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【非会員でも閲覧可】為五郎オリジナル小説②『ピース』第6話

2018/07/17 08:48 投稿

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「ああ、俺はそれで全然良いと思うで……」
 月川早苗が俺に求めていたのは、いつもこの台詞だった。
 言い換えるならば、『たぶん良いんちゃうかな』だとか、『なかなか良い感じやな』だとかいう曖昧な表現を、ひどく嫌う女でもあった。
 それどころか彼女は、『すごく良いやん』という言葉ですら満足しなかった。何故なら、主語がないからである。
「うちが訊いてんのは、この世に存在するはずもない “客観論”なんかやないねん!」
 早苗の言い分はこうだった。「そうやなくって、杉田光樹の意見や。あんた自身がどう思うんかを訊いてるんや!」
 だから俺は、彼女に感想を求められた際、常に同じ台詞を口にするよう心掛けていた。『ああ、俺はそれで全然良いと思うで……』と。
 ちなみに、俺がこの台詞を毎日のように用い始めたのは、高校に入ってすぐの頃であった。それはすなわち、早苗の創作熱がいよいよ本格的になり始めた時期でもあった。
 ほとんど勉強をしている様子も窺えないのに、どういう訳か偏差値が高かったあいつは、俺よりも数ランク上の公立高校に入学することとなった。それによって、俺の奴隷生活もようやく終幕を迎える……はずだったんだけど、遺憾ながら物事とはそううまく進むものでもない。むしろ直接会う機会が減った分、スマホによって呼び出されたり何かを頼まれたりする回数が、格段に増えてしまったのである。
 『高校の近くの本屋ではあの漫画が売ってへんかったから、代わりにどっかで探しといて』というパシリ感丸出しのものから、『下着を買いにいくから、一緒について来い』なんていう、一歩間違えれば逆セクハラか罰ゲームみたいなものまで多岐に渡る雑用――その中でも大半を占めていたのが、早苗の創作の補佐的な業務であった。
 何のきっかけがあったのかはわからないし、そんなことを知りたくもないけど、とにかく高校に入って一ヶ月ほど経ったある日、早苗は突然『うちはクリエイターになる!』と宣言した。厳密に言えば、俺のスマホにそういう主旨のLINEを送ってきたのである。
 そして、無駄に有言実行タイプでもある彼女は、その日から宣言通りあらゆるジャンルの創作に手を染め始めた。
 同人誌作成、バンド結成、演劇集団の旗揚げ、小説執筆――おおよそ、メインストリームから外れてしまった高校生が思いつきそうな代物には全て飛びついたし、もちろん俺はその全てを手伝わされる羽目になってしまった。
「……うちはな、生きた証を残したいねん」
 早苗が、暇つぶしに対するもっともらしい名目を思いついたのも、たぶんこの頃のことだろう。「『虎は死して皮を残し、人は死して名を残す』やなんて言うけど、あんなんは嘘やわ。リヴァプール生まれのジョン・レノンやアンキアーノ村生まれのダ・ヴィンチが有名な訳やなくて、『イマジン』を作曲したジョン・レノンや『モナリザ』を描いたダ・ヴィンチが有名なんや。つまり、人間が後世に残すんは、名前やなくって作品やねん!」
 まったく意味が理解できなかったし、理解できたところで詭弁だとしか思えなかっただろうけど、それでも彼女は何かを創りあげる行為に異常なまでの関心を抱く理由を、したり顔でそう解説するのであった。……いや、解説するだけならまだ可愛いもんだけど、なおかつ俺に賛同を求めてくる始末だった。
 とはいえ、ラブレターという最終兵器を握られている俺は、素直に頷いてみせたさ。なんなら、愛想笑いすら浮かべて。
 すると調子に乗った彼女は、創作物自体の感想まで毎回俺に求めてくるようになった。言うまでもなく『感想』なんてのは建前で、実情は『賞賛』である。無根拠の自信とプライドだけで成り立っているような彼女にとって、自分の創作物を他人が貶すことは、神に対する挑戦と同義だったのだろう。少なくとも、俺が彼女の作品を貶すことは、自らの私生活の破滅を迎えることと確実に同義であった。
 なので俺は、彼女のアイデアに対して常にイエスマンであり続けた。たとえそれが、黄色と黒だけという異常な配色の同人誌であっても、ドラムとボーカルだけというリズム重視すぎる編成のバンドであっても、ろくに喋れもしないフランス語の台詞のみというグローバルな演劇集団であっても、原稿用紙5千枚という別の意味で環境意識を呼び起こさせる小説であっても、俺の感想は常に、「……ああ、俺はそれで全然良いと思うで」だったのである。
 ……余談になるけど、そんな横暴かつ傲慢な月川早苗に対する周囲の眼差しは、意外に暖かいものだった。というのもこの女、俺以外の前では、ひどく人当たりの良い性格を演じていたみたいなのである。
 やれ、『明るくて楽しくて友達思いの同級生』、やれ『優しくてしっかり者で頼れる先輩』、やれ『可愛くて素直で信頼できる後輩』――。周囲の人間が語る早苗の印象は、彼女の最大の被害者からすれば、タチの悪い冗談か趣味の悪い妄言だとしか思えないものばかりであった。たった一通のラブレターで他人の私生活をほとんど支配するような女の、どこが『友達思いで優しくて信頼できる』のだろう。もしかすると、俺はずっと日本語の意味を勘違いして解釈していたのかもしれない。
「だってさぁ、他人に嫌われたかって、得なことなんか何一つないやん?」
 ある時、あまりにもキャットカバーリングな態度にムカついた俺がその動機を尋ねてみると、早苗はいかにも腹黒そうな笑みを浮かべながらそう返答してきた。「……だいたい、人生なんて、全て演技みたいなもんなんやし」
「おいおい、それは極論すぎるやろ」
 純真な俺が反発すると、彼女は見下すように顎を突き出しながら、
