護憲。改憲。
どちらも日本國憲法が我が國の憲法として有效であるといふ、同じ穴の國賊です。
左翼。右翼(戦後保守派含む)。
どちらも主権論に立つ革命思想の持ち主、同じ穴の國賊です。
先日のバイデン副大統領の発言にもありましたが、日本國憲法を起草したのがアメリカであるといふ事実はアメリカでは学校で教はるさうです。事実は事実としても彼のいひ様は我が國を侮辱した内政干渉であり、許し難いですね。
さて、この「アメリカが書いた」といふ時点で、日本國憲法が我が國の國内法(憲法)の範疇ではなく、國際法(條約)に分類されるものだと分ります。
憲法としては無効なのです。
【國内法】・・國家がその國家主権の範囲内において単独で制定する法。主にその國内における法律関係を規律する法。國家法。
【條約】・・國家間または國家と國際機関との間で結ばれる文書による法的な合意。條約という名称のもの(狭義の條約)だけではなく,協約・憲章・日本國憲法・取極・議定書・宣言・規程・規約などの名称のものも含む。
詰り、護憲・改憲の日本國憲法が憲法として有效であるとする論調は終了です。
しかし、人が何を信じるかはその人の自由です。
「オレオレ!お金振り込んで!」の言葉を信じるのも、地球が平面である事を信じるのも、太陽が地球の周りを廻つてゐると信じるのもそれはその人の自由です。
ですが、科学的・現実的にそれらが否定されるのと同じく、日本國憲法が我が國の憲法ではないといふ事実は学術的にも明らかな事なのです。
さうであれば、この日本國憲法を憲法として改正するといふのはどういつた事になるのか考へてみて頂きたいと思ひます。
端的にいへば、日本國憲法の施行とは暴力により屈服させ、民主主義といふ餌で釣り、その時代の全ての日本人(沖縄は返還後)を以下の用紙で、再登録したといふ事です。
なるほど、日本人は犬なのです。
さうであれば、犬の親もまた犬でなければおかしい事になります。
歴代の皇統とそれを輔けた祖々も犬なのです。
無論、そんな事実はありませんよね?
そこで「そんな事実はない!人間であると改正しよう!」といふ意見があつたとして、それはどの様な事になるのでせうか。
犬としての登録(日本國憲法)が有效であり、それを改正するといふ事は、改正される迄は私達は犬である事を追認する事になります。
そして、いざ改正し、施行した時点で、犬であつた私達が人間へと進化するのです。
施行された日に生きてゐる人達は犬から進化した人間です。その後に生まれた子供達は一応は人間の子ですから人間でせう。
しかし、施行される以前の親達、御先祖様達は犬の儘なのです。
そんな大嘘が許されてなるものですか!
犬どころか私達日本人は神代から連なる民族です。神々の末裔です。
國學の素養のない無教養な人には神の末裔といふ正しい意味が通じないと思ひますので、ここでは単に「私達の親も祖先も人間であつた」といふ表現にします。
私達の祖が犬ではなく、人間であるといふ事実を確認するには、日本國憲法(犬として登録)は國内法としては無效であると確認すれば良いだけです。
では、今も現実に運用されてゐる日本國憲法(犬として登録)とはどういつた事になるのでせうか?
