初日からまだ10日である。
それであの見応えは異常だ。
20時30分。
公演が終わるとともに紙屋町ホールを脱出。なんとか最終の新幹線に間に合い、車中でこれを書いている。記憶とその感触が薄れないうちに記録しておかなければ…というより、東京までの4時間を潰すにはちょうどいい。それにしても新幹線は、STU48号よりよほど揺れて書きづらい。
STU48研究生『僕の太陽』公演の「見応え」の根拠のひとつは、パフォーマンスのバラエティー感だろう。STU2期生は、16人のダンスを揃えようという力学がほぼ働いていない。ざっくり分類しても4〜5種類のタイプがある。技巧的にもかなり差がある。しかし、それらが混合していてもバラバラという印象はなく、むしろ「デコレーションケーキをどこから食べるか」という楽しさに近い。
もっとも、デコレーションのバランスを確保するためには、やはりイチゴにはデンと構えていて欲しいわけであるが、それが立仙百佳、清水紗良、川又あん奈である。清水はアクターズスクール広島、川又はクラシックバレエの経験者だが、すでに研究生とは名ばかりの深い表現力に圧倒される。そして、立仙のノイズリダクションされた丁寧なパフォーマンス。特に川又あん奈のスケール感は、劇場で観たからこそ確認出来た、今日最大の収穫である。
そして、この3人の対極に工藤理子がいる。「歌詞を読んで表現を考えてる」みたいなことを言っているが、がむしゃらなダンスはどの曲でも同じような感じだし、シリアスやセクシーなどの表現は押し並べて演技くさい。しかし誤解しないで欲しい。だからダメと言ってるのではない。工藤には工藤の、表現したいという高圧なエネルギーと、表現のための確固たるスタイルがある。それは、本人に自覚があるか分からない、全身から溢れ出てしまっているエロスや、立仙とは真逆のノイジーな動きが引き起こす頻繁な〈スカひら〉もひっくるめてであり、それらは恐るべきスタミナによって公演を通して貫かれている。何の曲だったか、清水を見ていた視界に工藤が孫悟空のように飛び込んで来た瞬間などは、「すげえ公演だな」と思わず笑いそうになった。 ダンスは苦手と言い切る工藤もまた、鉄板パフォーマー3人組とは違ったアプローチによって、劇場公演の楽しさを大きく支えている。
そんな極端な両極の間で、さらに無数の個性が、フリーマーケットのように客の視線を誘い込んでくる。全体曲では「尺が足りない」と感じるくらい、それらがめまぐるしく交錯する。 そうしたカオスが、ユニット・パートでは綺麗に整理整頓される。『僕とジュリエットとジェットコースター』の清水などは、左右の2人には申し訳ないが、その抜群のカッコ良さたるや、ほとんど独壇場である。『ヒグラシノコイ』では、川又あん奈の表現力(立ち姿、四肢の美しさ!)に酔いしれる。(ボーカルは田村の方が良い。川又と対照的な生っぽさで対極を極めるのも面白い手だろう)
そして極め付けは『向日葵』である。
向かって左手から、中廣弥生、高雄さやか、原田清花、鈴木彩夏という並びであるが、これはすでに『STU48ジャーナル』で指摘済みの「中廣と高雄のところで境界線」という重要案件だ。中廣だけ小柄であるせいか、物理的にそこでやや離れているようにも見える。
…よく分からない方に説明しよう。