「光樹にとっては極論でも、うちにとっては持論やねん」
「あいかわらず、おまえは捻くれた性格やなぁ」
「そうやで、うちは捻くれてるで。けどな、そんな捻くれたうちでも、他人には嫌われとうないから、あえて “良い人”を演じてんねん。たとえ、ほんまはしばき倒したい奴の前でもな」
 言いたいことを言ってすっきりしたのか、早苗は実に晴れやかな表情でこう締めくくった。「……うちが嫌われてもええのは、あんただけや!」
 俺が大嫌いな早苗の悪癖、もとい創作活動は、大学に入ってからも一向に収まる気配を見せなかった。それどころか、彼女の行動範囲が広がったことによって、さらに加熱する様相すら呈していた。同時に、俺が無理難題を押し付けられる頻度も、増加の一途を辿っていた……はずだった。
 なのに、である。
 何故か三回生になった途端、正確に言えば、今年の六月辺りに、その流れはぴたっと止んでしまった。というより、名参謀であり有能な秘書であり忠実な奴隷である俺の知らないところで、彼女が勝手に活動し始めたのである。
「大学にうちの良い理解者が結構おってな。今はその人らと一緒に色々と作ってるんや」
 あっけらかんとした声が、スマホの受話口から聞こえてくる。それはまるで、俺の質問をあらかじめ想定していたかのごとく、流暢な口調であった。
「ええっと、ちなみに今は何を作ってるんや?」
「何を作ろうと、うちの勝手やろ! なんであんたにいちいちそんなこと教えなあかんねん!?」
 これまでずっと、影ながらどころか太陽活動並みの勢いで尽力してきた人間に対する台詞とは、到底思えないほど冷淡なお言葉。
 さすがに俺もカチンときて、
「やれやれ……ってことは、これでようやく我侭女のお守りから解放してもらえるようやな! ほんまに、心の底からせいせいするわ!」
 と、悪態をついてやる。すると、
「残念ながら、そうはいかんで」
 余裕めいた口ぶりで、彼女は続けた。「光樹には、最後の方でちょっとだけ手伝ってもらうつもりやからな」
「最後の方? ……具体的に、俺は何を手伝えばええねん?」
「それは……き・み・つ!」
「いや、せめてそこは『秘密』って言えや! 『機密』なんて言葉を区切って言うても、全然かわいないぞ!」
「うっさいねん、この無能男が! 今すぐ戒名を考えてやろか、あん!?」
 一転、今度はドスの効いた罵声が飛んでくる。悪態でこいつに対向しようとするのは、アリがモハメド・アリと対戦するくらい無謀だったようだ。「……とにかく、最後の方になったらちゃんとあんたを呼んだるから、それまでおとなしく待っときなさい!」
 仕方がないので、俺はおとなしく待っておいた。
 けれど、早苗は俺を呼んでくれはしなかった。
 ……いつまでたっても、どれだけ待ってみても。
 結局、俺はこの作品、すなわち月川早苗の最後の作品に関わることはとうとうできなかったし、矛盾を承知で言えば、やっぱり関わらなければいけなくもなってしまった。
 ――そして、だからこそ俺は今、彼女が生前通っていた大学の構内で、所在なく立ち尽くしているのである。
 『メゾン・ド・マドモアゼル』で行われたミーティングから二日後の、午前十一時二十分頃。
 絶好の撮影日和……とはお世辞にも言えないような曇り空の下、俺は『奥旅亜大学』のキャンパスで他の五人を待っていた。
 もちろん、ここで『シーン1』とやらの撮影を行う為である。
『明日の午前十一時半に、奥旅亜大学のキャンパスへ来てください』
 前夜に田中育枝からLINEで送られてきた指示は、一見極めて明快かつ簡単なものに思えた。奥旅亜大学の場所は当然知っているし、午前十一時半という集合時間も常識的である。
 ところが、いざ実行に移してみると、これが意外に難題だったのだ。よく考えてみれば、早苗を迎えに『奥旅亜大学前駅』までやって来たことは腐るほどあっても、この大学の敷地内に足を踏み入れるのは、今回でまだ二回目だった。ちなみに前回だって、面識のない女性によって、正門のすぐ近くにある視聴覚室へとまっすぐ連れて行かれただけで終わってしまった。
 要するに、俺はこの大学の内部構造をほとんど把握できていなかったのである。
 結論から言えば、俺はこのLINEが示す『奥旅亜大学のキャンパス』という場所をすぐに特定することができなかった。というより、キャンパスの面積があまりにも広大だったので、どこで待っていればいいのか皆目見当がつかなかったのである。
 正門付近の地図パネルを見る限り、この『奥旅亜大学』は、三十棟以上の学舎が並び立つようなマンモス校らしい。そういえば、以前早苗が『下手すれば、ちょっとした町くらいの大きさ』だと言っていたような気もする。つまり俺は、『OO町で待ち合わせ』というくらい曖昧な約束を安易に受け入れてしまったみたいである。なんて愚かな男だろう。
 もっとも、俺には後悔や反省をしている暇などなかった。こうしている間にも、約束の時間は刻々と迫っているのである。しかもその待ち合わせ相手は、驚愕するほど凶悪な脅迫犯なのだ。約束を破れば、韻と一緒に俺の尊厳まで踏みにじられる可能性だって充分考えられる。
 よって俺は、慌ててスマホを取り出し、震える指でボタンを押すのであった。
「……ようやく気がつきましたか」
 もうちょっと具体的な待ち合わせ場所を指定してくれ――俺がそう懇願するどころか、一言も喋らないうちから、田中育枝のさも愉快そうな声が聞こえてきた。どうやらこういう事態になることを前々から予想していたらしい。「学食の近くに、大きな噴水があるんですよ。その前で待っておいてください」
 今度こそ明快かつ簡単な指示であった。学食の場所なんてもちろん知らないけど、そんなものは夏休み中だというのにそこいらで歩いている暇な、もとい、勉強熱心な学生に尋ねればすぐに事足りる。
「ってことは、そこで撮影を行うつもりなんか?」
「ええ、そうです」
「ちなみに、君は今どこにいるねんな?」
