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描いた箱の中に居る猫の色

2018/01/30 12:00 投稿

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  • 紛争解決
  • シュレディンガーの猫
  • 思想

現実が見えない。

それは、実際には想定の事態かもしれないしかし。
従来の感覚で行くと、それはやっぱり不安ではある。


要するに、「最後は大賀さんで決まる」時、”未来が不確定に成ってしまう”訳だ。「正解はどっち?」最早、解らない。自分の立てた企画同士が衝突する、どっちも悪くないが、予算は一本分しかない…「どっち?」それは、決める事が出来ない。この時、以前の?様な確実性…そう言うのは消える、或いは侵略か、もしくは防衛しかし、どっちとも言えない。アインシュタインは、良くも悪くも?”これ”を超えようとしてしまった、部分は…或いは有る。「未来は存在するが、決まっていない」のだ、そう、シュレディンガーの猫、その生死の様に。

これは、実際には悩む部分では無い、”当り前”だ。
サイコロの出目は制御出来ない。それは神により確定する。
勿論歩を進めるのは?人間による。
神はただ、その時その是非を問う、だけだ。
神にとって世界は、何が起こっても、何の問題も無い。
決めるのは人間でしかない。

貴方は何を、目指しているのか?

ただ、”それ”は時々、衝突を起こす。


自分は絵を描く時、やっぱり「右斜め45度」ここから描き始めてしまう事は多い。この時、背後は「?」だ。人にとっては(珍しいだろうけど)キャラの背後から描き始めて、下着の色を決めてから全体を描いて行く…人もいる、かも。後者に「このキャラのパンツの色は?」それは確定しているが、前者はまだ確定していない。絵に描かれた箱の中には猫が入っています、死んでますか?生きてますか。

アインシュタインは、”これ”を否定出来なかった?のだろうか。

「貴方は、現実と漫画の区別が付かないのか?」

もし、”これ”を言えなかったとしたら、アインシュタインはその病理に犯されていた可能性は、有るが。

「観察者」それは、作者なのか、それとも”それ”を見ている人々、なのか。

「誰?」

大衆、という視点を、何故か残さなかったのは。


ある種の思考実験だ。「大衆は神である」その時、何故、神は多と言うか、群体として有るのか?その答えとして、「箱の中に一人居る」その状況を想像する、と。まあちょっと耐え難い。単純に、死ぬ。いろいろ考えるに、”0”は一人で居る事に我慢は出来ない性質がある。結果、”神”は一つで有りつつ”無限の群体”という形式を持ち、その中で左右を決めては居る。「有る」と言う事を考える時、”それ”は個が設定したモノじゃない、訳だ。

でもそれは、「大衆は神である」その信仰の帰結ではあり。

「作者が一人で決めてしまう事が許される」領域、”それ”は、まず現実じゃない訳だ。その現実じゃない領域で、「パンツの色は?」それは意味が無い、作者にとっては決まっているだろうけど。そう言う世界は、レベルが低い、という事に成ってる。帰結として「大衆」の同意を得られない限り、それは何処まで行っても、仮想現実であり。

だからこそ、「大賀さん」紛争解決機構”それ”は、「現実の戦場」に等しい、領域を形成出来るのだけど。

「それは貴方の妄想です」

ただこれは、信仰の問題ではある。
目の前でサイコロの出目が自分の思い通りに成らない!それはおかしい!

現実とは、そう言うモノではあるから。
”それ”が、大賀さんを前にして有る時、それは、「それで良い」のだけど。

善なる意向と聖なる意向、右か左か、どっち?

しかし、相変わらず、既に確定した事にケチを付けている、様な。

…どう、決まったのだろう?
事実は、何処?

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