AIR さんのブロマガ

【円盤発売記念】「ガールズ&パンツァー劇場版 Blu-ray & DVD」(2016年) ガルパンの他殺もしくはガルパンの自殺もしくは、「ガルパンはいいぞ」に込められた不信感の正体をどのように読み解くか

2016/06/03 15:00 投稿

コメント:1

  • タグ:
  • 雑談
  • アニメ
  • ガールズ&パンツァー
  • ガルパン
  • のんのんびより
  • 吉田玲子
  • けいおん!
  • 水島努
  • 戦車道
  • インタフェース理論
AIRです。

ガルパン論の第二弾です。
(第一弾はこちら⇒http://ch.nicovideo.jp/AIR01/blomaga/ar928953
「ガールズ&パンツァー劇場版」(2015年)
巧妙に来場者数を稼いでいるリピーター向け映画の販売方式はどのように言い訳されるのか)


 今回のお題は「ガールズ&パンツァー劇場版 BD/DVD」です。アニメの業界に限りませんが、コンテンツの制作者が絶対に言ってはならないタブーがあります。作り手の立場から受け手の立場に向けてはならない禁断の注文には、「視聴者のレベルが低いから、この作品の良さが理解してもらえない」であるとか「制作費と制作時間を捻出する苦労も知らずにスタッフが手弁当でギリギリで作り上げたものに文句を言うな」といったものです。しかし大前提的に、市場をマーケティングして導き出した商品で集金を行いその収益で生活をしている社会人である以上、お客さんの悪口を言う行為は商業社会に参加する資格を自ら放棄することになります。そのような行為をしたり、賛同してしまう身の程知らずの制作者がいるとすれば、直ちに市場から立ち去り、彼らには褒め合うだけの仲間内でのみの限定公開で満足する人生しかなくなります。
 同人活動でなく営利目的として『お客様からお金を頂く』以上は、批評される道を避けられません。だからといって視聴者が傲慢であっていいという話にもなりません。鑑賞料を支払ったぶんくらいは制作者と視聴者は対等な関係になりますが、そのことは立場に上下をつけるものではないからです。誰かが言い出さなければ視聴者側の姿勢が是正されないのであれば、受け手の立場から自主的に発言をして、汚れ役を買って出るのも鑑賞者の一人として価値のある行為に思います。まず、ガルパン劇場版は2D版から始まって、4DX版になり、ブルーレイおよびDVDのパッケージ版のソフト販売が開始されたことにより、劇場に行かなかった人や行けなかった人の手元に流通しました。

 おさらいになりますが、前回の論文は、「ガルパンのBDにはセンシャラウンドという緻密に設計された音響方式が収録されています。しかし一般家庭の再生環境はまちまちです。ガルパン劇場版は、送り手が受け手に正しく作品を伝えられる場として制作者が映画館をリファレンス環境に仕立て上げましたので、映画館での鑑賞がベストです。」と劇場に足を運ぶように『ガルパンの正しい受け取り方』を推奨しました。そしてガルパン論では、アニメ史を通じて『現在の若者のための、俺たちのガンダム体験』について解説を行いました。しかし、ガルパンファンは劇場公開を心待ちにしているときと劇場公開後で極端に違った反応を示しました。いわゆる「ガ、ガルパンはいいぞ・・・」としか言えなくなってしまった惨状です。期待値に比べると驚くほどに絶賛しきる感想を見聞きする機会を得られなかった点から、「ガルパン劇場版ってどうなの?」と疑問を抱きました。
 ものを叩くなら叩くなりの流儀というものがありますから、それなりの分量の文章で感情を言語化するのが、ガルパンに相対する私なりの礼儀になります。ガルパンには「家元に生まれましたが主義の違いで家族と折り合いがつかなくなり、逃げるように家出するしかなくなってしまった高校生の女の子が、家の外に『居ても良い場所』を見つけて、やがて『実家にも帰られる』ようになる」という、思春期の子供の二重の受け入れ構造があります。『私はここにいてもいいの?』という現代の若者が直面している最前線の課題に向き合っている点から、ガルパンはきちんとしたマーケティングの上で作られた王道の展開と外しにくいテーマを採用して作られた「無難なアニメ」であることがわかります。

 制作スタッフはがんばりました、おつかれさまです。それは確かに、現場としてはそうなります。しかし、だからといって、この仕事で出来あがった成果物が良いものであるか悪いものであるかは、何者にも保証されません。「がんばって作ったから、このアニメは良いアニメだ!」にはならないということです。それは映画館で鑑賞した人も同じで、「私がお金を出して時間を使ってみた映画だから良い映画」と感じるのは、「自分の活動を無駄にしたくない」という理由から都合の良い解釈をしてしまう『確証バイアス』の影響を受けているからです。同じく「私がお金を出してBD/DVDを買ったのだから良いソフト」というのも思い込みに過ぎません。大好きなアニメのパッケージを手にした瞬間に生じる興奮には共感できますが、だからといって良い作品か悪い作品かは別です。そこにあるのは「自分の好きな作品がコレクションの棚に入った」という現象だけです。胸が痛む指摘でありますが、これが現実というものです。言い張ったり主張したりするのは自由ですが、作り手が作っている最中に考えているほどに世の中は甘くありません。
 社会人のなかでも、ことさらにアニメのスタッフは志をもってアニメ業界に向き合っていますので、がんばっているのは当然です。国旗や国歌や国の威信を背負ってオリンピックに出場する選手でしたら一位を目指すのは当然ですし、惜しくても銀か銅のメダルを獲って帰ることが応援しているファンから期待されています。そのような人々に「がんばった人にはメダルをあげます」の参加賞として、金メダルを大盤振る舞いしてしまうようなことは社会構造として資本主義を採択している国家では決して起きません。職業人であればこそ、「結果がすべて」です。過程をこそ評価すべきだ!と異論を唱える人であれば、ガルパン本編より制作現場そのものを撮影したドキュメンタリーのほうに満足できるのでありましょうが、ガルパン劇場版という作品はアニメがメインである以上、評価対象はアニメの本編のみとなります。