「もう大学構内にはいます。ただ若干準備に手間取っているんで、少し遅れるかもしれません。まぁその場合は、ちゃんと誰かを現場に向かわせますから、適当にその人と時間を潰してください。……それではまた後で」
 電話を切った後、俺はすぐに近くの学生を呼び止めて学食の場所を訊き出した。
 その結果、午前十一時二十分には目的地に辿り着くことに成功した。約束の時間の十分前である。充分合格ラインだろう。ひとまず、危機は乗り切ったようだ。
 小さな龍と虎があしらわれている噴水の近くでさらに待つこと数分。学生がちらほらと眼前を通り過ぎる中、俺はようやく見覚えのある顔を発見した。
「……おはよう」
 ゆっくりとした足取りで近づいてきたのは、西村だった。太っていて、人相が悪くて、俺よりも三つ年上の、あの男である。
「あ、どうも……」
 年長者ということもあって、俺は軽く頭を下げておいた。そんな俺を見ても、表情を一切変えない西村。なんだか怒っているかのようでもある。
 そしてムスっとした顔のまま俺の隣に陣取った彼が、こちらと目線を合わせないままこう言った。
「……育枝ちゃんに行けって言われたんや」
 それだけであった。今どきロボットでももう少し詳しく説明しそうなもんである。この台詞を補完してやると、『みんなが用意できるまで、杉田の相手をしてあげてほしいと田中育枝に頼まれた』ってことなんだろう。
 それにしても、だ。よりにもよって、一番とっつきにくそうな西村を選ぶあたりが、いかにも田中育枝らしい。
「ひどいっすよねぇ、年上に対する扱いが」
 ずっと無言なのもさすがに気まずいので、俺が何気なく話題を振ると、
「しゃあないわ。オレは雑用係やしな。……それに、育枝ちゃんの命令には逆らわれへんよ」
 ほんの少しだけ、西村の表情が緩んだ。……なんだ、こいつは? どうして田中育枝に命令されてちょっと嬉しそうなんだ? さてはこんなイカつい風貌のくせしてドMなのか? 「ああ、そうそう。杉田さんに一つ、訊いておかなあかんことがあるんやけど」
 一転、再び彼の顔つきが険しくなる。
「え……なんすか?」
 思わず唾を飲み込む俺。
「育枝ちゃんから聞いたんやけど……あの子の下着の色を毎晩LINEで訊いてるって、ほんまの話なん?」
「嘘っす! まったくの嘘っす! 狼少年がドン引きするくらい悪質な嘘っす!」 
「……それやったらええけど」
 ふっと、西村の全身から殺気が消えた。どうにか理解してもらえたらしい。
 ていうかあの女、どんなデマを流してるんだよ。そんなのがアリなら、ラブレター公開を阻止する為にこうして努力しているのも、完全に無駄な行為ってことになるじゃないか。
 俺にとってなんとも幸運だったのは、なんとも不穏な空気の漂う対談をここで終了できたことであった。視線を移したところ、遠くから大きく手を振っている女性の姿が見えたのである。童顔で背の低い女の子だった。
 なおかつその背後には、見慣れてはいないけど、それでも今は登場がとてもありがたい面々もいる。
「……遅れて申し訳ございません」
 やがて俺の近くにまでやって来た田中育枝が、眼鏡の位置を右手で調整しながら、あからさまに心がこもっていないとわかる謝罪を述べた。「機材トラブルがありましてね」
「機材トラブル?」
「ええ、撮影用の機材に不具合が発生したんですよ」
 なるほど、本当に今日はここで自主映画の撮影とやらを敢行するつもりらしい。田中育枝が手にしていたのはかなり大きなデジタルビデオカメラだったし、その隣に立っている吉峰が持っていたマイクは、学生の思い出作りにしてはなかなか本格的な代物であった。
「こいつの調子がちょっと悪くてねぇ!」
 吉峰は、ショルダーバックのように掛けている大型ウォークマンみたいな機械を指差した。本日の彼女のファッション、すなわちオーバーオールにはいかにも不釣合いな物体である。「なんか、ところどころ雑音が入るんですわ。それも、女性の声とかやったらまだ救いがあるけど……って全然救いないわ! そんでもって全然救うこともできへんわ、霊媒師やないんやから! ……ちなみに個人的には、この大学って絶対にめっちゃ霊がうろついとると思うとります。だって実良、ちょっと霊感あるもん。この間も、霊に囲まれてお金を取られたもん。でもまぁ、霊やったらしょうがないわなぁ……って、現実逃避なだけやん! ただのカツアゲされた苦い思い出ですやん! ……それはともかく、たまに『ザー』っていうノイズが入ったりしてたんすよ、さっきまではね。けど、単にシールドの問題やったみたいで、新品を使えばばっちし解消しましたで! ほんまに、プラグイン側の問題やったらどうしようかと思ったわぁ!」
 熱心に解説してくれる彼女には申し訳ないけど、俺にはさっぱり理解できなかった。専門用語が登場する後半部分も、もちろん前半部分も。
「という訳で、機材の方は完璧なようです」
 シックな色の上着に、タイトなスカート。思い込みかもしれないが、この日の田中育枝は、早苗が好んで選びそうな服を身に纏っていた。「……それにしても、徳永さんはこんな重い機材をちっちゃな女の子に持たせて、平気なんですか?」
「え……いや……その……」
 暑苦しいほどフォーマルな服装でばっちり決めた徳永が、ばっちり決まらない反応を示す。「だ、だって、実良ちゃんはマイクと音声担当、やんか? だから、その、素人の、おれが手伝ったりしたら、かえって迷惑、かなと思って……」
「荷物運びくらいは手伝っても支障がないのでは?」
「え? ……ああ、そうやった、かも」
「ご心配なく。別にこの一件で徳永さんを見損なったりはしませんよ」
 真夏だというのに、明らかに氷点下な口調で眼鏡娘は言った。「だって、最初から最低ラインですから」
「そ、そんなこと、言わんといてよぉ……」
「どうでもええけどさ、育枝」
