重い文章と軽い文章。
これは、「深い文章と浅い文章」と言ってもいいかも知れない。この違いは、どこにあるのだろうか?
何度も読み返したくなる文章。何年か経って、ある日突然、もう1度読んでみようと思う文章。これが、深さ。あるいは、重さ。
それに対して、1度読んで終わり。それも流し読みされて終わってしまうようなもの。これが、軽い文章。浅い文章。
それは、視点の違いではないのだろうか?と考える。
目に前を見て書かれた文章と、何十年(あるいは、何百年)も先の世界を見据えて書かれた文章。ここには確実に差が生じる。
あるいは、1人の人の視点のみに従って書かれた文章と、様々な人の視点を考慮されて書かれた文章。ここにも、自ずと差は生じてくるだろう。
これが、重さや軽さ。深さや浅さの違い。視点の違い。
もう1つには、表現方法の違い。
ビッシリと文字で埋められ、改行もなく段落も少ない。そういう文章は重い。対して、改行や会話文が多く、パッと見て白紙の部分が大部分を占めている。こういう文章は軽い。それは、同時に読みやすさにつながってもいくのだけど。
あるいは、同じ言葉の繰り返し。同じ内容の繰り返し。こういう文章は軽い。それとは逆に、不必要な言葉は極限まで削られて、必要最低限の文章で構成されている。こういうものは、深く重い。もちろん、そういう文章を書く為には、何度も何度も推敲を重ねるか、それなりのレベルに達するまで膨大な量の訓練を重ねなければならないだろう(あるいは、その両方か)
それは魂の違いなのかも知れない。そこには、その文章を書いた者の思いの強さや、修練の歴史がこもっていると言ってもいいだろう。これが重さとなり、深さとなっていく。
こんな時代なので、重い文章や深い文章が求められているのかどうかはわからない。1度読んだ本は2度と手にされるコトはない。一読されたページは2度と開かれない。それが、現代の常識なのかも知れない。
けれども、あまりにも情報のスピードや軽さのみを追い求めてしまうと、人間性も世界も同じように軽く薄っぺらくなっていくのではないだろうか?と、そう考える。
コメント

コメント、どうもありがとう。
本だからインターネットだからといのは、人にもよると思うんだけど。確かに、そういう人は多いだろうね。長時間、画面を眺めてると疲れちゃうから、なるべく難しい文章は読みたくないという人は。
ま、論理的か直感的かというのは、どちらでもいいんだけど。
普段から深く思考している人ならば、文章自体は直感的でも構わないと思うんだよ。直感的でありながら、重い文章や深い文章というのは書けるんじゃないかな、と。
なるべく簡潔に書く。これは、重要。全く同じ内容であれば、短い方がいい。
どうしても、その長さが必要な場合というのはあるだろうけど、それ以外はなるべく短いに越したことはないね。
独自の造語や表現を使う人が少ないというのは、確かにあるかも知れない。やってる人はいるんだけど、そんなに多くはないかも。
ただ、これに関しては読み手の方が... 全文表示

>>それにしても、そんなに論理的な文章が多いかな~?
論理的というか、理に適っている文章が多いかなーと思います。まあ、何を書くかによりますね。最近僕が重い文章ばかり読んでるだけかもしれません。
>>ちなみに、minato[ t ]さんは、~
え、そんなに重いですか? できるだけ分かりやすく書くよう努めているんですが……。確かに今回のコメントはちょっと情報を圧縮しすぎて重くなった感はありますけども。い、引用文が重いだけなんじゃないですかね~(震え声)
うーん、やっぱり分かりやすく書いた気になっていただけだったか……。

こういうのは、どっちかなんだよ。テーマが難解であればある程、表現方法はわかりやすくしないと。もしくは、簡単なテーマをいろいろな視点から見たり、複雑な解釈をしてみたり。
読んでる本がそもそも難しいのに、それに対して複雑な物の見方をするから、読んでる方としては、わけがわからなくなっちゃうんだよね。
ネット上の情報を見ていると、文章の簡潔さゆえに、全体がどこか直感的になっている気がします。だけど論理的でなければ叩かれるので、簡潔でかつ論理的に飛躍しない情報が求められているのではと思います。
そうなると、なるべくまとまっていて分かりやすい、本よりも直感的だけど論理的な情報を発信することが多くなりそうです。ネットに限らず、公でリアルタイムに情報が残る場であればあるほど、頭の中で悶々としていて論理的にまとまっていない情報は発信されないと思います。なぜなら、叩かれるのを恐れるからです。
また、エンターテイメントな要素がない限り、慣用的でない発信者独自の造語や隠喩表現があまり見られないというのも現代の特徴だと思います。これは、情報を分かり... 全文表示