 たとえば、国家が決めた教育政策が原因であるのに、上の世代からも下の世代からも心ない悪口を向けられる「ゆとり世代」があり、ガルパンに登場する女の子たちも一人の例外もなく、この世代に該当します。劇場版が公開されている現在の新しい教育政策から、ゆとり教育は失敗の事例として軽蔑され忌避され、早く忘れ去りたいものとしてなかったことにされつつありますが、「ユトリズムの精神があったからこそ、ガルパンが受け入れられる土壌がマーケットにあった」のも事実です。ものごとの成功に理由を探すのは困難です。失敗には多くの場合において再現性がありますから、何かで成功をしたいと思う方は失敗した事例を見聞するほうが勉強になります。この普遍のルールのなかから数少ない成功要因としてあげられるものは、ガルパンとは何か?という問いに対する私の回答である『現在の若者のための、俺たちのガンダム体験』に続けて、ガルパンのテーマである『居場所の獲得』があります。メタの視点からは、スタッフ自身の居場所はスタッフ自身で作っていくしかない側面にて「劇場版の決定により、ガルパン制作の職場というスタッフの居場所を再び作り出した自分たちの物語」とも読み取れます。
 『再び』は本作を読解するキーワードであり、映画のポスターに使われた『とり戻せ――』のコピーは「学校」と同時に「職場」にも掛かっています。長引く不況により日本型経営の特徴であった終身雇用制度が幻想でしかなくなったこともありますが、元より映画やアニメは企画の単位で集合して解散するチームです。気心の知れた仲間と再び仕事をしたいという願いは、TVシリーズの成功という実績があったから叶いました。そうした背景も努力もなく甘えていられるのは家庭環境が健全な親子くらいなものですが、それも子供が成長して自我を持てば親と子の個の対立が始まり、親子の距離の取り直しが行われます。ガルパンのなかでも実際に主人公の「西住みほ」は家を離れることのできる高校へ転校していますし、最初は新しい学校の新しい学級になじめず、クラスメイトに話しかけられても拒んでしまう仕草をみせるなど心を閉じて孤独でした。現代人は大人も子供も例外なく『自分が居ることが許される場所』を持たない不安にさらされています。

 少子高齢化社会が長く続いていることで近所に同世代の子供がいないことや、学校の生徒数の減少という実態を踏まえてガルパンを俯瞰してみれば、携帯電話やスマートフォンなどのスマートデバイスの普及によってインターネットで見知らぬ人同士がつながりやすい社会になりましたが、同じ話題や同じ興味で集まれる『仲間』を身近に見つけることは、人口の数が減っただけに以前よりも難しくなっています。ゆとり教育は日本の教育史上で限定的ではありましたが、生徒の個性や意欲を尊重して、学校がサポートする体制を作りました。現代の自分の居場所を見つけられない子供たちを独り立ちさせることが、子供の周囲にいる大人の役割という関係です。もし「西住みほが宗家の生まれでもなくエリートでもなければ、逃げた先の県立大洗女子学園は廃校となり、全国大会優勝のチームリーダーの名声も得ないまま社会人になっていた」という過酷な未来があります。劇場版を冗長にしてしまった原因である戦車道『仲間』の存在が「西住みほの人生を救済」し、劇場公開前に聖地「茨木県大洗町」に降り立ち「地元の観光産業の人々」と『仲間』になった「ファンの孤独も救済」しました。
 アニメを見ていることを堂々と公言できる時代になった現在でも自分の居場所を見つけるのは容易ではありませんから、「あんなにも期待して劇場版の公開を心待ちにしていましたのに、蓋を開けてみればTVシリーズの無難な焼き直しでしかなかった」という劇場版の内容を知ってしまえば、「ガルパンが好きだった瞬間の、あの空気が未だ残る映画館という場」と、ガルパンを担ぎ上げてしまった過去の自分の価値観を否定しなくて済ませる都合が良い言葉として、誰が言い始めたのか「ガルパンはいいぞ、」を小声でつぶやくしかできなくなります。否定的な感想を述べることすら禁じられた空気が作られているならば以前の仲間意識は窮屈です。つながったと思えた関係を煩わしい関係に下げたのは、「事実が何であろうとガルパンをいいものと思い込みたい人々」です。言葉が届かない人に対しては、私は自浄作用を促すしかできません。残念映画であったとしても『俺たちのガンダム体験』を、わずかでも実感することができたのであれば、ガルパンは『現代の若者が今の時代の思い出を共有できる心の拠り所の物語』になります。