 肩を落とす徳永の横で、こちらもお洒落かつ嫌味にならないブランド服で身を固めた里見が、整っている顔つきを崩してみせる。「なんかだいぶ曇ってるみたいやけど、撮影しても大丈夫なんか?」
「大丈夫って、どういうこと?」
「ほら、脚本には、『太陽が照りつける中』ってト書きがあったやん?  でも……」
 言葉を区切った里見が、頭上を見上げる。
 ……確かに、『太陽が照りつける』と表現するには程遠い空模様だ。どちらかと言えば、『雨が降りしきる中』になる可能性の方が高そうである。
「簡単な話やん。その一文を書き換えればいいだけや。……『曇り空の下で』って」
 あっさりと言い放つ田中育枝。要するに、早苗の撮影方針は堅持しても、脚本内容の方は改竄OKってことらしい。その辺のさじ加減がよくわからないけど、とにかく続けて彼女は俺の方に顔を向けた。「……それでいいですよね、監督?」
 それでいいも何も、俺だって天候を操れる訳じゃない。だから、異論はなかった。……いや、ないはずであった。
 ところが、気がつけば俺は信じられない一言を発していたのだ。
「……いや、晴れるまで待とうや」
 何故俺がこんな指示を出したのか、その理由はいくつか考えられる。『新人監督として舐められないように、最初あえて無茶な指示を出してみた』という著名な監督のエピソードを想起したのかもしれないし、あるいはもっと身近な監督――自分の意見やアイデアを曲げられることが心底嫌いだったエセクリエイターの顔を思い出したのかもしれない。
 いずれにしても、俺が空気どころか天候も読めない発言をしてしまったのは事実であった。
「待つって……本気で言ってはるんですか?」
「ああ、そこそこにはな」
 引っ込みのつかなくなった俺が、反抗的な助監督を睨みつけてやる。「だいたい、どうせ今日は『シーン1』しか撮影せえへんのやろ? それやったら、待ってる時間なんて腐るほどあるってもんやで」
 しばらくの間、無言で俺をじっと見つめていた田中育枝だったけど、やがて落ち着いた声でこう答えた。
「なるほど、わかりました。映画において、監督の意見は絶対です。たとえそれが学生の自主映画であっても、たとえ監督が下着の色を毎晩LINEで訊いてくるような変態であっても、ね」
 不敵な笑みを一瞬浮かべてから、彼女は声を張り上げた。「……そんな訳なんで皆さん、今から『天候待ち』を行います!」
「よぉし! そういうことやったら、実良はその間に音を拾ってくるわ!」
 吉峰が勢い良くマイクを天に突き上げてみせる。
「音を拾ってくる? 何の音や?」
 まさか、本当にこの構内で彷徨っている霊の声でも拾いに行くつもりなのか?
「群集の音っすよ、群集の音!」
 頬を膨らますチビッ娘。リアクションまでが幼い。
「なんでそんなもんが必要やねん?」
「いやいやいや監督はん、脚本には、『たくさんの学生がたむろしている』とも書かれてありますやん。たぶん、月川先輩は夏休みが始まる前に撮影する前提でそう書いたんやろうけど、残念ながら今は夏休みに入ってもうたから、学生があんまり歩いてません。やったら、比較的学生が集まってる場所で音を拾って、それを後から何重にもミックスすれば、いかにもたくさんの人が歩いてるって感じのシーンになるってもんでしょうが! しかも霊の声が入ったりしてれば、一石二鳥やんか! ……って、一つ鳥を間違えてるわ! そっちは『獲り憑かれる』方のトリやわ!」
 少しだけ俺の予想も当っていたようだけど、意外な部分の方が大きかった。このハイテンション娘も、それなりにこの映画のことを真剣に考えているらしい。後半のくだりは、あいかわらずさっぱりわからなかったけどな。
「ああ、今度は、おれが、機材を、持つで!」
 慌てた様子で吉峰の元に駆け寄る徳永。さっきの田中育枝の台詞がよっぽど効いているらしく、その表情からは悲壮感すら漂っていた。
「え、ほんまですか? ありがとうございますぅ! ……って、どこ触ってるんすか!」
「ち、ちゃうよ! その、機材を、持とうとして、たまたま、手が当って、しまっただけで……」
「やっぱり、徳永さんは最低ラインですね。終身名誉最低ライン者の称号を差し上げましょうか」
「育枝ちゃん! これは、誤解、なんや!」
「ええ!? 徳永さんってセクハラキャラやったんですかぁ!? わたし、全然憧れてはいませんでしたけど、見損なってまいましたぁ!」
「ちょ、ちょっと、華奈子ちゃんまで! また、おれの評価、下がってもうたん!?」
「どうでもええから、早く行きますよ、徳永さん!」
「どうでも、よくは、ないと、思うけどなぁ……」
 本当にどうでもいい会話を交わした後、吉峰と徳永は噴水前から去って行った。なんだかんだいって、俺を除く五人のメンバーは仲が良いみたいである。
 やがて残された面子は、噴水前の花壇のような場所に並んで腰掛けた。シャーマンのような能力を有していない以上、我々はただ黙って晴れるのを待つほかなかった。
 とはいえ、実際に沈黙しながら待つのはあまりにも退屈すぎる。俺と同じ思いだったのか、まぁこんな場合は誰だってそう思うに違いないだろうけど、里見が右隣に座っている西村に、最近公開されている洋画の話題を振った。強面男も、そのまた右隣に座っている田中育枝の様子をちらちらと窺いながらそれに応じる。当の毒舌眼鏡娘はといえば、デジタルビデオカメラの電源を入れてはすぐに消すという不可解な行動を繰り返していた。さらにそのまた右隣に座っている俺からすれば、さっきからずっと聞こえてくるカチッカチッというスイッチ音が、なかなか耳障りであった。
「おい、そんなことしてたらカメラが壊れてまうぞ」
 やむなく、忠言する俺。
「え? ……ああ、すみません。つい無意識に」
 珍しく、田中育枝が軽く焦ったような様子を見せた。そんな彼女を前にして、俺はある仮説を思い描く。
「ひょっとして……緊張してるんか?」
「まさか!」
 即座にせせら笑うような声をあげる田中育枝。「月川先輩の代役をするからって、このあたしが緊張するとでもお思いで? ……確かに、あたしは毎晩のように杉田さんに緊縛されていますけど」 
