最後に満開の後藤楽々を咲かせた…というイメージのラスト劇場公演でした。
明るく、暖かく、ハツラツとしていて、涙があっても爽やかで、ときどき笑いもあって。最後を飾る曲はたった2曲なのに、最初から最後まで壮大な楽々ワールドにまとめ上がっていて、セレモニーとして、ショーとして、文句なしの完成度だったと言っていいでしょう。最後は、卒業後の無限の可能性を感じさせて幕を閉じる。こんな多幸感に満ちた最終公演を観たことがありません。
放送中にも述べましたが、AKB48は、創成期の神話時代(それこそ神7という名称がありました)から、高橋みなみに総監督という役職名が付いた律令時代、群雄割拠の姉妹グループ戦国時代、指原莉乃が投票によってのし上がっていく近代(国民国家時代)へと推移し、現在はポストモダン化している…というのがぼくの見立てです。向井地美音が言う「AKBの日常化」も、同様の現状認識であると思われます。そうした時代の変化にも関わらず、前時代までの基準で計られてしまいがちだったのが、後藤楽々の世代だったような気がします。
シングルのセンターに選ばれることもなく、総選挙選抜(16位以内)に入ることもなかった楽々が「未達成のアイドル」であったと評することには、根本的に違和感があります。その違和感の正体を、今回の劇場最終公演ではっきりと見たように思います。それはすなわち、後藤楽々の笑顔とパフォーマンスが生み出す楽しさによって、ぼくたちはこころを揺さぶられる体験を確かにした、ということです。最終公演は、それが疑いようのない事実であったことを刻印します。そしてラストは、わくわくする未来を予感させて終わる。完璧です。
AKB的ポストモダンとは、価値や評価が均質化し、突出した存在が生まれにくい状況を指します。そうした時代は、それこそ秋元康の歌詞的に言えば、「どこまで飛んだか」ではなく「どこをどう飛んだか」という独自性・特異性が優先することになります。後藤楽々劇場最終公演は、彼女のアイドルとしての栄華と苦悩の軌跡を全肯定的にまとめ上げたファンタジーです。総選挙という数値的な基準を喪失し、価値がまんべんなく相対化したAKB48グループにおける、ひとつの突破のかたちであるように思います。それは、運営が用意した称号、勲章よりも価値の高いものがある、ということの証明であり、それがアイドルという特殊な存在に本来求められてきたものであるならば、むしろ原点への回帰とも言えるかもしれません。感覚的に言えば、現に後藤楽々は疑いようのない「アイドル」です。
あたらしい体験や感動を生みにくい時代のメンバーが参照すべきは、遠い神話時代でも、多数決による国民国家でもなく、ポストモダン時代を正確に読み取って(逆手に取って)、スケール感あるクライマックスを創りあげてしまった後藤楽々であると言い切れます。重厚感すら漂うあのパワフルな最終公演は、ポスト・ポストモダン時代へ向けてのヒントが詰まった、次世代メンバーのバイブルにもなり得るセレモニーだと思います。(了)
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