【ロングランを樹立するための手練手管と人間の五感に付け入った映画ビジネス】
 ありとあらゆる五感ビジネスは人間相手に特化して先鋭化することがガルパン4DX化からもわかりますように、ガルパンが緩やかに自殺したアニメに見えるのは、実写映画用に開発された技術を本来2D用に設計されていた「ガルパン劇場版」に適用したからです。
 今さらですが、アニメは嘘の塊です。身も蓋もないことを言ってしまいますが、キャラクターデザインにしてもアニメーションしている絵にしても世界や舞台の設定にしても、ありもしない絵空事です。違和感なく絵が動いて見えるように感じられるのは、人間の脳がそのように受け止められるように作られているからです。技術的には、数枚の絵を切り替えるときのフレームレートを最適化して機械仕掛けの全自動パラパラ漫画の仕組みで表示画像を切り替えて動画を実現しています。色や形の造形で個体を識別できるようにそれぞれのキャラクターを描き分けて、作画監督が作品の統一性を持たせる手直しを加えますが、スタッフのリストを見ての通り大勢の人間が作画に携わっていますから、完全に同一の人物像を描ききるのは現実的には不可能です。最初から最後まで同じ人間の演技を撮影する実写とは土台が違います。
 それでも、日本のTVアニメの架空の登場人物に人気が集まっているのは「声優がアニメの絵に魂を吹き込んでいる」ため、実写の登場人物と同等かそれ以上の魅力を発しているからです。もちろん脚本や演出の力もありますが、先に、人間は、聴覚が受け止める声の影響をおおきく受けます。別々の人が絵を描いているのに同一人物として知覚されて間違えずに見分けられているのは、アニメの登場人物が『声』という「実在の人間と同じものを備えている」からです。もしも「カット単位で声優が変更されるアニメ」があれば、視聴者の脳は同一性を保持できなくなって混乱をきたします。本来的には不安定な絵を統一性のある声が支えているため「作画崩壊」が起きていても認識を続けられるのです。
 アニメの絵は記号の組み合わせでしかありませんから『新世紀エヴァンゲリオン』の最終話で見られるように主人公の碇シンジという登場人物は、何もない世界観のなかで「まるちょんの顔」になっても、自分の輪郭を見失うことなく「僕」を「碇シンジ」であると認識できました。それも声が個体の同一性を保証してくれているからできたのです。前世紀のアニメや低年齢層を主な視聴者に想定して作られたアニメのキャラの髪の色が、現実ではありえない色で鮮やかに塗られていたりピンクだったりするのも同じ理由です。声優の評価には様々な基準がありますが、視聴者が同じ登場人物の声として受け取れる声を出せる声帯の持ち主であるという条件は、アニメにおいては絶対に外せないものです。

 人間の受容体である五感に訴えかける要素が増えるほど効果があるように思えますため、映画ビジネスをしている人々はアイテム数を次々と増やしていきます。しかしながら人間の脳はそこまで単純ではありませんから、感性への刺激の種類が増えるほどに、アニメの偽物感や嘘臭さが際立ってしまって紛い物に見えてしまいます。追加するほど逆効果になってしまう皮肉な関係を、ガルパン4DXは実証してしまいました。
 設定にしろ物語にしろ何もかもが絵空事でしかないものを「声優の力によってかろうじて成立させていたもの」に、映画館の人工のエフェクトで悪戯してみせますと、「人間の脳が一生懸命にアニメの世界を脳内に構築しようとする集中力を妨げる働き」になってしまい、絵空事を信じようとする努力が結実しなくなります。人間がスクリーンのなかで起きている出来事をパチモンとしてしか認識できなくなりますと嘘に嘘を塗り重ねた結果として映画は破綻を迎えます。特に戦車道では、試合中にどのような行動が行われても事故も負傷も起きない設定ですから、何もかもが茶番に見えてきます。
 視覚と聴覚で成立するように設計されたアニメに後付けで触覚や嗅覚の刺激を追加するとその映画は合計四つの感覚素子にアピールするため、臨場感が加わるように思えてきますが、今回はガルパンと4DXの相性問題による不具合が起きただけです。あらゆる映画の4DX効果が「視聴を妨げる要因」にならないとしても、本作においては蛇足であったようです。五感向けビジネスは今後も進化しますが、アニメは絵と音によって「視聴中の脳が現実であるかのように錯覚を起こすことで成立」しますから、それ以上の刺激を加えられたところで「最近の映画館の設備はすごいなぁ」としか記憶に残りません。そのため「ガルパンはいいものだ」の「思い込みが過ぎて思考停止になっている人」以外には、ガルパン劇場版4DXは遊園地の乗り物のアトラクションのように「次も次も」という反復の消費活動には結びつかず、一度で「もうこりごり」となるのです。

 巧妙にロングランを樹立したガルパンでしたが、それは2D版の実績であり、4DX版は言い訳できない方法で上映がなされています。設備メンテナンスの都合もありますが、日中の単発であるのは信者ならば来られるだろうという上映スケジュールであり、鑑賞券を値上げしている点からも上級リピーター向けに販売されていることがわかります。2D版が前売り券販売で値引きしていたのに対し強気なビジネスを続けられるのは、既に二一億円という十分な黒字を達成しているからでしょう。
 一日に一度や二度であっても上映期間だけは長く設定する手法が端からはインチキをしているようにしか見えませんが4DX版で予定通り「ハッタリロングラン/名ばかりロングラン」を達成できています。TVシリーズを気に入って来場してくれた人と一四週目まで中身を変えて配ってきた記念グッズで来場者数を稼いだ2D版とは根本的に異なり、4DX版は興行成績を水増しするためにそれ自体が映画ビジネス側から捏造された商品です。
 興行収入の累計の数字は立派ですが「結局はリピーター頼み」ですし、ソフト販売後も上映していますから、フェアな見方をするのでしたら「初動の動員数や同じ期間の売上同士を比較してみる」ことです。スポンサーのバンダイビジュアルとしては、なぜ急速にブームが終焉したのか理由がわからずに困惑しているのでしょうが、現実から目を背けるのを止めれば事態が見えます。五感に訴えかけるのであれば『攻殻機動隊』の設定にあるように「電脳」を通した通信技術が普及するまで人類は待たなければなりません。神経細胞と五感向けサービスが接続できるようになるまでは、どのような刺激を行ってもアニメは人間の脳が認識できたものしかアニメとして感じ取れない虚構の絵空事です。
 または洋画『マトリックス』のように「実体はカプセルのなかにあるが、脳は人生を体験している装置」に人間を閉じ込めて根底から脳を騙してしまうことです。そのような装置は「すさまじい体験」を視聴者に体験させますが、残念ながら本作は「すごい映画館」の感想止まりです。ガルパン4DXは「嘘がばれてしまった/わかられてしまった」ため、シートが揺れるとか風を感じることで「急激に現実に引き戻される観客」が「急速にガルパンそのものからも冷めてしまった」のです。シャボン玉も違和があるエフェクトでした。

