文学ゲリラの時間だァ・・・

『エイリアン』とフェミニズム的読み方

2015/08/03 18:22 投稿

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「フェミニズム批評」という項目の読み方が文学理論にある。
フェミニズムとは、簡単に言うとそれまでの「男性中心社会」を「女性を中心、主体として焦点を当てることで男性中心社会を相対化させる主義主張全般」のことである。
僕たちが知っていることで言えば、女子差別撤廃条約(1979年)、男女雇用機会均等法(1985年)、男女共同参画社会基本法(1999年)が有名な例だろう。
要するに、男女同権運動とか訳されるそれである。

 僕が大学の頃、担当がフェミニズム専門だったため、「男がフェミニズム批評するのはやめてください」とか、フェミニズム中心の講義で意見した時に、同じゼミの女生徒に「2kgくんは男だからわからないかもしれませんが」という、断り書き的な注意を受けたことが多々ある。
もしかしたら僕に別の役割でも期待したのかもしれないが、こんなの僕にとって批判の絶好の題材を与えただけである(笑)
 これらを整理すると、「男性が女性を述べるのはフェミニズムから外れる」ことになり、それはともすれば、「男性の視点を排斥した、女性中心の特権でしかない一分野」と、こういうわけだ。
(何千年も男性中心社会が続いたからな。これから何百年女性中心社会ってのもいいのかもな)と思っていた僕だったが、せっかく大学まで来て勉強するのに、ものすごく規模が小さいことやってると、学生の時に落胆した。
 
 無論僕にとって、いや、一般人にとって「男性か女性か関係なく、その意見が正しいかそうでないかにしか興味がない」し、つまりは「男性か女性か関係なく、その意見がフェミニズムとして正しいかそうでないかにしか興味なんてない」のである。
「男性が言ったか、女性が言ったかそんな小さなことに焦点を置くフェミニズムなんて、これが一般人ならまだしも、学問として最底辺」と扱わざるを得ないだろう。
なんというか、「コンピュータが書いたか人間が書いたかで文章の評価が変わる」あれと通ずるものがある。
 出版物の売上の宣伝文句に〈作者〉を持ち合いに出すのは広報上少しわかるが、学問という知的平等において、これはないと思った例だ。

 文学理論の中心は「読者受容論」と「テクスト論」である。
要するに、「作品とは読者が読むことで初めて完結し、その読書感想は各々により違うから、そこに〈作者の意図〉は存在せず、読者が文字記号を切り離して自分を中心に解釈する」という、読者権利の考え方である。
 これはまた今後取り上げると思うが、これを考慮しても男の意見か女の意見かしか求めていないようなフェミニズムは、もはや価値はないとわかるだろう。
そして、フェミニズムは大きく「男性排斥を急進とする」ラディカル派と「男性と共同を目的とする」保守派に大別できる……となぜか「女性中心を謳う割に、男性中心に革新派と保守派とに別れるという意味のわからない具合」である。

 そこに「我々は男でも女でもない」とか、「新時代を生きる新人類へ」みたいなキャッチコピーを掲げる気構えがない(あってもどうにもならないが(笑))
「男性を相対化させる前に、自分たちフェミニズムを差別化しちまってる」わけだ(笑)
……笑いごとではない。
 このことに気づかないフェミニストはさっさと気づいて問題解決して欲しいし、逆にそのことに気づいたフェミニストは、フェミニズムから離れて研究をしているわけだ。
 で、多分現在もフェミニズムの人は「独身」か「既婚者」かで内輪揉めしてるのである。
40年以上前から同じことで争ってるから、死んだ学問である。
ともかく、僕はこういう理由でフェミニズムを毛嫌いしてるし、こういう人には関わらないようにしている。

 ……と言っても、フェミニズムも優秀な論がいくつもあって、それに見合った作品があるから、やはり学ぶと楽しいものだ。
フェミニズムはホラーやSFの中心素材に打って付けなのだ。
日本で言うならば、ゲーム『R-TYPE』(アイレム 1987年)と言ったらわかりやすいだろうか。
いや、R-TYPEでは逆に分かりにくいから、『エイリアン』にしておこう。
ここでは個別の作品を取り上げるわけではなく、一般的な説明で留めておきたい。

 エイリアンは宇宙を飛来し、「マザーシップ」に「侵入」する。侵入したエイリアンは、人間に「寄生」、もしくは「卵を産み付け」、時間が経過すると「体内を破って出生」する。
――簡単にまとめると、このような受精、着床行為があるわけだ。
 これらをメタファー(比喩)としてフェミニズム批評で解釈するならば、エイリアンが精子でマザーシップは子宮、人間は卵であり、着床してエイリアンが産まれる。
エイリアンは男女問わないが、「男性は妊娠しないという固定観念を崩した、妊娠恐怖」が根底にあり、「妊娠した自分以外の何か=グロテスクな怪物」というわけである。
 
 こういう着床における拡大・縮小の繰り返しをフェミニズム批評は図式化してくれる。
これは言うまでもなく、「母体」に特権を与えて読むからであるが、僕がフェミニズムを嫌っているのは、最終的に「妊娠、出産」ばかり再生産されているから、「フェミニズム批評はエイリアンのこの図式で満足する」点である(笑)
なんといっても「精子や卵、子宮の図式で表現を変えて拡大・縮小を繰り返して宇宙にまでその図式が応用できる」のだから、これ以上の作品評論はない。
こんなの後から設定を付け加えるか、シリーズ化して飽きられるだけだろう。

 そういうグチはともかく、エイリアンの「妊娠した自分以外の何か=グロテスクな怪物」なわけだが、ここにキリスト教後の西洋思想が抱える「自己投影」を一つ取り上げておこう。
 というのは、西洋思想の二分点で問題になっているのが、「自分/自分以外=怪物」と置く点である。どういうことかというと、「自分が秩序で、その他は無秩序」という分け方であり、自己中心主義――大きくは人間中心主義とかになるあれだ。
 ポストコロニアルの項目で簡単に触れたが、歴史的には「東洋」のような見たこともない地は「カニバリズム(人喰い)」が盛んに行われてるとか、そう思われていたというか、今でも根強くそういう意識があるわけだ。
 歴史的には逆で、「キリスト教が布教する以前は西洋は無論、信仰や風習の違いはあれど、どの地域でも見られた」わけだ。「その捨てた風習を相手側の文化に押し付けて、自分の文化にはなかった」と歴史から排除したやり方だ。
 とにかく、自国文化保護活動とでもいったらよいかわからないものの名残として、今日においても「自分=秩序で、その他=怪物」という「自己投影」は生産され続けているわけだ。
 
 他人と闘う前に、自分の怪物と闘えとこういうことであろう。最後に嫌なことを言うが、フェミニズムという領域がそうならないことを祈る。

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