先日、海外の忍者コミュニティで 「あの網目のシャツは本当に着ていたのか?」 と質問が上がっていたので、近所にある市営の歴史資料館に鎖帷子を置いていた事を思い出し撮影に行ってきました。
その時気付いたのですが、鎖帷子って衣類とセットなんですよね。
ヨーロッパからのコメントで「私の国ではチェーンメイルと肌の間には必ず衣類があった。肌と金属を守る作用もあるし、衣類を温めてから着ると快適だ。」 といただき、忍者の肌にそのまま鎖帷子を着るスタイルは本来ありえないスタイルと気付きました。
私のいる薩摩ではまず直接鎖帷子を着る事は無い様なので地方の問題とも考えられるのですが…。
この鎖帷子を直に着る忍者スタイルができた原因として考えられるのは、元々衣類をセットだった鎖帷子が忍者コンテンツが出来る際、鎖帷子を衣装として取り込む時に資料として残っていた鎖帷子の布の部分が朽ちて鎖だけの状態だった場合。
鎖帷子がよく使われたのは主に戦国時代の様です。
ちょうど近所に残っていた鎖帷子は島津義弘公に使えていた米良家の物なんですが、実際は衣類に鎖帷子が数か所のリングで取り付けられていたものなんですが、現在は布の部分が朽ちてしまって衣類としての原型を留めていない状況です。
現在の忍者キャラクターイメージができたのを漫画で多く描かれる事になる昭和初期くらいと考えると、戦国時代に使われていた鎖帷子は当然衣類が朽ちて網のシャツの様になっているので、それが忍者の網シャツ表現に繋がったのではないか?と考察します。
あと、これは薩摩だけの話になるのかもしれませんが、戦の際は戦没者を弔う為にお坊さんが同行したそうです。
戦に加わらないとはいえ危険な場所の近くにいる訳ですから身を守る為に鎖帷子を着込んでいた可能性もあるのではないか?と資料館の方からお話しがありました。
これが何に繋がるかと言うと、「忍者衣装は宗教服だった説」に繋がります。
まぁ、これから証拠なりを探して積み上げないといけない段階なのですが、とりあえずの考察として記します。
※さつま忍者研究会FBページからの転載
(リンク先には考察に使用した鎖帷子の画像もあります)
https://www.facebook.com/permalink.php?story_fbid=3578002342290338&id=570200516403884