 冗談や皮肉や嘲りによって幾重にもコーティングされた彼女の本心――それを窺い知る絶好の機会を、どうやら俺は逃してしまったようである。眼前で口元を歪める田中育枝は、すでに普段の田中育枝以外の何者でもなかった。むしろ、その隣に座っている西村の眼光の方が、本心をあからさまに物語っている。そのうち俺は彼に殺されるかもしれない。
 なので、慌てて話題を変えた。
「あのさ、ちょっと訊きたいんやけど……いや、下着の色以外の質問やぞ」
 なんでこんな注釈が必要なんだろうな。「この映画って、全部で何シーンあるんや? それくらいは、さすがに監督として知っとかなあかん範囲ってもんやろ」
「七シーンです」
 予想外に素早い返答だったし、
「たった七シーンなんかよ?」
 返答内容自体も予想外だった。「俺は映画のことなんか全然わからんけどさ、なんかえらい貧相な仕上がりになりそうやな」
「『本当に優れた絵画は、たった一枚で人々を一時間以上立ち止まらせる。それに比べて映画は比較にならないほどのコマ数を使えるのだから、七シーンだけでも素晴らしい作品は作れるはず』……なんて感じのことを、月川先輩が言っていたような気もする、今日この頃です、おぼろげながら」
「いや、だからそこははっきり思い出せよ! かなり重要な部分やろうが!」
 どうせ、その絵画うんぬんって話も誰かの受け売りなんだろうけどさ。
「なおかつ、以前にも説明した通り、今回の作品は月川先輩にとって『習作』みたいなものだったはずです。よって、最初は無難にスケールの小さな映画にしたのではないでしょうか? ……もちろん、これはあくまでもあたしの推測ですが」
 なるほど、なんとなくは納得できる理由だ。
 『構想が広がった』とかなんとかで『第12・25話』なんて不条理な漫画を描いてきた前科のある早苗のことだから、完全に断言はできないものの、常識的に考えれば、残されたシーンはあと六つってことになる。
「要するに、俺はあと六日分のスケジュールを空ければええってことやな」
「六日になるのか五日になるのかは、まだちゃんと決めていませんけど……」
 口を濁すように答える彼女。
「うん? それはどういう意味や?」
「……ほら、最終シーンのことですよ。あのシーンは、月川先輩が演じたバージョンが形として残ってる訳でしょう?」
「ああ、このあいだ見せてもらったやつか」
 能天気かつ喜怒哀楽の激しい女が矛盾した独り言を口にするだけという、あの不気味な動画のことだ。
「あたしとしては、できればあの映像を映画に取り入れたいんです。……というより、あれが本来のラストシーンですし、月川先輩が本来のヒロインなんですから、なんとかあの映像で映画を締め括りたいと思ってるんですよ」
 意外に早く次の機会は訪れたみたいだったし、なおかつ今度こそ俺はその機会を生かせたようでもあった。真剣な面持ちで語る彼女の眼鏡の奥、その大きな瞳に、俺は一切のコーティングも見出せなかったからな。
 いや、あるいは普段よりもっと分厚く塗りたくられていたのかもしれない。……『月川早苗に対する、妄信的とも言える敬愛』というコーティングが。
「けどさ」
 そのコーティングの強力さを知り尽くしている俺でも、反論せずにはいられなかった。「実際問題、『シーン1』から『シーン6』までは、君がヒロインを演じるつもりなんやろ?」
「はい、そうです」
「じゃあ、最終シーンだけ別人が演じてたらおかしないか? 違和感ばりばりやないか?」
 いくらド素人が作る自主映画だからといって、途中でいきなり主人公を演じる役者が変わったりなんかしたら、観ている方だって疑問符以外の感想文を書けないと思うけど。
「だから、違和感なく月川先輩にバトンを渡せるような演技を、精一杯頑張ろうと思ってるんです」
 田中育枝が、ふと顔を俯ける。「もっとも、あんまり自信はありませんが……」
 消え入るような声でそう付け加えた後、彼女は再びデジタルビデオカメラのスイッチを弄び始めた。 
 ……やっぱり、緊張しているらしい。
 ふいに、真夏にしてはやけに涼しい風が俺の体を包み込んだ。曇っているせいだろうか。あるいは、噴水の近くにいるせいかもしれない。周囲に建つ、というよりもはやそびえ立つと表現した方が正しいであろう大きな学舎郡が、なんらかの気圧的変動を引き起こしている可能性だってある。
 いずれにしても、俺にはその原因がよくわからなかった。わかっていたのは、俺の心にも涼しい風がそそいでいたということだけである。
 すなわち、すぐそばに人がいるのに襲ってくる孤独感。つまりは、やりきれない沈黙。
「……そういえばさ」
 そんな訳で、俺はもう一度、田中育枝とのコミュニケーションに挑んでみた。「許可は下りたんかよ?」
「許可、って何ですか?」
 キョトンとした顔で彼女が訊き返してくる。
「いや、撮影許可や。大学にかけあってみるとか言ってたやんか」
「ああ……それは、やめときました」
「なんでやねん? ちゃんと許可を取らな、何かとやばいんちゃうか?」
「月川先輩はこう言ってました。『うちが撮影OKやと言えば、OKやねん』って。とどのつまり、月川先輩が脚本に『奥旅亜大学のキャンパスで撮影する』と書いていれば、撮影してもOKって意味なんです」
 やれやれ、妄信的どころか狂信的とすら言えるな。どうしてあんないい加減な女のことを、そこまでリスペクトできるのかね?
「かいつまんで言えば、早苗が撮影許可を出したって論法なんか?」
 呆れる俺の前で、
「……それはわかりませんけどね」
 田中育枝は意味ありげに目を細めてみせた。「ちなみに、月川先輩はこうも言ってました。『それに、うちって結構イケてるルックスしてるから、相手が男やったら多少無茶な撮影したって許してくれたりすると思うんやぁ』って。……ええ、これははっきり覚えてますね。確かに言ってました。断言できます」