 あれほど盛り上がって聖地巡礼まで行ってあんこう鍋を食べたあの時期のあの熱はいったい何だったのか?と思い出せもできなくなっています。これは「ガルパンの他殺」という状況ですが、ガルパンを殺した犯人は4DX映画化を持ちかけた卑しい商売人だったとして安定して売上をあげられる2D版のBD/DVDの発売により最後の集金を終えればガルパンビジネスはひとまず終了を迎えます。「ひとまず」と付けたのは、ガルパンは、TVシリーズと劇場版2Dで稼ぎに稼いで利益だけは出していますから、第二期の企画が持ち上がっても不思議ではないからです。
 しかし一度は完結したアニメの無理矢理な延命を行ってしまいますと、死に時を見失ってさまよい続ける『ゾンビアニメ』になることが懸念されます。「戦車道という設定が一発芸の性質を持っている」ため、穏やかに終わらせられないのでしたら「金ならあるから、心機一転の新作でやり直す」くらいの心意気がなくては続編の成功は難しいでしょう。ゾンビコンテンツとして細々と稼いでいくつもりなら、現在も進行中の漫画版なりCDドラマ版なりを低コストで継続して、折を見てフェードアウトする形になります。
 それは「世界最高水準の戦車戦をやってみせたアニメ商品ではなくなる」という意味を持ちますから「ガルパンの自殺」になります。この場合の私のなかのガルパンは2D映画版が最終作品となります。BD/DVDの発売記念として想定通りに便乗した延長戦の放映を始めたあたりに商売人らしい抜け目のなさを感じますが、アニメファンはお金を落とすことにおおらかですから、ガルパンによる収益が企業を通して日本社会に貢献していると思えば一概に否定もできません。しかし、こうした集金のカラクリがあったうえの上映であってもロングランとしてはカウントされてしまいます。
 音楽のCDで言えば、今年はオリコンデイリーランキングの一位が一千枚を下回りました。これは自分で買い占められる枚数の出費で上位ランカーになれるという記事ですから「チャートがあてにならなくなった」と読めます。スポンサーの広告収入を目当てにTV局がビデオリサーチが発表する視聴率を稼ぐべく手練手管をろうしているのと同じ程度に、ガルパン劇場版の興行成績の数字も信用がおけないということです。


【ガルパンの悲劇は同世代の強豪『マッドマックス 怒りのデス・ロード』】
 その作品が公開に至るまでの流れを知っていなくても楽しめるということを証明してみせる映画が同時期に二つ公開されました。一つは、本稿で扱っているガルパン劇場版です。冒頭に取って付けたような『3分ちょっとで分かる!!ガールズ&パンツァー』講座のPVから初見でも楽しめるように作られているかのように見えますが、基本的にはTVシリーズからOVAを通して視聴をしてきたファン向けの内容です。この映像にしてもBD/DVDでは映像特典の扱いで別収録されていますから、ガルパンブームを指して、オタク向けアニメが流行ってるという言い方は正解ですし、ロングラン上映で話題作だから見ていないと流行に乗り遅れるかもと焦って観に行ったら登場する女の子たちが多すぎて設定に着いていけなかったという感想も、最後の戦車戦の緊迫感が最高!という一般人の感性もすべて正解です。
 アニメファンですら誰でも楽しめるように作られていませんから、ガルパン劇場版は「ガルパンファン向けに徹底的にチューニングされて作られた映画」です。何度も何度も同じ人がリピート視聴するために劇場に足を運びやすく設計されたビジネス上の商品であるため、消費の対象外の人が「ポカーン」となるのは当然の反応です。ガルパン劇場版は彼らが仲間内か布教活動で口にする「ガルパンはいいぞ」という流行のキーワードの言葉通りに「ガルパンはいいものだ」という「思い込み」に「支配」された状態から抜け出せていない人向けの映画ですので、ガルパンの良さがわからなくても、わからない自分を責める必要はありませんし、わかるための努力をしなくても構いません。
 「ガルパンはいいぞ」が真実であると感じている人は自己暗示によるマインドコントロール下に入っていますから、関わり合いにならないほうが安全でしょう。さて、同様の映画のもう一つは、二七年ぶりの四作目となるジョージ・ミラーさんの『マッドマックス 怒りのデス・ロード』です。ガルパン最大の不幸は、この映画と上映の時期が重なってしまったことにあります。

 理性を振り切ったものと振り切れなかったものの結果の差と表現するのが適切でしょう。極端に言えば『狂えたもの』と『狂いきれなかったもの』の違いを比較するために良い参考例となる映画です。先に白状しておきますが、私は『マッドマックス』シリーズのファンではありませんし最新作も宣伝のポスターで知り、ビジュアルの良さに惹かれて本編をみた程度です。
 日本アニメを持ち上げたい人々はガルパンシリーズ監督の水島努さんを過大評価しすぎていて、見ていて気持ちが良いものではありません。私からすれば七〇歳にもなる高齢者が『マッドマックス 怒りのデス・ロード』を作ってみせたのに「若者が保守すぎやしませんか?」となります。さらに言えば、マッドマックスは国際情勢や規制やらの影響で予定よりも撮影が十年以上も遅れたそうです。アニメは想像力と行動力でスタジオ内で無から構築できてしまうのに「臆病すぎやしませんか?」とも感じますし、同じ王道の物語で外す要因がない脚本を用意したにも関わらず、二つの映画を二つの感想に分け隔ててしまった原因は、「制作者の志が低かったから」であると読んでいます。
 二作とも優劣をつけがたい「すごさ」を持つため「どちらもすごい」と思える映像を見せる映画ではありますが、「マッドマックスは車の狂った改造と世界観に魂をかけた」のに対して「ガルパンは最後の戦車戦の狂った迫力に魂をかけました」。しかし上映期間が重なり並べて鑑賞できてしまう状況になったときにガルパンの分が悪いのは『視聴者の感情の温度のコントロールに失敗している』ことです。ガルパンは日本人の情緒に訴えかけて感動させようとする小細工が鼻につくのが弱点です。
 最後の戦いに向けていろいろな部活の登場人物が戦意高揚するシーンの全員分の見せ場を用意してみせているのはどの子を好きになっていても対応しきるためのサービス精神からでしょうが、失敗を恐れずに冗長の原因となる部分を編集作業でカットする勇気を出すことも必要でした。戦車道が改造戦車の出場を認めないとしても「正規の整備シーンを狂ったようにかっこよく描くことはできたはず」です。時間配分の比重を「少女から戦車へ」おおきく振り替えられていれば、ガルパンは劇場版で化けられたと思われます。