STU2期生は、ヲタクの嗜好タイプで分類したとき、同じカテゴリー内でバッティングする組み合わせが多数見られる。例えば「今泉美莉愛、田村菜月、内海里音」「吉田紗良、吉崎凛子」「小島愛子、南有梨菜」といった具合だ。その極め付けが「高雄、原田、鈴木」という《ドール系》と目される3人なのだが、よりによって…というか、もはや確信犯としか思えないのだが…『向日葵』に全員集められているのである。しかもこの楽曲、4人ユニットとは言っても、ほとんど正面を向いてのパフォーマンスである。まるで「さあ、私たちの中から1人をお選びなさい」とでも言われているような絵面なのだ。そこに張り詰める強めな緊張を緩和するために、4人目として中廣が召喚された可能性は高い。3人の戦闘魔法少女にくっ付いている「たまに一言多いマスコットキャラ」のようなイメージだ。実際、初日公演MCで中廣は、自分以外の3人がセットであるという主旨の指摘を無謀にもしてしまい、3人から軽くクレームを食らっている。
…という話である。
そんな『向日葵』だが、想像していた以上にクリティカルであることが、3人の登場とともにすぐに理解出来た。そう思わせるくらいの気迫が、彼女たちの立ち姿にはあった。この日、2つ目の「すげえ公演だな」である。 しかもあろうことか、この後のMCで鈴木が「だんだん仲良くなってきたよね?」などとぶっ込んだのだ。メンバーにも客席にも、0コンマ何秒かの微かな静寂が起きた後、含みのある微妙な笑いが巻き起こった。みんな分かってるのだ。
それでいい。ステージという戦場で戦って、みんな大きくなれ。
そんなこんなで、最後まで全く見飽きることのない公演だったし、こうなると、今日の出演メンバー以外の組み合わせも確認したいところだ。迫姫華などは初日、意図的に立仙と分離された節がある。近頃では、正規メンバーと意識的に接触する2期生の報告もちらほら見受けられる。勢力図と相関図が躍動を始めた。とりあえず2月24日のアンフィシアターは見逃せない。
…さて最後に、印象に残ったメンバーを2名挙げて終わりにしよう。
吉田紗良。 この人は、最初に候補生の画像が発表された瞬間に、いちばん強く印象に残ったメンバーだ。それだけに、加入後もわりと注目して見ている。正直、パフォーマンスはまだまだ危うい。「初日メンバーはパフォーマンス重視で決めたわけではないな?」とすら思わせる。あまり表情が変わることが無く、ダンスも極端に言えば「振り付け通りに動かしている」くらいに木訥(ぼくとつ)なのだ。それなのに、気になって何度も見てしまう。悪くない。と言うかクセになる。アンコール明け、最後の最後になって、隣のメンバーと何かについて笑い合っていた。今日、たった一回見た吉田の満面の笑顔だったが、とても価値の高いものを見たような気持ちになった。
…と、ここから書くことは、ぼくの完全な妄想だ。そう思って読んで欲しい。
吉田紗良に漂う正体不明の魅力。それは最初、ビジュアルかと思ったが、そうではなかった。黙っていると「自分の顔面レベルを自覚した、自己評価の高い精神的アッパー層」のように見えるが、メンバーとわちゃわちゃしてるときの様子などを見ていると、わりとミドルな印象なのだ。目立つほどに笑う印象が無いが、逆に笑うときはいつも無邪気な感じだ。今日は、そんな吉田を2時間たっぷり観察出来る機会でもあった。
そして分かった。
吉田は、アッパー層に見えてしまうが故に、必要以上にカースト文脈に巻き込まれてしまうタイプなのではないか? 本人はそんなことに関わりたくない性分なのだが、周囲がそれを許してくれない。そんな福岡時代の面倒くさいソーシャルから離脱し、自分らしく立っていられる場所を探しに、瀬戸内にやって来たのではないか? 今の吉田は、二度とふたたび「あらぬタグ付け」をされないように、抜き足差し足で、いまのコミュニティの様子を探っているのではないだろうか?
