サヨナラ☆タブロイド

表現における公/私の葛藤

2019/09/02 00:13 投稿

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「自分から外へ外へ拡散していく自分自身の肖像だろうと思うイマジネーションと、中へ中へと非常に収斂していく求心的な天皇の空洞の部分、そういう天皇と拡散していくイマジネーションとしての自分、求心的な収斂していく天皇のイマジネーション、つくり上げられたイマジネーションとしての天皇と拡散する自分との二つの攻めぎあいの葛藤の中に、一つの空間が出来上がるのではないかと思ったわけです。
それをそのまま提出することで、画面の中に自分らしきものが表われるのではないかと思ったのです。」
(大浦信行「自分自身の肖像画として―作家の立場から」
 1993年6月6日、富山近代美術館問題を考えるシンポジウムにて)


「平和の少女像」は、素朴な鑑賞を望まれながら、政治的にそれが困難な作品だった。

一方の「遠近を抱えて」は、少女像とはちょうど逆のジレンマを抱えた作品である。


上記、大浦氏のよくわからない供述を何となく受け入れ、「天皇が焼かれている」とか、
「灰が踏まれている」とか、素朴な表層を一旦据え置き、はじめて鑑賞が可能になるのだ。


「天皇は私の自画像であり、内面である。」


この典型的な妄想、パラノイアから出発し、日本社会の在り方を問うコラージュ作品が、
議会や右翼団体からの抗議で非公開となり、県に図録まで焼却されたのが1993年である。

不自由展の「遠近を抱えて PartⅡ」は、その続編として出展されている。


鑑賞の在り方が正反対の2作品が、最初に話題になったことは、大きな痛手だった。

まずこの不自由展は、初手のレイアウトから失敗していたと思う。


(「COOLISH」、および「爽」の注意書き)

アートは多様な解釈に開かれている。

アート以外のあらゆるものも、多様な解釈に開かれている。これは現代の既定条件である。


ビールを体にかけたくなる時もあるし、めんつゆが飲みたくなる時もある。

間違った手法は、科学なら計算や実験に齟齬が生じ、プログラムなら停止する。


しかし、参照先が自分自身となる世界では、客観的に見ていかに不合理でも、
それを実践する人が途絶えることはない。



(著者近影)

たとえば、上の不快極まりない画像は、サイクリスト達の間ではフォーマルな正装である。

レーサーパンツ、通称レーパンなどと呼ばれており、中はノーパンである。


伸縮性、速乾性に優れた薄手の生地は、肌に密着して擦れを防ぎ、空気抵抗を低減させる。

内蔵されたクッション性の高いパッドが、サドルからの衝撃を和らげる、他にも・・・


このような、アカデミックかつ合理的な説明をしても、伝わらないときは伝わらない。

そもそも、生理的に受け付けない。


「でも結局、変態の露出狂なんでしょ?」と言われれば、あまり有効な反論はない。

まずもって多くの人は、自転車で200キロや300キロも走らない。


そんなことをするのは、色々と感覚のずれたパラノイアだけだ。

ノーパンは裸で、レーパンは変態。それ以上の説明が必要だろうか。

(聖火 2020)

まずもって多くの人は、天皇制をそこまで深く考えないし、生きるのにその必要もない。

自分と天皇を、重ね合わせたりもしない。


求道者や専門家は、「王様は裸だ」という素朴で素直な問いに、しばしば無防備である。

"共感"が理性を上回れば、ときに異端者は裁かれ、本もまた燃やされる。


大多数が受け付けないこうした作品の、公的な展示は中止すべきではないのか?

燃やされたくなければ、分かる人だけに向けて、私的に展示すれば十分ではないか?



(世界コスプレサミット遠景 愛知芸術文化センターから)


個人内の妄想はあらゆる意味で自由だ。それを制約する手立てはない。

しかし、表現する範囲が拡大すれば、ゾーニング、放送コードなどの制約を受ける。


他者の人権の侵害を防ぐためには、こうした棲み分けは不可欠だ。

表現における公/私の区分は、思想・表現の自由が現実に成立するための基本条件といえる。



(愛知芸術文化センター オアシス21から)