 日本は『機動戦士ガンダム』を代表とするロボットアニメの本場であり同じバンダイビジュアルが供給元であるという背景も含め、日本の観客には潜在的にロボットものをカッコイイと感じる才能があります。「戦車が機動兵器としてかっこいい」そういう整備シーンのメカニカルを中心に押し出すシーンがあれば、ガルパンを強い映画にできました。
 この映画の監督は良い人になろうとしているのか、良い話を作ろうとしているのか、TVシリーズでさんざん会社に稼がせる仕事をしたのですから、劇場版ではスポンサーを欺いて思い切った舵取りをしても良かったのです。最初は非難されますが、『狂えたもの』に比肩できたのならば、少しずつ時間をかけて口コミによって偽りのないロングランを樹立できます。センシャラウンドの体験型アトラクションとして映画館を有効利用してみせるからには内容を伴わせることこそガルパンに期待される正常な進化です。
 ライバルはタイトル通りにマッドさがマックスで、V8マシンに命をかけた『マッドマックス』の最新作です。それなのに、なぜ日本では、ガールズがアンドでパンツァーの最新作に成り損ねたのでしょうか。それは監督の水島努さんが「お客さんを信じ切られなかったから」に他なりません。「自分が描きたいことだけを描いた映画にしてしまうとTVシリーズからガルパンを愛してくれているファンを失ってしまうかもしれない」の恐怖を想像してしまったようです。
 しかしそれは妄想でしかありません。自制心を失い、暴走しているように見えても『マッドマックス 怒りのデス・ロード』は理性的に作られていますから、ガルパンが新しいことに挑戦したところで意外にもお客さんは着いてきますし、裏切られたと感じて見放したりもしないものですが、ガルパンの監督は最後までファンを信じ切られなかったようです。

 ガルパンは安パイで戦ったから無難なものにしかなりえず、九割くらいは余所でも見られる平凡な内容になっていました。原因は、TV版が評価された理由を反省しなかったからです。最終戦の二話分の放送を三ヶ月も落とした人物でありながら、自分がやりたい本気の映像を出すためにくだした英断を忘れてしまったのか、ガルパン劇場版にはTV版のときの志の高さが見られません。「無難」は映画を退屈にします。
 「ガルパンの劇場版はこうあるべきだ」と身構えてしまったために、白紙の荒野にTV版を出したときの意欲が感じられないものになりました。「新キャラを追加してバトルさせる」のは誰にでも読める展開です。「劇場版ならオールスターバトル」といったガルパンらしい無難を選んだ結果、そっぽを向かれたのです。美少女アニメが好きですと言えないシャイなアニメファンでも視聴できるように、「戦車が好きだから」の言い訳を与えるアニメにはなれましたが、それではガルパンはどうすれば立ち直れるのでしょうか?という問いを出されましたら、答えは簡単です。低予算アニメからの出直しです。
 水島努さんが雑巾がけからやり直す気がなければ降板も一つの手です。過去の栄光にすがる続編制作は名作を「ゾンビアニメ」にして汚名を残すことになります。それこそ作品を支えてくれたファンを裏切る惨めな末路です。この路線で新キャラ追加でグッズを売って小銭を稼ぎたいだけでしたら、ランティスが発売しているドラマCDシリーズをメインに切り替えても、現在の知名度と固定客でしたら十分な集金ができるマーケットができあがっています。開封すらしていませんものの、私もシリーズを集めている一人です。しかし今後も再生する予定がないのは、私がガルパンに求めているものは「戦車戦の映像演出至上主義の支持者」であることを自負しているからです。
 ガルパンの劇場版は映画館に来た人しか見ないものですから新しいことに挑戦する機会でした。電波に乗せて流していませんから、うっかりチャンネルを合わせてしまった人が見ることはありません。しかし残念ながらガルパン劇場版はTVシリーズの焼き直しにしかなりませんでした。TV版のプロットをまとめますと、「学校が廃校の危機だから戦車道で優勝して母校を救います。」になります。劇場版のプロットをまとめますと、「再び学校が廃校の危機だから戦車道で優勝して母校を救います。」になりますから、先頭に「再び」がついただけです。
 通常はシリーズが重なり、内容が脱線した際の軌道修正として「原点回帰」が提案されますが、「ガルパンといえば廃校のピンチから始まる」を様式美にしたいのでしょうか。それにしても、廃校の撤回やバレー部の再建が動機であるとして戦車道そのものが好きで戦車道に進んだ生徒が不在な点が歪でなりません。そして、そうまでして県立大洗女子学園を廃校に追い込みたい大人の事情が不可解です。本作の主人公を『再び』表舞台に引きずり出すため、連盟か他の名家からの工作が行われているのですか?と勘ぐってしまう強引な物語の起動でしたが、TV版で描かれていなかった劇場版の追加内容は、「西住家の親子姉妹の仲直りが、具体的に可視化された」くらいでした。