「なんでそんなちょっと嫌な台詞だけはっきり覚えてるねん、こら!」
 記憶の取捨選択が明らかに間違ってるぞ。
 とにかく、早い話が大学側には何の許可も貰っていないってことらしい。道理で、周囲の学生達の視線が冷淡なはずである。まぁ、許可を取っていたところで好奇の目で見られるのは避けられなかっただろうけど、それでも俺達自身はそれなりに胸を張って撮影に臨めたはずだ。
 まったく、手回しが良さそうなくせして、変なところで頑固かつ非合理的な女だな。
 そして我々は、再び示し合わせたかのようにお互いの声帯活動を停止した。隣の眼鏡娘は、デジタルビデオカメラのスイッチがいかに丈夫かをまだ試したい様子だった。将来は電機メーカーにでも就職するつもりなんだろうか?
 いよいよもってすることがなくなった俺が、何気なく空を見上げてみる。
 あいかわらず、『空色』なんて表現に猜疑心を抱いてしまうくらい淀んだ色彩を放っていた。
 皮肉なもんだ。空気よりも軽い人生だった女が、空気よりも軽い雲に、またもや計画を狂わされようとしている。――誰かさんの影響だろう。そんな陳腐な感想を抱きながら、俺はずっと頭上を眺めていた。
 ……ところが。
 それから二十分後に、俺は認識を大きく改めなければいけなくなった。しかも、同時に二人の女性に対して。
 なるほど、戯言としか思えなかった吉峰の台詞も、あながち的外れではなかったのかもしれない。
 念の為に言っておくと、俺はそういった類の話を一切信じないタイプの人間だ。厄年だろうが奇妙な写真が撮れようが、わざわざお祓いに行くつもりにはさらさらなれないほどの現実主義者でもある。
 けれど、天界を支配していた灰色の舞台幕がゆっくりと袂を分かち、その隙間から本来の主が現れたこの瞬間だけは、童顔チビッ娘の霊感とやらを、ちょっとだけ信じてやってもいいような気分に陥った。
 だとすれば……どこまでも強引な女やな、まったく。
 思わず立ち上がってしまう俺の横で、
「……どうやら撮影許可が下りたようですね」
 同じように腰を浮かしていた田中育枝が、陽光を反射しまくっている眼鏡を外してみせた。
 無言で頷いた俺の胸に、デジタルビデオカメラが強く押し当てられる。
「え? 俺が撮影するんかよ?」
「当たり前です! カメラは杉田さんにしかできへんでしょうが!」
 それこそ怨霊みたいな形相で叫んだ後、「……あ、すみません。すこし口が過ぎました。やばいなぁ」
 何故か照れたように頭を掻く田中育枝であった。今さらこの程度の暴言で俺が傷ついたり怒ったりする訳がないってことくらい、彼女も充分理解しているだろうに。
「……わかったよ、俺が撮ればええんやろ」
 しぶしぶカメラを受け取る俺。察するに、代理監督とはすなわち撮影係という意味だったらしい。道理で助監督よりも権限がないはずだ。
「録画ボタンはこの赤いやつです。それ以外の機能は使わなくてもいい、というより、むしろ使わないでください。かえって後で編集しにくくなりますから。……あ、それから、撮影する角度や位置に関しては、脚本に完全に準じてください。杉田さんの意思やアイデアが介入する余地は認めません。一切ね」
 確かに、早苗が書いた脚本には、無駄に念入りかつ詳細なカメラワークまで記されてあった。ますますもって、俺は監督としてではなく雑用係その二として召集されたんじゃないかという疑念が膨らむ。
「ちなみに、スイッチの強度に関しては、あたしが念入りにチェックしておいたんで大丈夫です」
「いや、ほんまにチェックしてたんかよ!」
 馬鹿みたいなやり取りをしていると、ちょうど良いタイミングで吉峰と徳永が帰ってきた。というよりは、空が晴れたので慌てて帰ってきたというのが実情だろう。
「うっは~、ほんまに晴れたねぇ!」
 でっかいマイクをいとも簡単に背負ってきた吉峰の後を、
「ちょ、ちょっと、マイクを持たせて、よ! また、おれが、悪者に、なってまうやん!」
 丸腰で追いかけてきた徳永が、俺の顔を見るなり、爽やかな笑顔を浮かべてこう言った。「でもさ、急に、晴れるやなんて……もしかすると、月川さんの、おかげかもね!」
 なんだか心情を見透かされているような気がして、すかさず彼から目線を逸らす俺。
 そこからほんの少しだけリハーサルめいたものを行った後、我々はすぐに本撮影の準備に入った。いつまでこの天候が持つのかなんて、早苗の上機嫌がいつまで持つのかくらいわからなかったからだ
 カメラを手にした俺が、その照準を役者連中に合わせる。立ち位置は、裸眼状態になった田中育枝の真横だ。この構図だと他の二人の表情があんまり映し出せないのだけど、脚本にそう書かれてあるからには仕方がない。意見するにも、あいつは空の上にいる。
「……監督、何をしているんですか?」
 横目で俺を睨みつけてくる田中育枝。
「何って……俺はいつでも準備OKやぞ」
「だったら、号令をかけてください」
「号令?」
「監督が号令をかけなきゃ、撮影は始まらないでしょうが」
「号令ってのは……ひょっとして、ああいうやつか」
「ええ、ああいうやつです」
 つまり彼女は、口にするのも恥ずかしいあのフレーズを、俺に要求しているらしい。
 いつの間にか、周囲にはちょっとした人だかりができていた。彼らは皆一様に、物珍しそうな顔つきで我々の撮影風景を見物している。まぁ当然といえば当然の事態だったけど、まさかこの状況であのフレーズを口にしろっていうのか? 俺はここの在学生じゃないけど、それでも精神的苦痛が大きすぎるってもんだぞ。これでは雑用係どころか、完全に罰ゲーム係じゃないか。
 ……とはいえ、真剣な表情で代理監督を見つめてくる在学生五人がいる以上、俺は覚悟を決めるしかなかった。
「じゃあ、いくぞ」
 意を決した俺が、やけっぱち気味の大声で号令を発する。それはすなわち、監督としての初仕事であった。「それでは、『シーン1』……スタート!」
 