しかし、時代は変わりつつある。

フェミニズムやLGBTなどの性の問題。あるいは、漫画アニメゲームといった趣味の問題。


かつてであれば私的領域として隔離されてきた部分が、当事者などによって問題化され、
公的に開かれた場において、議論し直されるようになってきている。


情報通信機器の発達は個人間のやり取りを加速させ、クラスタや中間団体を形成している。

公と私を隔てた境界は薄くなり、彼岸との距離は日に日に短くなってきている。



コミュニティー同士の摩擦は、かつてなく激化している。


"彼ら"は既存の境界線を揺さぶり、"中立的立場"での安住を否定する。

議論の前提として用いられてきた"言語"そのものを疑問視し、ときに攻撃対象とする。


こうしたアイデンティティ・ポリティクスを巡る"ポストモダン的状況"は、
8、90年代頃までの日本では"ファッション"として流行し、消費された印象がある。

この傾向は日本の"アート"やメセナ活動にも、そのまま通じる。


しかし、その前線であったアメリカでは、これはもともと"戦争"だった。

ネットの普及は、この文化間戦争を世界中に広げる。もちろん日本も例外ではない。

あいちトリエンナーレ"情の時代"は、まさにその時代にふさわしい展覧会となった。


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こうした変化は、自由にとって諸刃の剣である。


「私的領域に口を出さない」代わりに「私的なものを公の議論に乗せない」のは、
一定の合理性がある。


拡大された"私"による、公への働き掛けは、これまでに築いてきた基本的自由の原則を、
内部から切り崩してしまう危険性がある。


今回の不自由展もまた、上からの検閲ではなく匿名の電凸で、中止に追い込まれている。


(世界コスプレサミット オアシス21)


公/私の境界は、差別、偏見など認識の暴力から身を守る壁としても機能してきた。

しかし同時に、認識からの疎外をもたらすヴェールでもあった。


「多少誤解を受けたり、罵倒されても、無視されるよりマシ」

そう感じる人が増えれば、この越境はより盛んになるだろう。


共通の基盤を持たない異世界の住人が相手では、言葉は通じず、議論は噛み合わない。

互いに理解することは、(これからも)無いだろう。


それでも共存する術があるとするなら、それはもはやアートの領域ではないだろうか。


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「大多数が受け付けないこうした作品の、公的な展示は中止すべきではないのか?」

Yes.

受け付けないと思うなら、そう言えばいい。反発すればいい。

ただし、それが公的な意見かは留保が必要だ。私は一部ではなく、一部は全体ではない。


逆に『私は一部であり、一部は全体である』なら、あなたは裁きを下す権利がある。

展示を中止し、それを焼き払うことも認められるはずだ。みんなのものはあなたのものだ。


「燃やされたくなければ、分かる人だけに向けて、私的に展示すれば十分ではないか?」

Yes.

実際に多くのアーティストはそうしている。
(なお今回の不自由展は、結局、私的な寄付で費用が賄われた)

しかし、それで十分とは思わない事情があれば、燃やされる覚悟で公的に展示する。


たとえば中南米、アフリカ、中近東、ロシア、アジアなど、
本当に自由が無い国のアーティストは、文字通り命を賭けてそうした表現をしている。


他人の身を危険に晒すのではなく、自分の身をも危険に晒す。自由にはリスクが伴う。

国際芸術祭あいちトリエンナーレでは、そうした国から来た作家が、数多く出品した。


(不自由展・その後)


技術や社会の発達は、"我々"を1つにせず、むしろその違いをより際立たせた。

その一方で、異質な世界との接触の機会を拡大し続けた。

この不均衡が解消される気配はなく、むしろ逆方向へ加速し続けている。


「たとえ分かり合えなくても、表現することをやめない」

それが既定路線なら、その発せられたメッセージを、一体どのように受け止めるべきか。

"正しい自由"をでっちあげて、自由を制限したほうがマシではないのか?


「自由には責任が伴う」

無責任の象徴たる匿名掲示板やコメント欄では、そんな言葉が氾濫する。

「では結局、誰が具体的にその責任を取るのか」を疑問に思いながら、私はそれを眺める。

拡散する"私"と、分断される公と、その中で立ちすくむ私。




「なぜ、表現の自由が失敗するのか?」


"表現の自由戦士"などと揶揄されてきた私にとって、これは切実な問いだった。

たまたま愛知県にも住んでおり、不自由展も滑り込むことができた。

こうした事情が重ならなければ、この記事を書くこともなかっただろう。


私はたまたま、日本という自由な大衆社会に住んでいる。

専門家や言葉が分かる人同士で、共通理解を積み上げていく「学問」ではなく、
理解を積み上げることを目的とせず、日々の楽しみを得る「娯楽」でもなく、
専門家も大衆も対象とした「アート」が、社会でどんな役割を持つのか?


私が表現の自由について書いた他の記事は、これまでアートとあまり接点がなかった。

すったもんだの末こうして記事を書く動機が生まれ、今たまたまあなたに届いている。

(この無名ブログに固定読者は皆無なので、その傾向はなおさら強い)


公共のアートの役割とは、こうした必然性の無い所に、接点を作り出すことかもしれない。

論理性、合理性、属性などを超えて、あり得ないエンカウントやすれ違いを実現させる。

専門家と素人、日本人と外国人、戦争と平和、家族と独身、右と左、わたしとあなた。


今回記事で取り上げたのは、話題になった2作品だけだが、あいちトリエンナーレには、
こうした偶然を後押しする、無数の作品やパフォーマンス、イベントがある。


私のキャパシティが原因で、こうした作品を紹介するには至れなかったのが残念だが、
まだ会期は十分にあるので、せっかくなので気軽に訪れてほしいと思う。



   AICHI TRIENNALE 2019 : Taming Y/Our Passion (~2019年10月14日)


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