OHESO PRODUCTION - releasenotes -

へその人の異常な拘泥 あるいは、私は如何にして自問することを止めて荒木比奈の担当プロデューサーを名乗るようになったか

2018/12/09 16:24 投稿

  • タグ:
  • アイマス
  • シンデレラガールズ
  • デレ6th
  • 荒木比奈
  • へその人

○序文

 12月2日。ナゴヤドームにて行われた、シンデレラガールズの6thライブの後、私はこう呟いた。

 それなりに長い間アイマスを追いかけていた私だが、「担当」という語を使うことを意図的に避けていた。何故か? そして、どうして今になってそれを撤回するに至ったのか? その仔細を、備忘録も兼ねて以下に記す。


○「担当」という語への無執着、忌避、そして自問

 私がアイマスに初めて触れたのは2010年の8月。ニコマス動画が発端だった。年代でティンときた方もいるかもしれないが、いわゆる9・18事件が起こる、ほんの少し前である(知らないという方、調べることはあまりお勧めしない。決して愉快な話題ではなく、また今となっては情報の確度にも疑問が残る)。
 私にとっては、新しく触れ始めた界隈で早速イヤな話題に遭遇した……という感じでは、実はまったくなかった。
「どうやら何やら騒動が起きているらしいが、まぁ、よく分からないからいいや」
 と、他人事のように思いながら、あらゆる動画を手当たり次第に見漁っていたのを覚えている。ある種の冷淡さ、あるいは第三者という立ち位置、目線の置き方。言い替えるなら、アイドルのプロデューサーというロールプレイに自分を置くことなくアイマスのキャラやコンテンツと接していた。長いこと二次創作としか接さず、ゲーム本編を遊ぶのもいくらか後になってからだった。そしてその時でさえも、アイドルの担当プロデューサーというロールプレイはあくまでゲーム内だけのもの、という意識が強かったように思う。
 そういうわけで、アイマスに触れ始めたばかりの私にとって、担当という語は良くも悪くも何ら思うところがなく、使う機会も極めて限られていたのである。

 そんな私ではあったが、それから長いことアイマスと接し続ける内に、ある心境の変化を迎えることとなる。
 詳しくは覚えていないが、デレステのリリースから一年が過ぎた頃だったと思う。ツイッター等で「担当ならば○○して当然」「□□だなんて担当にあらず」という類いの文言を見るたび、払拭し難いほどの不快感を覚えるようになった。ある種の行動そのもの(他人への攻撃や侮辱、あるいは不法行為など)を非難するのなら分かる。だがそうではなく、非難されるような行動をとった人間じしんを、担当という語で以て糾弾することは、致命的なまでに間違っているのではないか。そう思わずにはいられなくなったのである。担当とは、そういう使い方をするための語ではないだろう、と。
 また、ある一時期「アイマスPは推しという言葉を使うべからず 担当を用いるべし」という主張が多々見られた時も、首を傾げるようになった。推しと担当という言葉の使い分けに、その当人にとっては大事な理由やワケがあるかもしれないのに、前者を貶め後者を称揚するのはあまりにも乱暴ではないか、と。

 このようなネガティブな面が妙に目についていたこともあってか、ただでさえ使う機会の少なかった担当という語を、明確に忌避するようになったのである。「この語は積極的には使うまい」と思い始めたたのも、おおよそこれくらいの時節である。

 そして、そんな状態がいくらか続いた後に、ふと私は自問するようになる。
「担当という語の使われ方に間違いがある、と感じるということは。『その語の正しい使われ方がある』という認識が前提になければおかしいのでは?」
「万人に通用するものかどうかはさておいて、担当という語の厳密な定義が私の中には既にあるのではないか? そして、その厳密な定義こそが、私が考えるところの『担当という語の正しい使われ方』の、少なくとも根拠になっているのではないか?」
 と、このような命題が、いつからか頭の片隅に居座るようになった。
 私は元来、文章媒体を主とする創作者である。語や言葉の使い方は正確を期さなければならない、という意識が根強い。多くの人間がそういう使い方をしているからといって、無表情という意味で鉄面皮という語を使ったり、性癖という語を性的嗜好の意味で使用したりすることへの忌避感が妙に強い。
 そんな私だからこそ、アイマスにおける担当という語の使い方も、なぁなぁで済ませたくはなかった。ましてや、無意識レベルでは把握しているらしいが明確に言語化できていないらしい、と自覚してしまったとあっては尚更である。