 太陽が照りつける中、たくさんの学生がたむろしている奥旅亜大学のキャンパスで、三人の男女が歩いていた。

 “太陽が照りつける”というには、まだいささか心もとない日差しだったけど、これくらいはさすがに先代の鬼監督だって許してくれるだろう。もとより、わざわざ天候待ちまでしてやった代理監督としては、一切苦情を受け付けないつもりだ。

(三人は、横一列になって歩いている。位置関係としては、右から順番に苗子(なえこ)、和太(かずた)、佳奈(かな)。カメラは常に、苗子の右側から撮影する形でよろしく。苗子の横顔をだいぶアップで撮ってほしい。一緒に歩きながらの撮影になるけど、手振れはなるべく抑えるように。なお、各人の歩き方や表情や仕草については、現場で監督が指示する予定。みんなはそれに従うこと)

 なんだか、業務連絡まで混じっているようなト書きである。これを見る限り、どうやら先代の鬼監督は、現場でかなり細かい指示を出すつもりだったようだ。もちろん、代理監督にはそんな権限なんてこれっぽっちも与えられていなかったけど。
 ちなみに、この『苗子』とか『和太』とか『佳奈』とかいうのは、映画内におけるそれぞれの役名ってことらしい。今は田中育枝が代役を務めているけど、本来月川早苗が演じるはずだったヒロインは、『苗子』。徳永和哉が演じているのが『和太』。里見華奈子が演じているのが、『佳奈』。……いちいち説明するのも恥ずかしいくらい、役者の名前をそのまま反映しているネーミングである。きっとものの数十秒で思いついたに違いない。
 あいつは昔から、どうでもいい設定や世界観にはひたすら凝るくせして、肝心の部分は意外に淡白だったりする、なんとも気まぐれなクリエイターだった。
 
苗子「今日も良い天気やなぁ!」

 勢い良く横の二人の方を振り向く苗子。
 二人も大きく頷きながら答える。
 
和太「そうやな、すがすがしい気分になるわ」
佳奈「やっぱり、太陽の光を浴びるってのは、実に気持ちがええもんやで」
苗子「それにしても、この大学って、ほんまに良いところやなぁ!」
和太「ああ、食堂のメニューは充実してるし!」
佳奈「キャンパスの設計はお洒落やし!」
苗子「なおかつ、教授や職員の方々も、全員が親切やもん!」

 ……あのぉ、『うちが撮影OKやと言えば、OKやねん』なんて強気なことを言っていたらしいわりには、いきなり露骨に撮影場所に媚を売るような台詞が入ってるんすけど、脚本家さん。
 そういえば、気まぐれなクリエイターは昔から、押さえるところはきちんと押さえておくという、意外に慎重な部分も兼ね備えている女性であった。
 
 ふと立ち止まる三人。
 
苗子「ああ、そうそう。今日はこれから何する?」
和太「そうやなぁ……あ、カラオケでも行こうか?」
佳奈「ええねぇ! 最近行ってないし!」
苗子「それよりさ、最近あんたらうまくいってるん?」
 
 唐突すぎる! ていうか、全体的に会話がぎこちなさすぎる! まるで中学一年生の英語教科書みたいに不自然な台詞運びだ。……もっとも、それは最終シーンを見た時から抱いていた感想でもあるけど。
 余談になるが、三人の演技は素人目から見てもなかなかのものだった。予想外だったのは、普段はあんなにたどたどしい口調の徳永が、いざ撮影が始まると実に流暢に喋れているという点であった。もしかすると、本番にめちゃくちゃ強いタイプなのかもしれない。
 さらに里見からも、のびのびと演じているような印象を受ける。少なくとも、緊張している様子はまったく窺えない。まぁ、こいつは普段から演技をこなしているような女だろうから、当たり前といえば当たり前なんだろうけども。
 いずれにしても、あの早苗が自分の映画の役者として認めたんだから、二人とも演技に関して何らかのアドバンテージは存在するのだろう。そういうところも抜け目のないクリエイターだったからな。
 ……そして、田中育枝である。
 この眼鏡娘がかなり緊張しているってことは、ファインダー越しにでもはっきりと伝わってきた。他の二人に比べて、台詞のトーンも明らかに抑揚に欠けている。早い話が棒読み気味だ。
 まぁ、無理もない。元々彼女は、演者になるつもりなどまったくなかったはずである。そういう意味では、ヒロインの代役を名乗り出た彼女自身が、現状に一番戸惑っているのかもしれない。
 それでも、田中育枝は、忠実に再現しようと頑張っていた。
 ――月川早苗の、自信たっぷりで、一方では強がっているかのようでもある、語り口と仕草を。
 
