あげちうのブロマガ

扉の向こうにその扉

2018/02/23 09:05 投稿

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  • 神様
  • 思想

微妙な、状況。

「貴方が誰かにコントロールされていない保証は、何処?」

取りあえず、”これ”は今、「その質問をした側にも適用される」のだけど。一応、”雅”市場、現在の統制機構の上ではあまり、意味が無い。最終的な支配者が居ないからだ、あくまでもその場に居る100人前後の等価な同意が何処を見てるか?による。その100人をコントロールして居る?先には、そのコントロールしてる100人が居て、的に。「誰か」の先には常にその他99人が存在し、特定は…できない。

だから、不意に意味が有る事に気づく訳だ。

「我思う、故に我あり」

自分が、自分はここに居るな、と思うこの場が、自分である。


一応まあ、この感覚ではこの問いは、意味が薄いのだけど。逆説的に、その問いをする人の精神状態を危惧する位だ。その人は、自分が”誰か”にコントロールされる不安を払拭出来ない。或いは「九尾の狐」の、精神のリアリティなのかもしれない、正義の位置が解らない。この時?これ以上の追及は相手の不可侵領域を犯す?ので、”雅”市場的には?犯罪になる…返答は濁るのだが。断言する=命令ではあり、それをして良いのは、神様位ではあって。

”この”状態が正義か否か?それは、判断し難くは有る。


「社長が居ない」そんな表現にもなる。”その”会社には社長が居ないのだ、居るとしても、人間では無い。その会社を支配し全ての倫理その基幹となる存在、それは”その人の上に存在する”違う何かである。「大衆」その神による統制下にあり、善悪は”彼ら”が握っている。その上で「正しい」方を選択していく事が、会社の安定には繋がる訳だが。そこに有るのは、人間性だろうか?間違いはしないにしろ、そこには疑問は有る。

仕事だけしてれば良い、と言う物でもない訳だが。

正常とか、人間性とかは、その「大衆」と言う神に支配された状態でこそ現れる。

これは…正しいと言えるのかどうか。

一つの突破口は有るのだ。独裁創作?否、「大衆の意向」である。その時、個人的に創った物であっても大金が発生する事はある…”神の許可”だ。神を超えようとする事は無意味であり喪失しか生まないが、それが神の許可を受けたのなら?それは問題が無い。大衆と言う神に支配された上でならそれは、飼い犬が飼い主から好待遇を受けている…そんな絵でしかない。

今の所、これは、大衆にとってあまり「良い状態」とは認識されてない、とは思うが。

踏み込まない方が良い領域、ではある。
しかし今、”ここ”が狂ってる事が全体の歪みを産んでいるかもしれない。
カウンタ制御はそんな、ちょっと歪み過ぎた虚無感により設定されている時。

それは、何処へ行くのだろう。



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