サヨナラ☆タブロイド

馬鹿なので小保方&山岡君を【擁護】するよー\(^q^)/

2014/05/12 22:19 投稿

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「おお神よ、わが説に基づく予測に祝福を与えたまえ

 事実が証明されたとき 僕(しもべ)の嘘が曝露されませんように」

『化学学会会報』1963年1月号より


・・・というわけで、まずSTAPについて。(今日は短め)

論理が直観に先立つものであれば、
フェルマーの最終定理が、この前世に発見されることはなかっただろう。

検証が発表に先立つものであれば、
フェルマーの最終定理が、その後世に証明されることはなかっただろう。

絶対に。間違いなく。


検証の不備を不備として提出しなかったことに、氏の責任はある。
(もっともその点で、フェルマーはややルール違反をしている)

しかし、検証の不備を認めたうえで、それを公の審判に委ねることは、
自然科学研究の発展に不可欠だろう。

ものごと何でもはじめから、全てがわかっているわけではない。

(さじ加減は難しいけど、ボヤイやアーベルと、ガウスとのすれ違いとかを、
 その微妙な参考例として挙げておく)



そのうえでおさらいすると、かの論文に不備があるのはまず確定。

さらに、その不備は彼女の主張した(容易な)細胞作成法の、
致命的な障害となることも、おそらく事実。

ただし、(笹井氏の発言を信じるなら) STAP現象は今なお有力な仮説であり、
その意味で何らかの新発見である可能性も、現段階では否めない。



これまでの経緯から、それが期待外れの「発見」に終わる可能性は高い。

しかし、もともと発見とは、
「それまでの期待と異なることを見つけること」であるだろう。
(検証と発見はこの点で逆なのだ)

人間にとって都合のいいことだけが、発見でもあるまい。

以上、小保方氏への擁護。

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まあ、この問題を複雑にしているのは、
そうした「理想的な研究の在り方」というより、

「著作権やら特許やらで、科学研究と知的財産が密接不可分になった」
・・という事情や、

あるいはもっとさかのぼれば、
「自然研究が道楽でなく科学として、職業科学者に担われる必要性が生じた」

・・という、まあどっちかというとお金の話になってしまうのだけれども、
それはそれ、これはこれとして、研究は自由であってほしいと思う。
(それで予算が付かない研究が出ることも、別に私は否定しない)


あの研究ノートもまあひどいとは思うが、
世にはナマジリ神からの御宣託で数多くの発見をした人もいるそうなので、
(それが本当かどうかは、本人ではないので分からない)
ここは嫉妬交じりに「持ってない」ことを呪っておく方が賢明と思う。

とりあえず私はデロリアンを開発するため、
まずトイレで転ぶ練習でもしておこう。

※以上の議論は、あくまで
「研究内容を科学界に問うことは自由であるべき」というものである。

 研究成果を社会に問う場合には、
 何かしらのフィルターはさすがに必要だと、個人的にも思う。

 その責を誰が担うのかは難しい問題だが、
 研究リーダー、研究機関、科学誌、マスコミ、そのどれもが、
 その責を分担するような仕組み作りがなされる方向を支持したい。

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次、「美味しんぼ」について。

まず、美味しんぼは面白い。
(私の15年くらい前の記憶によれば)

そして、漫画表現の分野でのパイオニアの一人でもあろう。
(そうでなければ、あれほどのパロディは生まれ得ない)

しかし、雁屋氏はアレな人である。
(多かれ少なかれ、そういうアレな部分が無ければ、
 漫画家なんてレアな職業に本気で就きたいとは思わないと思う)




まず当該表現がアレであることは、論を俟たない。

しかし、たとえアレであったとしても、
①法的レベルでの解決を望むか?
②編集部への圧力による解決を望むか?
③雁屋氏個人、あるいは作品全体への批判と総括を望むか?

という、おおむね3段階のステップがあるように思う。
(上に行くほど高次元での係争処理)

①を認めた場合、”批判の自由”もまた制限されることになるが、
(一定数実在する)全体主義的管理社会を望む立場の人なら、
①での解決を望むのもOKと思う。(以上)


②については、まず編集者や出版社などには、編集権や出版権という一定の
「権限」が存在する以上、それに付随する責任もまた免れ得ないのは確かだ。
(自由には危険が伴い、権限には責任が伴う)

しかし、②を認める場合、(仮に実態は別であったとしても)
これは(潜在的)購買者以外の力、とりわけ自治体や政治家からの圧力に対し、
一企業である出版社が、「自粛」という手段で応じてしまう形になる。

これは、個人的嗜好品における、
市場原理に対する社会的圧力の優越を認めることになるが、
たとえばタバコ規制とかに何の躊躇もない人は、これでOKと思う。


③については、今回私もさほど異論はない。

ただし、これが雁屋氏や美味しんぼのような超有名作家作品以外にも、
対象が拡げられてしまうと、過剰な社会的リンチを招きかねないとも思う。

一口に漫画家といっても、雁屋氏のような超有名な商業作家で、
しかも、社会に広くメッセージを発信している人もいれば、
趣味の延長として漫画を描き、ペンネームとは別の仕事を持っている人も、
世の中にはたくさんいるだろう。


これらが同一の基準で社会的制裁の対象に加えられれば、
たとえフィクション表現でも、そう滅多なことは描けなくなるだろう。
(後ろ盾のない弱小漫画家ならなおさら)

坊主憎けりゃ何とやらで、「作品内の当該表現だけを批判しろ」というのは、
現実には難しいところとは思うけれど、理想としては一応留めておきたい。

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以前扱った http://ch.nicovideo.jp/a-complex/blomaga/ar454800
明日ママとの相違点は、
〈明日ママの偏見〉は、《それが偏見である》というメタ視点が、
その作品内に含まれていたことだ。

この点で、たとえ実在する題材を扱っていたとしても、
明日ママにはフィクションとして救いになる部分があった。


しかし今回の場合、たとえフィクションであっても、
「これが真実である」と、作品内でも作品外でもベタに主張してしまっている。

いわば作者の妄想を、作品内の人物がそのまま代弁してしまっているわけで、
これではフィクションと言ってもかなり厳しい。

悪役や狂言回しの語る妄想や必要悪などと同列に扱うのは難しいのだ。

雁屋氏自身が非実在の表現物だと考えれば、おおむね問題は解決するのだが・・・
(やっぱり実在と非実在の線引きは難しい・・・)

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いまちょっと、ふまじめなことをまじめに考えていて、
そのちょっとした露払いとして、ついついまじめなことを書いてしまった。

次回はきちんとふまじめなことをやるので、ご安心ください。

※冒頭の引用は、
スレンドラ・ヴァーマ「ゆかいな理科年表」ちくま学芸文庫 p.17 より

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