繰り返すが、これは妄想である。ぼくが吉田紗良を見るときの「設定」と思ってもらっていい。しかしそんな風に見ていると、素っ気無いように見える彼女のパフォーマンスに、健気なフレーバーが漂ってくる。それが彼女の不思議な魅力の正体ではないか? ピンチのときには救ってあげたいと思えるメンバーだ。
そしてオーラスは、やはり中廣弥生の話で終わろう。
もう、どこをどう切り取っても、いついかなるときでも、見ているだけで湧き上がってくる笑みを抑えきれない。ダンスが少しぎこちないときも、握った拳が小さすぎて迫力がないときも、どんな状態であろうと「中廣の可愛さ」で説明が付いてしまう世界観。お披露目公演ですでにその予兆はあったが、公演10日目にして、完全にそれを自分のもの(スタイル)にしてしまっていた。まったく技巧の痕が見られないことから、習得したものではなく、自分の中にある一要素にレバレッジを掛けるコツを掴んだ、ということなのだろう。それくらいナチュラルなのだ。(もちろんそれは純粋であることを意味しない)
紙屋町ホール、下手席。 やよちゃん・りこちのゼロズレで始まり、やよちゃん・りこちのゼロズレで終わった、至高の劇場公演であった。 (了)
それであの見応えは異常だ。
20時30分。
公演が終わるとともに紙屋町ホールを脱出。なんとか最終の新幹線に間に合い、車中でこれを書いている。記憶とその感触が薄れないうちに記録しておかなければ…というより、東京までの4時間を潰すにはちょうどいい。それにしても新幹線は、STU48号よりよほど揺れて書きづらい。
STU48研究生『僕の太陽』公演の「見応え」の根拠のひとつは、パフォーマンスのバラエティー感だろう。STU2期生は、16人のダンスを揃えようという力学がほぼ働いていない。ざっくり分類しても4〜5種類のタイプがある。技巧的にもかなり差がある。しかし、それらが混合していてもバラバラという印象はなく、むしろ「デコレーションケーキをどこから食べるか」という楽しさに近い。
もっとも、デコレーションのバランスを確保するためには、やはりイチゴにはデンと構えていて欲しいわけであるが、それが立仙百佳、清水紗良、川又あん奈である。清水はアクターズスクール広島、川又はクラシックバレエの経験者だが、すでに研究生とは名ばかりの深い表現力に圧倒される。そして、立仙のノイズリダクションされた丁寧なパフォーマンス。特に川又あん奈のスケール感は、劇場で観たからこそ確認出来た、今日最大の収穫である。
そして、この3人の対極に工藤理子がいる。「歌詞を読んで表現を考えてる」みたいなことを言っているが、がむしゃらなダンスはどの曲でも同じような感じだし、シリアスやセクシーなどの表現は押し並べて演技くさい。しかし誤解しないで欲しい。だからダメと言ってるのではない。工藤には工藤の、表現したいという高圧なエネルギーと、表現のための確固たるスタイルがある。それは、本人に自覚があるか分からない、全身から溢れ出てしまっているエロスや、立仙とは真逆のノイジーな動きが引き起こす頻繁な〈スカひら〉もひっくるめてであり、それらは恐るべきスタミナによって公演を通して貫かれている。何の曲だったか、清水を見ていた視界に工藤が孫悟空のように飛び込んで来た瞬間などは、「すげえ公演だな」と思わず笑いそうになった。 ダンスは苦手と言い切る工藤もまた、鉄板パフォーマー3人組とは違ったアプローチによって、劇場公演の楽しさを大きく支えている。
そんな極端な両極の間で、さらに無数の個性が、フリーマーケットのように客の視線を誘い込んでくる。全体曲では「尺が足りない」と感じるくらい、それらがめまぐるしく交錯する。 そうしたカオスが、ユニット・パートでは綺麗に整理整頓される。『僕とジュリエットとジェットコースター』の清水などは、左右の2人には申し訳ないが、その抜群のカッコ良さたるや、ほとんど独壇場である。『ヒグラシノコイ』では、川又あん奈の表現力(立ち姿、四肢の美しさ!)に酔いしれる。(ボーカルは田村の方が良い。川又と対照的な生っぽさで対極を極めるのも面白い手だろう)
そして極め付けは『向日葵』である。
向かって左手から、中廣弥生、高雄さやか、原田清花、鈴木彩夏という並びであるが、これはすでに『STU48ジャーナル』で指摘済みの「中廣と高雄のところで境界線」という重要案件だ。中廣だけ小柄であるせいか、物理的にそこでやや離れているようにも見える。
…よく分からない方に説明しよう。
