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『明日、ママがいない』最終回、TVドラマの臨界点!

2014/03/13 15:00 投稿

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  • 野島伸司
  • 芦田愛菜
  • 安達佑実
  • 三上博史
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AIR です。

最終回を見ました。第一話を見た時点で多くの視聴者が予想できていた
「施設長が主人公の里親になる」
の展開で、落ち着くべきところに無難に落ち着いて、後味も良い終わり方を
見せてくださいました。
さらに問題となった部分に対しても、笑いを誘う明るいオチが
最後のショットに用いられました。
そしてこれが、TVドラマの臨界点を見せたことにもなりました。
TVで放送ができる臨界点とは「安心して見られる予定調和の内容」です。
それではTVドラマとは何でしょうか。
「うっかりTVのスイッチを入れた人でも誰でも見られてしまうハコで放送される映像作品」
のことです。
刺激的すぎたり挑発的すぎる内容はタブーです。
ですから当作品が問題作と呼ばれる原因となった、他のクレーマーの方々の言い分は
「児童養護施設・里親・子供の描写、および体験を思い出して生じた不快感」に
あると言われております。
このTVドラマを見ていなかった方のために、このドラマの基礎設定を一言で説明すると、
「児童養護施設の施設長の佐々木友則(三上博史)さんが、子供たちを里親に出したり
出さなかったりで騒動を起こすお話」です。
僕がこのドラマを視聴することに決めた理由は、多くの視聴者が知ったものと同じく
「週刊誌のニュースで問題作として取り上げられていたから」、それなら
「どのくらい問題作なのか自分の目で確認しよう」という流れからです。
僕は基本的にTVを見ない生活をしています。
実写ドラマを見たのも数年ぶりですし、
第一話から最終回まで通して見る「完走」行為も初めてです。
第一話を見てキャラの名前設定に悪意を感じてクレーマー的なことを書いてしまいましたが
「最後まで見て良かった」です。これが僕の感想です。

第一話の時点で軽率な文章を書いたことを反省しつつ前回のものを読み直しました。
http://ch.nicovideo.jp/AIR01/blomaga/ar466902
当作品では問題と思った部分が最終回で「伏線だった」とわかります。
この問題部分を削ってしまうと、この作品の本質を理解することができなくなります。
ただし、今でもやはり「分別がつかない小さいお子さんが真似をしますから、
いじめを誘発するネーミングセンスをいい大人が提供してはいけません」
の考えは変わりません。
その行為は差別意識を育むものですから、
制作者の方には別の呼び名を考える工夫をしていただきたかったです。
呼び名を別のものに差し替えても、作品の本質は変わりませんから、
これは残念な点でした。
それではこのドラマの本質とは何でしょう。
それは
「子供が親の愛情を受け取ること」です。
それでは親が最初に子供に与える愛情が何かを即答できますでしょうか。
未成年には難しい問題かも知れませんが、
答えは「名前」です。


主人公のポスト(芦田愛菜)さんは
「名前だけ与えられて、赤ちゃんポストに預けられた子供」でした。
つまり「施設長が0歳児から育ててきた特別な子供」です。
ですから最終回で、ロッカー(三浦翔平)さんに「二人は同じだ」と言われて迎えに行くよう
里親の環境に合わせて髪を下ろして不要になった
ポストさんの髪を括っていたゴム飾りを差し出されますが、
その手を振り払った施設長は、里親の契約を破談にしたあと施設への帰り道で
「俺が寂しいから俺の子供になれ」と自分の気持ちをポストさんに伝えます。
そしてポストさんは施設長の言葉を受け入れました。
ロッカーさんのいう「二人は同じだ」の意味は、
「二人とも性格が、自分を犠牲にして他人に尽くすもの」だからです。
そのようにして本作品は最終回で
タイトル『明日、ママがいない』から『明日、パパがいます』に着陸したのです。
そしてエンドロールのなかで親子で行った先の遊園地で撮影したプリクラにようやく本名の
「キララ」を書き入れる行動ができるようになりました。
これが本作品の最後のショットです。涙なくては見られない画面です。
このようにして彼女は「ポスト」の呼び名を捨てられました。
DQNネームであっても本名を受け入れられたのです。
父親ができたからこそ、母親が与えてくれた最初の愛情を受け入れられました。
今まで意地になって拒絶していたものを受け入れられるようになれました。
「ポスト」という呼び名は屈辱ですが、最終回を見れば名乗っていた理由がわかるものです。
主人公が人間として大きな壁を越えた場面です。ここが感動のポイントであります。
本作品で少し惜しいのは
エンディング主題歌の歌詞が「かわいそうね かわいそうね」から始まる点でした。
視聴者の感情を音楽が「言葉で誘導」してしまっては脚本と演出が台無しです。
それにしても二人ともすごく「ツンデレちゃん」で、
見ている僕のほうが恥ずかしくなってしまったのでした。


