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Table4 ヴェーバー『社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」』を読む(2)

2013/06/23 23:50 投稿

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こんにちは、SyuIです。

前回は〈客観性論文〉の序文にあたる最初の2節について読みました。

この部分は〈客観性論文〉全体を見通す、問題提起・設問設定の個所になっていました。

具体的には、次の2つに大別できます

(1)「社会政策の科学的批判」とは、なにを意味するか

(2)「社会科学的」研究の領域に、いかなる意味で「普遍的に妥当する」[=客観的な]
    真理がありうるか、またどんな方法でそうした心理に到達することができるのか

では、今日の範囲に入っていきます。

*  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  *  
Ⅰ節
[3] 価値判断に関する現状

この節では、価値判断に関する現状についてまとめています。

まず、国民経済学は実践的な観点から出発した科学(=「技術」としての科学)である
ことに言及しています。このことは、
”「あるもの」[存在]の認識と「あるべきもの」[当為]の認識とは、原理的には区別されなかった”

という表現で示されています。国民経済学が科学と名乗っているにも関わらず、上記の
ように存在と当為とが原理的に区別されなかった理由を次のような二つの見解を紹介して
説明しています。

 第一の見解:変わることなく同一の自然法則が経済事象を支配しているという見解
    ⇒”あるべきもの”は”変わることなくあるもの”と一致

 第二の見解:ひとつの一義的な発展法則が経済事象を支配するという見解
    ⇒”あるべきもの”は”不可避的に生成するもの”と一致

存在と当為の混同」が起こっている理由の一つには以上のような見解によると考えることができるというわけです。これは、自然主義的な考え方で、本文ではそのあとに歴史主義にも触れていますが、こちらでも「存在と当為の混同」は解消されなかったのです。
”われわれはただ、国民経済学は、特定の「経済的世界観」から価値判断を生み出すことができるし、またそうしなければならない、という不分明な見解が今日なお消え失せていない”

第3節はこの文章で締めくくることができるでしょう。この文章は、「国民経済学[という科学]は、…」と補足して読むとわかりやすいと思います。ここで述べられている現状は、科学が特定の世界観から価値判断をすることが出来る、しなければならないと考えられているというものであり、存在と当為の混同がたしかに見られることがわかります。

存在と当為の混同」は、現在でも報道番組のコメンテータの発言などを見ていると問題になることが多いように思います。やはり「あえて混同しないように意識」しないと発生してしまうものです。普段意識しないと問題意識もなく、発言してしまいがちですが、自分に「あえて混同しないように意識」させるためにも、この本は読む価値があるのではないか、と思います。

[4]
では、著者は、[1]や[2]で散々言及してきた雑誌では、どのようなスタンスを取ろうとしているのでしょうか?それを次のように宣言して、この節を終了させています。
”われわれを拘束する規範や理想をつきとめ、そこから実践のための処方箋を導き出すようなことは、断じて、経験科学の課題ではない”
つまり、[3]のような現状に対して、[4]で明確にそれを拒否しているのです。


今回も更新しました。
遅々として進まない感じですが、今回は、大きなテーマが出てきました。
具体例などを検討してみたい個所ですね。


**今回取り扱った部分**********
*  本文:P27~P30 1行目まで  *
*  段落番号:[3]~[4]        *
*  解説文:P191~192      *
*********************

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