あげちうのブロマガ

善と悪は境を超える

2018/08/23 20:14 投稿

  • タグ:
  • 庵野秀明
  • 創作
  • 被せ

不意に、思う事はある。

「エヴァンゲリオン」を、メインで描いていたと言うアニメーター/演出家の「増尾昭一」氏は、去年、病で亡くなってしまった。自分への何かの威圧?攻撃、そう言うのが弱まったのは、それからには成る。自分が当時問題視していた「中華思想の皇帝」それは、実際には彼だった?可能性はかなり、ある。
庵野氏の作品傾向から、何らかの「土台」があった、時。この作品の「土台」になった、それが「黄昏の狩人」だが。それは現在改訂され、ともかく、あげちうの元には戻っている。

或いはエヴァンゲリオンの、「企画」も、「監督」も、共に居ないのではあるまいか。
企画は盗み、作画は丸投げして、そうして「作者」の権利だけを、彼は持っていた時。

「エヴァンゲリオンを創った庵野秀明」その人物はもう、居ないのだ?

「皇帝創作」の、一番腹立たしい所は。「自分の作品の筈なのに一切の責任を持ってない」そう言う部分ではある。自分が描いた、モノじゃないのだ。その作品を批判すればするだけ、それは素通りし、”土台”を否定する事になる。「シン・ゴジラ」への批判は、そのまま、「初代ゴジラへ」向いてしまう。実際には、これが利益になる事は無い、とは思うのだが。

この方法論さえも、実は「被せ」”その”、皇帝創作なのだ。
結果で、この方法論への批判は「被せ」それへと向いてしまう。


結論はある。
要するに「独裁性」を、捨てれば止まる?のだ。
その時、庵野氏は”単なる下手”でしかなく。
「被せ」は基本的に意味がなく。
「上手い」それは、明確になる。問題の無い依頼、それを具現化する技術。

とは言え、ともかく現状の視界、それはその「諸悪の根源」ではある。「皇帝創作」その基幹だ。”これ”を認める限り、創作での利益性は出ないし、壊れる。とは言え、方法論の批判は「被せ」その物へ向く。これを禁止する時、この方法論と作品群も、共に禁止になる。
素晴らしく良く出来ている様に見えても、それはパクリであり、利益性は無いのだ。

独裁創作、その、見える唯一に近い利益性だ。
それが、「皇帝創作」その存在により否定される。
だから、これは利益性が無いのだ?

物理と言えば、そう。

傾向的にも、「被せ」は、腕自慢の傾向が強い。「私はお前らより上手い」それがまず、鼻に付くと言えば、そう。内容的にも、万引きにうっかりしたら近い。全く同人創作その物だ。勝手に著作権を無視して好き勝手を描き、「CMになってるでしょう?」とか、それで上澄みをかっさらう。そのうち、出てくる訳だ、「自分の方が(元に成ったオリジナルより)上手いよね」その時点から、その場は異臭を放ち始めて、破綻する。

その最後に現れるのが、「皇帝創作」庵野秀明氏、な訳だが。

感情論は重い。”彼さえ排除出来れば良い”のだ。「被せ」の領域では、それでその領域は護られる。そしてそれを切望しても、何故か、それはどんどんと、凶悪な権力の後ろへと、逃げていくし、権力は擁護してしまう。

”それ”を追い掛ける仮面ライダーはしかし、結局どんどんと劣化し、その商品価値を、何故か失って行くのだ。自分らの夢を邪魔する許し難き!憤りだけが、何だか理不尽に蓄積、それは周囲へも伝播していく。

世相は、たった一人の為に、どんどんと、殺伐としていく事になる。

しかしこれは、「真面目に働く」事よりも、「(主観での)邪悪を倒す!」方を優先する結果だ。「皇帝創作」への憤りは、どうにも納まらない物は有るのだが。何かを境に、善と悪は逆転している、のかもしれない。

それでも確かに、何か、責任を”取って”貰いたい、彼は失脚した、明確な証が欲しい。
じゃ無ければ後の人々へも「この方法論は破滅する」だからやるな、それは言えない。

それは妙に、思う。



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