【脚本家「吉田玲子」の作家性と『のんのんびより/りぴーと論』】
 乙女のたしなみとしての戦車道は私たちの世界における男子高校生が活躍する晴れの舞台の夏の甲子園といった位置づけになります。このアニメの主人公の設定をわかりやすく私たちの世界の価値観に当てはめてみます。「ある部活動の強豪校の特待生でしたが、試合中に先輩の方針に従えない事件があり、納得できなかったため部活を辞めてしまいました。その結果、学校に在籍していられなくなりました。」といったところでしょう。
 実際にスポーツ特待生が部活を辞めた場合は自主退学に誘導されますから、等身大の高校生の苦悩や青春を描いたものとしてはありふれたものながらもよく出来た設定です。そしてガルパンの主人公が転校先に選んだのは「女の価値は戦車道の実績」の世界観のなかでは「信じられないことに、戦車道がない学校」ですから「西住みほ」は宗家のエリートから負け組人生に転落です。ガルパンのTV版のストーリーは、様々な仲間との出会いと紆余曲折を経て、自分なりの戦車道の向き合い方を実践し「自分が信じる戦車道を始められた」ことと「選択が間違いではなかった」ことを証明してみせた物語できれいにまとまりました。しかしガルパンを好きになれない原因は、感情移入を拒むかのようなペラペラに薄っぺらいキャラをたくさん寄せ集めてドラマを構築したことに端を発します。
 実際のアニメは町をまるまる甲板上に再現した『学園艦』という箱庭のなかで、少女たちが学園生活をおくる様子を視聴者が眺める構図です。目線は常に画面の外から見るという行為に固定されたままです。このアニメを視聴して私は、脚本家吉田玲子の本領はこれではないのでしょう?と我が目を疑いました。劇場版はTVシリーズよりも多くの予算で制作されておりますしビジュアルもサウンドも映画館の設備で豪華になっていますが、どれほど派手に「修飾」をしてみせたところでアニメは内容で勝負するものです。ガルパン劇場版が抱えている問題は思ったより深刻です。

 ガルパンは吉田玲子さんの代表作の一つですが、吉田玲子さんの過去の仕事の成果物のなかでは上位にはなりません。『けいおん!シリーズ』や『のんのんびより/のんのんびより りぴーと』を「癒やし系アニメ」と括るトンチンカンな記事を見かけるたびに、着眼点の相違から見えている景色の違いを感じます。もったいぶる理由がありませんから明かしますが、それぞれ『視聴者交感内在化アニメ』です。特に『のんのんびより/りぴーと』は注目度も話題性もおおきくない作品です。しかし吉田玲子さんの作家性が突出した異色作であると私は見ています。まず踏まえておくべきなのは、第一話冒頭で東京から引っ越してきた『一条蛍』ことほたるちゃんが本作を読み解く『鍵』であることです。それは、視聴者である『あなた』自身がほたるちゃんだからです。
 「けいおん!論」において私が展開しましたように、『けいおん!!』では「あずにゃん(中野梓)」という人物を媒介して、視聴者はアニメのなかの軽音部の人物にアクセスする手段を獲得します。視聴者はその入り口からアニメに取り込まれる形で、軽音部の活動を追体験するように設計されています。原作は知りませんが、少なくともアニメの二期は、そのような構造で、あずにゃんを通して軽音部のメンバーに二・五次元くらいまでの距離に視聴者を引き込みます。この関係は最終回で顕著にわかります。
 『のんのんびより』ではさらに進み、ほたるちゃんは最初から視聴者を二・一次元くらいまで作中人物に近接させます。『けいおん!!』のあずにゃんは「作中人物にアクセスするための媒介キャラ」止まりでしたが、『りぴーと』では、ほたるちゃんを通じて視聴者がアニメに回収されますから、「既にあなたが作中人物の状態」になります。こちらも最終回が顕著ですが、固定のロングショットで登場人物を眺めるだけの尺の長いカットが続く演出は登場人物間の距離感の「ゼロ」を表現しています。そしてその目線は、あからさまにカメラのレンズ越しでしたから、視聴者の内在化は監督も確信的です。
 この最終話が他では味わえない特別な切なさを伴う最終回になってしまったのは、世界からの強制的な切断を視聴者が苦痛と感じる以外に終わりようがなかったからです。これは『のんのんびより』に続編が無いことも「身近な友達との残酷な離別/現実への引き戻され」により喪失の感情を喚起する要因となっています。

 それでは、なぜ『のんのんびより』は『のんのんびより りぴーと』で同じものを繰り返し見せる必要があったのでしょうか。別の見せ方で日常の出来事を反復させなければならなかったのでしょうか。この演出の真意は、「ほたるちゃんイコール自分」という認識を経ることで読み解くことができます。
 アニメの登場人物を画面から現実の世界に引っ張り出したいと話すアニメファンの欲求を、アニメファンのほうを画面のなかに取り込む正反対の方法で叶えています。未見の方は、ぜひ『のんのんびより』『のんのんびより りぴーと』の順に続けて視聴してみてください。アニメに入り込んでしまえるという夢のようで異常な体験をしていただけます。
 登場人物のなかで、ほたるちゃんの人気が低いのは、同族嫌悪だからです。しかしアバターと言えば納得もしやすいでしょう。本論の難解さを緩和するために参考例としてあげますが、ジェームズ・キャメロン監督の同名の洋画のように、別の世界観に視聴者が割り込むための仮の体としてほたるちゃんの存在があります。ほたるちゃんのほうも、存在を視聴者に明け渡すように設計されています。このギミックが作用しますと、作中世界の田舎の景色に現実の自分が鏡として在ることを発見して倒錯を感じ取るようになり、「あなた」の意識はアニメの構造に気がつかないまま「『のんのんびより』の作中世界の記憶を持った人」になります。
 そのため視聴者は「れんちゃんって語尾に『~のん』を付けて話す、独特の感性を持った近所の子」という自分の認識に疑いを持たなくなります。この状態を『記憶を盗まれた』と言います。視聴者参加型の脚本の力によって「たかがアニメの視聴」を「体験の思い出」にまですり替えてしまえるのですから吉田玲子さんの脚本術は見事なものです。これが監督からの指示でなされたものであったとしても『けいおん!!』演出の続編に当たる『のんのんびより/りぴーと』では「媒介キャラをインタフェースに使って視聴者を作品に内在化する高度なギミック」(インタフェース理論)の完成度が高まっており、効果も洗練されています。
 そのようなことが可能になっているのはアニメファンの男子が無自覚であるにしろ、美少女になりたがっているという前提があるからです。『のんのんびより/りぴーと』は、そうした本質的な欲求に応える作りがなされた作品です。「萌え」という表現を私は未だに理解できませんが、「かわいい」は、男子の感受性に依拠する感情です。美少女イラストは、男子の心にあった少女性が絵描きさんの手先によって具現化した「理想の少女像」です。それは少女漫画を原作にしたアニメの絵の「かわいい」とは身体のパーツの質感が異なる点からも明白です。
 従来のアニメの作中世界の登場人物と視聴者の関係性が「眺める」から「コミット」に進化した『のんのんびより/りぴーと』を通じることによって、アニメファンは「見る行為」で劇中の「田舎暮らしを追体験」します。TV画面のなかに自己が持続的に接続されるコツをつかめましたら、「ほたるちゃんは視聴者のアバター」の意味を肌の感覚で捉え直せるようになります。