最終話の前のお話で施設長が「実の親と、真実の親は違う」といった発言をしております。
最終話の前のお話は「一度は子供を捨てた母親が、子供を引き取りに来たエピソード」です。
その子供は
本当の母親がいつか迎えに来てくれることを信じて待っている「実の親派」だったのです。
しかしその子供も里親が決まりかかっていました。
とても良くしてくれる夫婦でした。
だから施設長は先のような発言で子供に決断を迫るのです。
「実の親と、真実の親は違う」。
そのお話では「子供が親を選ぶ」ことで、里親の元に引き取られる展開で決着しました。
最終話の今回では里親との関係がうまくいきかけたポストさんの引き渡し場面で
施設長が「子どもを壊すぐらいなら、大人が壊れろ」と言い放ちました。
過去に子供を事故で失って現実を見失っていた学級担任の妻の朝倉瞳(安達佑実)さんを
諭し現実に連れ戻したセリフです。施設長も以前に自分の子供を事故で失い、
妻は現実を受け入れるのに長い時間を必要としたことが描かれております。
施設長は里親と同じ立場でものをみて、子供の立場でポストさんを守ります。
施設への帰り道で、ポストさんは里親契約を破談にされたことを本気で怒りました。
なにしろ本名はDQNネームの「キララちゃん」ですから、
事故で失った子供の代理人として「愛ちゃん」と呼ばれる苦しみを抱えた生活であっても
里親の元に行きたかったのです。
そのくらい、本当の名前への拒絶は強烈なものでした。
それは
「名前だけ与えて、赤ちゃんポストに預けた無責任な母親」への怒りの感情です。
しかし次の施設長のセリフの
「俺が寂しいから俺の子供になれ」というブレがない主張の告白を受けて、
ポストさんは「母親が与えてくれた唯一の愛情」である
「本当の名前」と「真実の父親」を受け入れることができます。


お局という名前をつけられるくらい施設に長く居着いていたオツボネ(大後寿々花)さんは
最後まで里親ができなくて、規則により施設を18歳で退所しなくてはならなくなりました。
ですが、長く居着いていたことは、ポストさんと近いくらいに、
施設長から真実の子供と思われていた可能性があります。
そのことで相談所職員の水沢叶(木村文乃)さんの一言
「ここから通えばいい」で施設から看護師学校へ通学するという道ができました。
施設運営の助手をしていたロッカーさんにしても同じです。
付き合いが長くなると、それは実の親でなくても親子のようなものなのです。
後は書類上の手続きだけですから、
書類で入れ替えができてしまう親子関係とは何なのか?と考えると
本作品は奥深いテーマを扱っていたことがわかります。
このように振り返りますと、
「炎上しそうな問題作を書く作家に仕事を依頼して、実際に制作してみて、
放送したら本当に炎上してしまって、クレーマーがついて、週刊誌でニュースになった」
一連の流れは宣伝費をかけずに番組を知ってもらうためにとられた誠にセコイ商法ですが、
見事に成功したと言えます。
なにしろクレーマーが騒いでくれれば番組の宣伝になるという仕組みです。
ただし一般の番組のようにスポンサーの商品を宣伝しませんから目的が不可解でした。
今回の宣伝商品が一話の時点では僕にはわからなかったのですが、
今でしたら「俳優」だったと答えられます。
ただ、全部のスポンサーが降りてしまい、
コマーシャルが「放送局の番宣およびACのみ」に切り替わったときから
「TVドラマの内容に集中できるようになった」のも事実としてあります。
このことから、コマーシャルが番組視聴の集中を妨げるものであることが証明されました。
日本テレビの「最後まで見てほしい」という姿勢は正しかったのです。


途中で何度も不安がありました。当作品は脱線があまりにも多かったのです。
グループホーム施設である「コガモの家」の主人公以外の他の子供たちと関連エピソードは、
様々なドラマが入り乱れるため視聴者を混乱させる元でした。
冒頭でも述べましたが、このドラマの基礎設定は
「児童養護施設の施設長が、子供たちを里親に出したり出さなかったりで騒動を起こすお話」
です。
話数を稼ぐ目的でしたら、最初の数回で
ばっさばっさとシンプルに里親に出して作品の方向性を示せば良かったのです。
何を言いたいのかわかりづらく、毎回の視聴がしんどかったのがこのドラマの印象です。
また、スローペースだったのも原因にあります。
これらは作家の構成力不足による問題ですから、今後の成長に期待するしかありません。
それから初期の里親制度否定のテーマはどのようにも解決しておりませんでした。
極論で見れば
「施設長が全部の子供の里親になれ!」
と取られかねない最終回です。
初期の里親制度に対する批判的な視点は良かったのですが、
本作は炎上商法で上手に多くの視聴者の関心を集めたにも関わらず、
現実の問題としての里親の暗黒面に切り込んで解決策を提唱するところまでは
到達できなかったようです。
本当の最終回はもっと別のものだったのかもしれません。
とても僕が書き表せない気持ちが悪い内容だったのかもしれません。
しかしそれではおもしろくなりすぎてしまうため、やはり放送ができなくなってしまいます。
「おもしろい」ものは放送ができます。
しかし「おもしろすぎる」と放送ができなくなるのです。
前述の通り、TVドラマとは
「うっかりTVのスイッチを入れた人でも誰でも見られてしまうハコで放送される映像作品」
です。
「差別と偏見の目で見られる子供たちが次々と不幸な事故や自殺で命を落とし、
施設長も福祉の方も心労で病んで施設で放火心中してしまう最終回」が候補にあったとしても
放送してはダメです。その理由は最初にも述べましたように、
「安心して見られる予定調和の内容」が、TVドラマの臨界点であるからです。


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