 事ここに至って、私の「担当という語」に対するスタンスは確立したと言っていい。
「自分にとっての定義付けが完了するまで、この語は使うまい。自分で納得のいくような定義ができたなら、改めて使おう」と。先に引用した呟きは今年に入ってからのものだが、スタンスそのものは遅くとも2016年の半ばには出来上がっていたかと思う。

 そして、これが我ながら悠長だと自嘲するところなのだが。この自問自答に、解答期限を設ける気がまったくなかった。
「何年後かは知らないが、できればアイマスの公式展開がすべて終わるまでには答えを見つけたい。でもまぁ、私が死ぬまでに見つかればそれでもいいか。そして最期まで見つからなかったとしても、それはそれで生涯の暇潰しにはなろう」
 と、冗談抜きで考えていたほどである。学生時代にやっていた武道(居合道)の世界では、ひとつの命題(ひとつの技だとか、刀の握り方だとか、呼吸の仕方だとか)に十年単位のタイムスパンで取り組む先生方もいた。そういった環境を経ていたからか、ある一つの問いに一生を費やすことへの躊躇いはほとんどなかった。また同時に、自分にとってこの問いは、そうしたくなるほどに大事なものなのだと自覚することもできた。
コウモリであるとはどういうことか、よりは答えを出しやすいだろうさ」
 という気楽さもあったものだ……比較対象がだいぶおかしいが。こんなところにも私のドライさが表れているように思う。

 最初は無執着。次いで忌避。そして最終的に自問のための自粛。以上が、私が担当という語を積極的に使おうとしない理由、だった。


○私と荒木比奈

 ここで、私と荒木比奈の馴れ初めについて軽く語るとしよう。顔と名前だけならばモバマスとアニメでそれぞれ見てはいたが、その時点ではそれほど惹かれるものはなかった。本格的に目を向けるようになったのは、デレステのサービスが開始してからである。
 当時、リズムゲームの経験がほぼないながらも始めたものだから、腕前も惨憺たるものだった。MASTERの中でも比較的難度の低い『風色メロディ』や『ミツボシ☆☆★』ですらまともにクリアできなかったほどである。そんな状態だったものだから、遊び始めてから一ヶ月としない内にダメージガードSRである[ブルーフロートパーティー]荒木比奈(以下、ブルフロ比奈)を手に入れられたのは、まことに僥倖であった。




 覚えのある人も多いかと思うが、リズムゲームに習熟していない内は、ダメージガードSRの有無がクリアの可否を大きく左右する。私も例外ではなく、ブルフロ比奈はMASTERに挑むならば属性が違っていても編成に入れた。スコアは確かに落ちるが、ノーコンテニューでクリアすることに比べれば何ということもない。文字通り、ブルフロ比奈に"おんぶにだっこ"だった。

 そして、そうやって重用している内に、いつの間にか、数あるシンデレラガールズのアイドルの中でも一番気になる子になっていた。ブルフロ比奈なしでも難なくクリアできる程度の腕がついてからも、なるべく編成にいれたくなる程度には。

 こうして振り返ると、2015年末にはそういう状態になっていたと見える。そしてそれ以降、荒木比奈に関しては特別な気持ちを抱いている様子が、探せばどんどん出てくる。


 「もし、担当という語を使う日が来たとしたら、荒木比奈に対し使うだろう」という予感を記したものも、ひとつやふたつではない。

 こうして振り返ると、私が荒木比奈を担当と呼ぶ素地は十分にあった……どころか、単なる時間の問題だったとも言える。
 そして、決め手となったのが、シンデレラガールズ6thライブのナゴヤドーム公演、そのDay2だった。