 このような経緯から、『のんのんびより/りぴーと』は吉田玲子アニメ制作術において『けいおん!/けいおん!!』の正常進化版と言えますし、順調なアップデート版とも言えます。『けいおん!!』の時点では媒介のキャラを使って時間をかけて視聴者の交感を実現しましたが、『のんのんびより/りぴーと』の時点では開幕から視聴者である「あなた」を画面に取り込んでみせました。ここは人格の主を操作する繊細な部分ですからプロの手腕にて巧妙に行われますが、ピンと来る人は、第一話の冒頭から「こうきたか!」と感心するばかりです。
 『けいおん!/けいおん!!』および『のんのんびより/りぴーと』に見られるような「視聴者-キャラ」交感モデルを「没入-内在」関係モデルに視聴者を連れ去ってしまったアニメは現在のところこの二シリーズだけと思います。このような前代未聞の「とんでもない手法」を開発してしまうあたり、吉田玲子さんはアニメを絵空事の嘘のものから限りなく現実に近い認識に肉薄できるものにできると考えているように感じられます。それは、アニメのことを心から愛していなければできないことですし、アニメの現状を心から嫌悪していなければできなかった仕事でもあります。
 こうした今までの偉業を知っていますから、後に手がけたガルパンであえてペラペラで中身のないキャラばかりを造形してみせたのは、ガルパンが「登場人物が主ではない作品」と考えていたからとわかります。監督が心血を注いだのは「戦車戦の見せ方」ですから、数多くの登場人物の日常ドラマがノイズにならないように脚本家が配慮したのも頷けます。このように、製作側の意図をひとつずつ汲み取ることでガルパン劇場版は「九割に目をつぶれば、世界最高水準の映像が最後にあるよ」という構成に理解を示せます。

 私がガルパン劇場版を鑑賞したときに、かなり初期のころからアミューズメント型の映画であると論じたのは、円盤商品のBDに収録されたセンシャラウンド方式の音響のリファレンス体験を「映画館を利用して視聴者に正しく届けられた」のを確認できたからです。吉田玲子という作家はその文芸力だけでアニメのなかに視聴者を誘い込む技量を有しますが、本作においてそれをしなかったのは、ガルパンが「見世物」だからです。そしてアニメは監督のものですから、監督が「ガルパンは戦車戦」のビジョンを提示すれば脚本家は視聴者がアニメとの距離を一定に保てるようにします。
 ガルパン劇場版の冗長性は、ガルパンが当初より分不相応のビッグネームに育ったがために生じたファンからの要望を丁寧に対応してしまった結果の「くどさ」が原因です。膨大な数の登場人物それぞれに固定ファンがついてしまっていますから、監督としては、誰かを切り捨てたり、ひいきにできなくなっていました。自分が応援をしていない何部の誰某の心境や事情や戦意高揚のシーンが陳腐で退屈に見えても、ファンが制作者にキャラ拾いを望んだためになったことです。お互いがお互いに気を遣いすぎて齟齬をきたしたのですから、受け手が作り手を責めるわけにはいきません。
 話題の映画だからの理由で映画館に訪れたアニメと縁の薄い方が、多すぎる登場人物と関係性を把握しきれなくて眠たいシーンばかりと感じられるのは、「ガルパン劇場版は最後の戦車戦以外は、平凡な映画」だからです。「TVシリーズからのファン向けのお祭り映画」ですから、初見で着いていけないのは当然です。キャラの見分けがつかなくなり飽きてしまった場合は途中で席を立つのも手です。鑑賞料金は前払いですから他のお客さんの迷惑にならない形での退席はマナー違反になりません。しかし作り手はここまでに述べてきたような批評や批判がなされることを十二分に知り尽くして「あえて」やっています。