STU2期生は、ヲタクの嗜好タイプで分類したとき、同じカテゴリー内でバッティングする組み合わせが多数見られる。例えば「今泉美莉愛、田村菜月、内海里音」「吉田紗良、吉崎凛子」「小島愛子、南有梨菜」といった具合だ。その極め付けが「高雄、原田、鈴木」という《ドール系》と目される3人なのだが、よりによって…というか、もはや確信犯としか思えないのだが…『向日葵』に全員集められているのである。しかもこの楽曲、4人ユニットとは言っても、ほとんど正面を向いてのパフォーマンスである。まるで「さあ、私たちの中から1人をお選びなさい」とでも言われているような絵面なのだ。そこに張り詰める強めな緊張を緩和するために、4人目として中廣が召喚された可能性は高い。3人の戦闘魔法少女にくっ付いている「たまに一言多いマスコットキャラ」のようなイメージだ。実際、初日公演MCで中廣は、自分以外の3人がセットであるという主旨の指摘を無謀にもしてしまい、3人から軽くクレームを食らっている。
…という話である。
そんな『向日葵』だが、想像していた以上にクリティカルであることが、3人の登場とともにすぐに理解出来た。そう思わせるくらいの気迫が、彼女たちの立ち姿にはあった。この日、2つ目の「すげえ公演だな」である。 しかもあろうことか、この後のMCで鈴木が「だんだん仲良くなってきたよね?」などとぶっ込んだのだ。メンバーにも客席にも、0コンマ何秒かの微かな静寂が起きた後、含みのある微妙な笑いが巻き起こった。みんな分かってるのだ。
それでいい。ステージという戦場で戦って、みんな大きくなれ。
そんなこんなで、最後まで全く見飽きることのない公演だったし、こうなると、今日の出演メンバー以外の組み合わせも確認したいところだ。迫姫華などは初日、意図的に立仙と分離された節がある。近頃では、正規メンバーと意識的に接触する2期生の報告もちらほら見受けられる。勢力図と相関図が躍動を始めた。とりあえず2月24日のアンフィシアターは見逃せない。
…さて最後に、印象に残ったメンバーを2名挙げて終わりにしよう。
吉田紗良。 この人は、最初に候補生の画像が発表された瞬間に、いちばん強く印象に残ったメンバーだ。それだけに、加入後もわりと注目して見ている。正直、パフォーマンスはまだまだ危うい。「初日メンバーはパフォーマンス重視で決めたわけではないな?」とすら思わせる。あまり表情が変わることが無く、ダンスも極端に言えば「振り付け通りに動かしている」くらいに木訥(ぼくとつ)なのだ。それなのに、気になって何度も見てしまう。悪くない。と言うかクセになる。アンコール明け、最後の最後になって、隣のメンバーと何かについて笑い合っていた。今日、たった一回見た吉田の満面の笑顔だったが、とても価値の高いものを見たような気持ちになった。
…と、ここから書くことは、ぼくの完全な妄想だ。そう思って読んで欲しい。
吉田紗良に漂う正体不明の魅力。それは最初、ビジュアルかと思ったが、そうではなかった。黙っていると「自分の顔面レベルを自覚した、自己評価の高い精神的アッパー層」のように見えるが、メンバーとわちゃわちゃしてるときの様子などを見ていると、わりとミドルな印象なのだ。目立つほどに笑う印象が無いが、逆に笑うときはいつも無邪気な感じだ。今日は、そんな吉田を2時間たっぷり観察出来る機会でもあった。
そして分かった。
吉田は、アッパー層に見えてしまうが故に、必要以上にカースト文脈に巻き込まれてしまうタイプなのではないか? 本人はそんなことに関わりたくない性分なのだが、周囲がそれを許してくれない。そんな福岡時代の面倒くさいソーシャルから離脱し、自分らしく立っていられる場所を探しに、瀬戸内にやって来たのではないか? 今の吉田は、二度とふたたび「あらぬタグ付け」をされないように、抜き足差し足で、いまのコミュニティの様子を探っているのではないだろうか?
繰り返すが、これは妄想である。ぼくが吉田紗良を見るときの「設定」と思ってもらっていい。しかしそんな風に見ていると、素っ気無いように見える彼女のパフォーマンスに、健気なフレーバーが漂ってくる。それが彼女の不思議な魅力の正体ではないか? ピンチのときには救ってあげたいと思えるメンバーだ。
そしてオーラスは、やはり中廣弥生の話で終わろう。
もう、どこをどう切り取っても、いついかなるときでも、見ているだけで湧き上がってくる笑みを抑えきれない。ダンスが少しぎこちないときも、握った拳が小さすぎて迫力がないときも、どんな状態であろうと「中廣の可愛さ」で説明が付いてしまう世界観。お披露目公演ですでにその予兆はあったが、公演10日目にして、完全にそれを自分のもの(スタイル)にしてしまっていた。まったく技巧の痕が見られないことから、習得したものではなく、自分の中にある一要素にレバレッジを掛けるコツを掴んだ、ということなのだろう。それくらいナチュラルなのだ。(もちろんそれは純粋であることを意味しない)
紙屋町ホール、下手席。 やよちゃん・りこちのゼロズレで始まり、やよちゃん・りこちのゼロズレで終わった、至高の劇場公演であった。 (了)

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