テオナナカトル のコメント

テオナナカトル
No.1 (2018/08/02 08:53)
伊藤整の著書「近代日本人の発想の諸形式」の中で似たような論が展開されているのを思い出しました。
著書の中の『近代日本における「愛」の虚偽』で伊藤整は、西洋的な愛というものは日本においては考え方が異なるもので、
西洋では聖書のなかで「人にかくせされんと思うことを人に為せ」と表現されていることが他人と自己を同様のものと考えるという意味で個人主義の考えを生み、その他者に愛という形で交際、協調などを尊重し社会のルールを作っている。
一方、日本では他者に害を及ぼさない状況で心の平静を得ていて、それは儒家思想の「己の欲せざる所は人に施す勿れ」と表現される「仁」や仏教の「慈悲」に基づくものであり、他者を自己と全く同じに愛せないが故に、憐れみの気持ちを持って他者と接し、自己の冷酷さを緩和するという傾向がある。
と考察していて、筆者さんの主張に近いと思いました。
そもそも、人が他人を無条件に愛するというのは不可能なものであり、それをどうにかするためにキリスト教が生まれ、「祈りと懺悔」という習慣を介して絶対不可能な目標をもたせ続ける試みがなされて来たわけです。
それをクリスチャンでもない日本人が真似たところで、どこか胡散臭い絵空事に見えるのは当たり前なのでしょう。

また、同じく伊藤整の言葉に
「愛の実体を追求しすぎることは、ラッキョウの皮をむくようなもので、ムキすぎると無くなってしまいます。」
というものもあります。「恋」や「惚れている」とか言った、主我的で、ある意味利己的なものを「愛」という感情に鈍化できれば、あるいは日本人でも人を愛するという感情を持つことが出来るのかもしれません。

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