 制作責任者の水島努さんはガルパンの功績から各所で表彰されたことで、次々と新しい仕事にありつけていますが、私のなかでは「戦車道の戦車戦描写以外の能力は凡庸な監督の一人」です。アニメを読む力に自信がないスポンサーが、直近の数字を判断材料に使い、疑いを持つことなく信用してしまっていそうな雰囲気がありますが、「視聴者は水島努の名前があるだけで視聴を拒みたくなる」そういう雰囲気もあることを記しておきます。ガルパンTVシリーズでは納期を落としてでも妥協を見せない意気込みを見せた熱心な演出家として評価できても、作家としての能力は微妙で特筆することがありません。それは、他の仕事を振り返ればわかります。
 オリジナルものからはガルパンが「戦車道」の設定と世界観を開発したおかげで健闘していますが、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』や『新世紀エヴァンゲリオン』と並ぶ知名度のアニメにはなりません。営業努力によって上映のロングランを達成してはいますが、女子高生の水着姿や女子寮のお風呂シーンのビジュアルを客寄せに使っていますから、万人受けするタイトルにもなりません。清潔感のある絵柄で、健やかな学校生活とスポーツで競い合う部活動の様子を描いてみせても「アニメファンとその近隣で有名なタイトル止まり」です。
 直後の『SHIROBAKO』の吉田玲子さんが脚本を担当した回のほうが見応えがある内容ですし、素直さも感じられます。「アニメの制作進行」を主人公にした点からマイナー向けに感じますが、題材が職業ものですから一般層に訴求できます。シリーズ構成として横手美智子さんが参加して本作を支えていますため安心して見ていられます。原作付きからは『監獄学園(プリズンスクール)』を思い出せますが、この作品の持ち味である気持ちの悪さがおもしろいのは声優の演技が良かったことと原作が由来のものでしょう。
 脚本家は表舞台に出る職業ではありませんし、吉田玲子さんは依頼に正しく脚本を仕上げるタイプですから、組む監督との相性に左右されながらも、今後も良い仕事をすることを期待できます。これまでに手がけた作品のなかから私の一等お気に入りは『カレイドスター』です。監督は佐藤順一さんですが予備知識なく見られる作風ですので、ガルパンをイマイチと思われた方にこそ見ていただきたいTVシリーズです。その作家性も含めて、吉田玲子さんは評価が極めて高い特級の脚本家です。


【まとめ】
 ガルパンは『俺たちのガンダム体験』として発見されたものですが、これが未来まで長く続くかどうかは、これからのアニメ次第となります。「ガンダムみたいなもの」はたくさん作られましたし「エヴァンゲリオンみたいなもの」も山ほど作られました。その安直な企画の立案や制作がアニメ業界を沈没船に乗せてオワコン化してしまった原因でありますが、今のところ「ガルパンのようなもの」を作ろうとする動きがないのは「ガルパンの本質や成功の要因」を説明しづらいため「模倣」が困難だからでしょう。
 これはつまり、「何が良いのかわからない」からですが、私が論じた通りに単に現代アニメのなかから『俺たちのガンダム体験』の対象として再発見されたものが、「たまたまガルパンだった」に過ぎないからです。劇場公開前は聖地茨木県大洗町に出向き前夜祭を興じていた人たちが公開後は「ガルパンはいいぞ」としか言えなくなったのは「希望の星かも知れなかったものが期待外れだった」事実を自分では受け入れられていないからです。
 ガルパンを妄信的に神格化してしまっては、自分の感想すらも正直には言えない空気ができあがってしまいますから、この状況では「ガルパンは宗教」と揶揄もされます。だからファン同士の無難な挨拶の言葉の「ガルパンはいいぞ」が守られ続けるのですが、劇場版や4DX化に失望したのでしたら、失望した気持ちを言葉にすべきだと私は思います。
 「ガルパンはいいぞ」といった思考停止めいた言葉が流通した背景には「(俺たちがすがるものは)ガルパンでいいのか?」と薄々ながら察して知るからですが、本当の気持ちを話すことすら憚られるのであれば、ガルパンはエンターテインメント作品を逸脱しています。映画館でお金を払った人は「鑑賞する権利と同時に感想を言う権利を買っています」から、心を強く持って欲しいものです。語彙力が乏しくても、勇気を出して発した言葉のひとつひとつが、『アニメを鍛える』のです。ガルパン劇場版のBD/DVDが発売されたのは良い機会です。言論に後ろめたさを感じる理由はありません。

 賛否両論があったガルパン劇場版ですが『自分が居ることが許される場所』を提供したことは紛れもない事実ですし、『ガールズ&パンツァー』というアニメシリーズが、『現代の若者が今の時代の思い出を共有できる心の拠り所の物語』になったことも事実です。「あの時、あの熱は何だったのか?」と若気の至りの日々を振り返る自問に対しては「拙くても自分の言葉で、きちんと答えられる大人に成長できていたらいいね!」といったところで、本論を締めといたしましょう。


◆◇◆◇◆ お知らせです ◆◇◆◇◆
コミュニティ参加、お気軽にどうぞ。
http://com.nicovideo.jp/community/co2282621
僕のネット活動の全ての情報を集結しております。
バックナンバーも、読み放題になっています!!
最後まで見てくれて、ありがとうございます。

コメント

AIR (著者)
No.1 (2016/06/07 03:10)
「2016年06月06日」配信分『【極爆】『ガルパン アンツィオ戦』1週間限定上映&TVシリーズ全話深夜上映開催』の記事を読みました。『「作り手が聞かせたかった理想の音」をお届けします。』とのことです。

今まで「劇場版しか正しい受け取り方」ができなかったのですが、ようやく念願の「TV版ガルパンを正しく受け取れる」ようになります。私たちが映画館でみんなで見たかったのは、「劇場版ではなくてTV版」です。2012年のアニメが2016年の上映で「今さら」って感じがしますが、「今ごろ」といったところです。

劇場版は物語構造が鉄板の構成ですが、結局はリーダー対リーダー戦を最後に持ってくるのですから、殲滅戦が消化不良に思いました。ですので、私たちが「ガルパンを好きになったのはTV版。TV版ブルーレイを正しい視聴環境で楽しませて欲しい! ビバ爆音!」って欲求に応えたのが今回のTVシリーズ全話上映です。

レンタルしたビデオを一人で観るより楽しいと思います。これからも人気アニメのソフトを映画館で一挙放送するリバイバル上映の企画が増えるといいですね!
コメントを書き込むにはログインしてください。

いまブロマガで人気の記事