間抜けているとは思う。
因果、だろうか。
「被せ」その発祥が、しかし”土台の作品を踏襲しつつ実はディスる”その「皇帝創作」それだったとしたら。現場でデチューンする結果として「何とか評価される」方法論として確立した?は良いが。それは結局、「面白い」創作を土台にする事になる、だから。親である「皇帝創作」を逆に批判し始める、訳だ。「面白い」作品と言うのは社会規範、倫理を維持しようとするから。良くも悪くも、「被せ」が認められる時、”親”は相応の「評価」も得ていく、しかし。湧き上がる「自身の弟子達からの、無意識な批判」から逃げる時、批判そらしに、幻影をばら撒いて行く事になる、訳だ。
自分で「こうしなさい」と、教祖よろしく教えた方法論とその結果から逃れる為に、”それ”を冷遇し、そしてその理由を、別の所へ向けて。自分で冷遇しておきながら「上の人々は君らを拒絶して、売れない様にしている」とか、その信用を利用して騙してる訳だ。ありがちな方法論だろうか、冷遇しつつ保護する事で、現場は奇妙な一体感と反社会性、そして”親”へと忠誠を誓う様に成る訳だ。
それはカルト、ではある。
間抜けているとは思う。作品としては、ウケなければ売れない。売れなければ経済的に困窮する。しかし?ウケる様に創る時、”それ”は自身の犯罪性を糾弾し始める。だから否定し、破壊してしまう。屁理屈で現場を納得?させ、理由を外の別の存在へ向けて。自身の犯罪性はその結果、益々累積していく事になる訳だ、殺意をも呼び始めて。
社会的にも、自滅していく、訳だが。
要するに「被せ」とは、「皇帝創作」のデチューンであり、「同じ」だと言う事だ。
皇帝創作をダメだと言うなら?「被せ」の全ても、やっぱりダメな訳だ。それは、結果にも合致はしてる、様だ。それは、利益に成らない。それが認められないのは、それが結論でパクリだから、だ。
これはあかん。
とは言うモノの、それはもう、遅すぎる気もする。邪なる方法論を認めてしまった結果は、要するに世間に経済的な、ここまでの被害を齎した、訳だ。影響は暫く残るのだろうし、「皇帝創作」それは、ここで完全否定し得るのだろうか?それはまだ、解らない。
”彼ら”は、親衛隊の様な存在だったのだろうか。
自分は何を言うべきかはちょっと、考えてしまう。