佳奈「え、わたしら? ……まぁ、一応うまくはいってるで」

 ちょっと照れたように頭を掻く佳奈。
 
和太「そういう苗子ちゃんはどうなん? うまくいってるんけ?」

 意地悪そうな笑みを浮かべながら尋ねる和太。
 
苗子「うまくいくも何も、うちには恋人自体がおらんもん……」

 複雑そうな顔で俯く苗子。
 
 どうやら、和太と佳奈は付き合っているという設定のようだ。つまり、一組のカップルと苗子の三人で歩いているという構図らしい。なんとも寂しいヒロインである。
 
佳奈「でも、苗子に彼氏がおれへんってのも、おかしな話やなぁ!」
和太「そうそう、こんなに美人やし!」
佳奈「勉強もできるし、料理も洗濯も掃除も完璧にできるし!」
和太「性格も真面目で優しいしなぁ! ほんまに理想の女性やで、苗子ちゃんは!」

 痛い! 痛すぎる! 
 この脚本を自分の部屋で一人で書いている早苗の姿を想像すると、ムカつくどころか切なくすらなってしまうな。

 そして和太が、カメラの方を向いて問い掛ける。

和太「こんな女性と付き合えたら、さぞかし幸せやろうなぁ。……そう思わへん?」

 いやいや、観客に問い掛けるなや。こっちまで恥ずかしくなってまうやんけ。
 ……とはいえ、ここで責められるべきはけっして徳永ではない。彼は脚本のト書きに則った演技をしているだけなのだ。ややぎこちない笑顔から察するに、きっと徳永だって内心は俺と同じ思いなんだろう。

苗子「……もうその話題はええやん!」

 苗子が和太と佳奈の前に移動する。

佳奈「ていうか、和太は苗子のことをちょっと褒めすぎちゃう? 自分の彼女の前でさぁ!」
和太「そ、そんなことないで! 佳奈かって、めっちゃ優しくて綺麗やで!」
佳奈「ほんまにぃ?」

 両手を絡ませ、イチャイチャし始める和太と佳奈。
 その様子を見て、苛立ったような表情になった苗子が、大声をあげる。
 
苗子「早く、カラオケに行こう! な! 今すぐにさ!」

 和太と佳奈の両手を引っ張り、再び歩き出そうとする苗子であった。

 ……これで、『シーン1』は終了だった。少なくとも、脚本上ではそこで文字が途切れていた。
 編集時に困らないようにと、俺が長めにカメラを回し続けていると、
「……監督、何をしているんですか?」
 徳永と里見の手首を握ったまま固まっている田中育枝が、さっきと同じように横目で睨みつけてきた。
「え? いや、撮影してるんやけど……」
「監督の号令がないと、あたし達も演技を止めれないでしょうが」
 おいおい、またかよ。
「はいはい……カット、カット!」
 うんざりしながらお決まりの文句を口にする俺。その途端、役者三人は糸が切れた操り人形みたいに肩を落とした。同時に緊張の糸だって切れてしまったのだろう。弛緩しきった空気が周囲に漂う。
 わざわざスケジュールを合わせて、なおかつ天候待ちまでしたわりには、拍子抜けするくらい簡単に撮影は終わってしまった。実際のところは、何回かNGが出て撮り直したりもしたのだけど、それでもほんの十五分程度の撮影だった。まぁ、大学のキャンパスでグダグダと短い会話をするっていうだけのシーンなんだから、当然っちゃあ当然の結果だろうけど。   
 なんにしても、たった七シーンしかない映画のわりには、一シーンが短すぎるような気がする。このままでは、十分にも満たない映画になってしまうんじゃないか?
 それから俺達四人は、デジタルビデオカメラを噴水前のベンチに置いて、撮影したばかりの映像を確認してみることにした。何故五人ではないのかというと、残り一人、つまり吉峰は少し離れた場所で自分が撮った音声を確認していたからである。やっぱり、根は生真面目な女の子のようだ。
「……まぁ、だいたい脚本通りに撮影できていると言えるでしょう」
 映像を見終わり、少しだけ沈黙が場を支配した後、田中育枝はポツリとそう呟いた。「お疲れさまです、皆さん。本日の撮影は、無事終了しました」
 自然と、周囲の野次馬から拍手が巻き起こる。そんなに大した撮影でもなかったのにな。
「杉田さんも、お疲れさまでした」
 スタッフ同士でねぎらっている中、助監督が今度は俺の顔をじっと見つめながら話し掛けてきた。そういえば、いつの間にかまた眼鏡をつけている。仕事の早い女だ。
「いや、お疲れさまなんは君らの方やろ。俺はただ、脚本に従ってカメラを回してただけやで」
「ああ、そうでしたね。じゃあさっきの発言は撤回します」
「ほんまに撤回するんかよ……」
「それでは、次のシーンの脚本を配ります。皆さん、あたしの近くに集まってください」
 眼鏡娘が手際良く自分の鞄から数冊のファイルを取り出し始めた。今回は青いファイルである。どうやらシーンによって色を変えているらしい。ご苦労なこった。
「……うん? 次はカラオケのシーンやないんか?」
 しぶしぶ受け取った脚本に軽く目を通した俺が、素朴な疑問を口にする。会話の流れからいって、てっきり『シーン2』はカラオケで歌う場面だと思っていたのだけど。
「恐らく、そんなシーンは必要がないのでカットしたんでしょう」
「いやいや、そんなこと言ったら、この『シーン1』かって必要ないんとちゃうの?」
「あたしに質問するのはお門違いってもんですよ」
 勝ち誇ったような表情を浮かべながら、田中育枝はこう付け加えた。「その辺については、脚本を書いた本人にでも訊いてください」
「本人、ねぇ……」
 俺は思わず天を仰いだ。
 ……厳密に言えば、空を睨みつけてやった。

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