これを書いたのはアメリカであり、彼等の暴力により我が國が受け入れざるを得なかつた不平等條約だと解釈すれば、分り易いと思ひます。
アメリカ「お前ら日本人は犬だよな!?認めねーと『迅速且つ完全なる壊滅』だぞ?」
日本「わかりました。それに合意します。しかし、それはあなた方がさういつた認識(條約)であるといふ事を受け入れただけで、國内法(憲法)としてはそんな嘘は無效です。時期がくれば、それも破棄します。」
現実にアメリカなどアングロ・サクソンが、それ以外の人種・民族を人間として認識してゐなかつたのは大東亜戦争の時にもさうでしたし、現在でもさうなのでせう。
これはまさに、我が國が何を大義として大東亜戦争を戦つたのかといふ事です。
当時、國際連盟を脱退した常任理事國・日本(大日本帝國)ですが、この國際連盟が発足する前年パリ講和会議の國際連盟委員会にて我が國が世界で初めて「人種差別撤廃」を明確に提案してゐます。
その投票の結果は賛成11、反対5であつたにも関らず、アメリカ、イギリスなどが強硬に反対し、議長であつたウィルソンアメリカ大統領は「全会一致でない爲、不成立」と宣言します。
この事も大東亜戦争への遠因であつたと思ひますが、この賛否の差とは、植民地の他人種・他民族を人間だと見るか、人間ではないと見るかといふ差だと思ひます。もちろん日本人の中にも差別的な高慢ちきが沢山ゐますし、アングロ・サクソンの中にも差別意識のない人がゐるのかも知れません。しかし、決定的な違ひは國家としてその國柄の有り様が他者に対してどうあるかといふ点だと私は思ひます。
例へばキリスト教國では森を切り開き自然を支配し制御しようとし、他民族に対しても自分達が支配して文明化させてあげなければならないといふ主権論(革命論)の傲慢さがあると思ひます。我が國の場合には古事記にもある通り、「うしはく」を否定し「しらす」統治を是として主権論を排してゐます。それ故に我が國だけが唯一神代から連続する傳統國家として現存してゐるのです。ですから、同じやうに領土を拡大するにしても、彼等は「十字軍」であり、我等は「國譲り」「天孫降臨」であり、その方向性は真逆です。
話を戻しますが、占領憲法の效力論など、実は猿でも分る瑣末な問題だと思ひます。
それよりも、大東亜戦争の大義を分らねばなりません。
その大義を導く我が國の國柄を學び実践せねば祖不孝です。
アメリカやアングロ・サクソンが我が國をどのやうに見てゐたとしても、我が國は、私達は祖先から授かつた尊き自由を尊重し、自立せねばなりません。
この感謝と報恩といふ祭祀の精神こそが日本です。恩と仇には必ず報ゆべし!
その爲には政治に於いて、外つ國のどこが危険だ、どこが悪いのだ、といふ程度の低い意識の儘ではどうにもなりません。
歴史の流れといふのか、世論といふのか、模範(パラダイム)の変化は動き出す迄が緩慢、愚鈍だと思ひます。
嘗て、明治の御一新の折、当初は『尊皇攘夷』でしたが、これは問題の本質に至つてをりませんでしたから、次第に『尊皇討幕』へと移行し、『尊皇倒幕』へと着地したのです。
眞に優れた政治家・指導者は外國に対する警鐘や批判などのみではなく、戦後日本政府をこそ打倒すべく運動せねばならないのです。
人々の眼前に居らぬ外國ならば間接的ですからポピュリズムのアジテーションにも利用しやすいのでせうが、人々が実際に生活してゐる戦後日本を攻撃し、血飛沫を浴びねば、世の中は動かないのです。
運動論としても実はこれが理に適ふ事であり、ガス抜きとは別に、眞に大衆が恨みに思ふ対象とは遠い異國ではなく、私達の生活や傳統の直接の破壊者である戦後日本政府、その手先として私達民を苦しめる官憲や悪徳商なのです。
一殺多生。
はじめての ものことにふれ そだちゆく あこのゆくてを きよめてしがな
(はじめての 物事に触れ 育ちゆく 吾子の行く手を 清めてしがな)
よにうまれ いまあるみこそ おやおやの はなとしるゆゑ ただむくゆなり
(世に生まれ 今在る身(實)こそ 祖々の 精華と知る故 ただ報ゆ也)
よにをどり やへまでさいた やまぶきに みのひとつだに なきもことわり
(世に踊り 八重まで咲いた 山吹に 實の一つだに 無きも理)