それ以上の事はほぼ、「何一つ出来ない」のだ。

なんだこりゃー・・・。

知らずに特権階級だった、自分が言って良い話かどうかは分からない。
みすぼらしいセレブは、華やかな乞食か野党の群れに苦心してた、訳だが。

その、華やかな貧者らが、その生涯を賭して創ったモノに失望している、それは。

どれだけ非道な目に有っても、何かの邪悪な様…だろうか。

失った物が、大きい気がする。
元々あったかどうかは謎だが。


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