 田辺留依さんの演じられる荒木比奈に、可能な限り注目しよう。そう思って臨んだ現地ライブ当日。私の情緒は想定を遥かに上回るほどに動かされることとなる。
 開幕の『イリュージョニスタ!』で、デレステ恒常SSR[ネクスト☆ページ]荒木比奈の再現衣装を目の当たりにた時点で我を見失うかと思った。
 『Snow*Love』を朗らかに歌い上げる様子に、鼓動がうるさいほど高鳴った。
 『Starry-Go-Round』では花道の田辺留依さんと目が合った、それも二度。嗚呼、私がよもやこんなことを言いだすとは!
 『恋が咲く季節』、微力ながら票を投じた第6回総選挙の思い出とその後の喜びがフラッシュバックした。
 『Nation Blue』で青に染まる会場に響いた力強い歌声に、しばし呼吸を忘れて聴き入った。
 そして、『always』。最後の最後、「私を見つけてくれて ありがとう」のパートで田辺留依さんが、いや、荒木比奈がモニターに大写しになった時。まったく陳腐な表現だが、堰を切ったように涙が溢れ出た。

 これは9月上旬のデレステ3周年記念イベント、SS3A Live Sound Booth公演後の所感である。この時も、まるで比奈の身の上を踏まえたかのような歌い分けに脱帽したものだが、よもや同じ手をナゴヤドームでも打つとは思わなかった。それも、胸懐をひたすらに掻き乱された直後だったものだから、本当に堪らなかった。そして同時に、私と荒木比奈の記憶が一斉に蘇った。
 いくつもの高難度曲をブルフロ比奈と共に潜り抜け。
 ブルフロ比奈に頼らずともクリアできるようになったのを少し寂しく思い。
 デレステのイベントSRとして実装された際には驚喜のままに突っ走り。
 SSRが実装されたら脇目も振らずにガチャを回し。
 第6回総選挙での中間および最終発表で名を見つけて喝采を上げ。
 田辺留依さんの荒木比奈としての演技を耳にしては幾度となく悶絶し。
 グッズが出るとなればすぐさま予約に走り。
 荒木比奈としてステージで歌い踊る田辺留依さんの姿に、総身を震わせた。
 なるほど思い出ボムとはこういうものか、と、身を以て体感した次第である。

 泣き声を抑えるべく奮闘する中で、私はひとつの思考に至る。
 私にとって、荒木比奈とは、本当に特別な存在だったのだ。それまでの思い出とその日の自分の感情が、何よりの証拠だった。そして、如何なる代えもきかないほどの思い入れを注いでいる、これこそが私にとって「担当である」という語の定義なのだ、という確信を得た。
 何ということはない。答えはずっと前、おそらく3年ほど前には既に出ていた。その答えを脇に押しやってまで自問自答を続ける必要などなかった。どうして、いつの間に気に入るようになったのかは未だに判然としないが、そんなことはもはやどうでもよかった。どうしようもないほどに夢中である。1000日以上に渡って積み上げてきたその事実を自分じしんに納得させることこそが、私が本当にとるべき行動だったのだ。

 その後の『Stage Bye Stage』『GOIN'!!!』『お願い!シンデレラ』は、文字通り憑き物が落ちた、晴れやかな気持ちで応援していたのを覚えている。そしてその夢見心地のまま、あの呟きを投稿したのだった。


○担当宣言の後

 あれからそろそろ一週間が経つ。実のところ、何かが変わったというような感覚は未だない。それはそうだ、数年前には確立していた在り方に「担当」という看板を追加したに過ぎない。私の心境の変化は、何かしらの形で荒木比奈の新たな出番を迎えて、初めて実感できるだろう。
 認識が書き変わる、もしくは書き換わっている。それを自覚する瞬間が、私はとても愉快に感じられる。他のアイマスP諸兄諸姉の活動に、いつの間にか心を打たれていたと認知した時などは、「参りました」と笑顔で言いたくもなるのだ。もしかしたら、これこそが、私がアイマスを長年追いかけ続けている真の理由なのかもしれない。
 それまで何とも思っていなかった、顔と名前も覚束ない程度にしか認識していなかったキャラへの興味関心が急上昇したり。
 かつてはアイマスのライブを「声優さん達のコスプレカラオケショーみたいなものでしょ」と冷ややかに見ていたのに、ふと気づくと公演としての完成度や演者さん達の真摯な姿勢に心打たれるようになったり。
 総選挙やCDの購入などの行動を決めるにあたって、他のPからの拭い難いほどの影響を感じてしまったり。

 今回、シンデレラ6thライブを経て変わった(決着がついた)のは、私にとっての担当という語の定義だった。さて、次はどんな変化が私を待っているのだろう。まったく、楽しみである。





○担当であるとはどういうことか

 以下、完全に蛇足ながら、アイマスにおける担当という語との付き合い方について、持論を記す。

 もし、本稿を読んで「担当を名乗るにはこれくらいのことを考えないといけないのか」と思った人がいたとしたら、私は「ンなわけねェよ」と笑い飛ばす。これはあくまで「担当という語に対し奇妙なほどの執着を見せた者が、ひとつの決着をつけるまで」の過程に過ぎない(故にこその『へその人の異常な拘泥』なのだ)。もし私が、アイマスに触れ始めて数年以内にさくっと担当という語を使い始めていたら、こんな妙な命題に固執することもなかったかもしれない。
 また、ライブでの経験を経なければならないということもまったくない。私の場合は論理や思考を重んじる、つまりは頭でっかちなきらいがあるからこそ、目と耳とついでに心を容赦なく震わせるライブ現地という環境が効果的だったというだけの話だ。人によってはライブなどを経験せずとも各々の答えを得るだろうし、また逆に、私と同じライブに参加してもまったく異なる答えに辿り着く人だっているだろう。
 もっと言えば、担当という語に執心しなければならない道理もない。まったく何も考えずに担当を名乗ったり、名乗らなかったりする人もいる。すべて自由、内心の自由だ。たとえ公権力であっても検閲することはできない、況や何ら特別な権力を持たない市井の人間をや。

 「あなたが、あなたじしんを納得させることができるか」、とどのつまりはこれに尽きる。どこかの誰かではない。あなた自身が、担当という語に対し、一番落ち着く付き合い方を見つけられるかどうかにある。
 そういうわけで、私は「そのアイドルのことが好きであれば担当と名乗っていい」という考え方は、少々乱暴だとしてあまり好かない。アイドルが好きかどうか分からない、好きであるという感情に自信がないのだとしても担当と名乗っていてもいい、という考え方を取りこぼしてしまう。

 もしあなたがアイマスPで、かつ、担当という語との付き合い方を見い出せずにいるならば。私は、他の人間がどう言うかは一旦すべて脇に置いて、自分じしんが納得するかどうかの一点にのみ集中することを勧める。その果てに「今はあえて考えずにおこう」と回答を先延ばしにするのだとしても、はたまた「考えるのも使うのもやめた」と問いかけ自体を放棄するのだとしても。それであなたが納得するならば、他の全人類が否と言ったとしても、私は一も二もなく是と言うだろう。

 ああ、でも、もし本当に回答を見つけたいのだとしたら、アプローチの仕方は積極的に増やすことを推奨しよう。人間の意識というものはなかなか厄介で、自分じしんを騙すことに関してだけは妙に上手い。「まさかこれは違うだろう」と無意識にシャットアウトした思考の先に、あなたが求めている答えが潜んでいるようなことも、そう珍しいものではない。と、少しだけ遠回りした身からの助言を記しつつ、筆を置くこととする。


コメント

コメントはまだありません
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事