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【デビュー20周年と100戦目】KEI山宮インタビュー――パンクラシストの憧れと死を見つめて

2016/05/01 00:00 投稿

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元ライトヘビー級キング・オブ・パンクラシストKEI山宮インタビュー。今年でデビュー20周年を迎える山宮は、これまで掌底ルール、頭突き・肘ありのバーリトゥード、スポーツMMA、K−1、そしてUWFと、ありとあらゆるスタイルを経験。昨年にはプロとして通算100試合目のリングに立っている。狂気の90年代から格闘技界を生き抜いてきた山宮の傍らには、死の恐怖があったという……。






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――山宮さんってかなり長いこと現役やってますよね。

山宮 ええと、今年の7月で20年目なんですよね。ボクも数えてなかったんですけど、他人に言われて(笑)。

――山宮さん本人は気がついていなかった(笑)。

山宮 そうなんです(笑)。ボクがデビューしたのは96年7月なんですけど。

――大きな節目なのに意識されてなかったんですね。

山宮 あんまりしてないですね。15周年のときも他の人から指摘されたんです。意識したほうがいいんですかね?(笑)。

――そりゃそうですよ、そこまで続ける選手は少ないですから(笑)。デビューしたとき20年も格闘技界に関わることを想像されてました?

山宮 いやあ、まったく思ってなかったですよ。自分は大学卒業して半年くらい経ってからパンクラスに入ったんですけど。国士舘大学のレスリング部だったので、普通だったら体育の先生になったり、警視庁や消防署に就職する人が多いんですよ。ただ、自分は子供の頃からプロレスファンだったので、一生のうちに1回はリングに立ってみたい思いがあったんですよね。

――あこがれの世界だったんですね。

山宮 ただ、夢と同時に恐怖もあったんです。その当時、大学は違うんですけど、レスリングをやってた同級生が新日本プロレスに入ったんです。でも、練習中の事故で亡くなっていて……。

――それは権瓶広光さんの事故ですね。

山宮 そうです。直接面識はないんですけど、彼は専修大学出身で、学生チャンピオンとして有名だったんです。いずれ新日本で活躍するんじゃないかってときに事故に遭ったと聞いて、「何かあると死んでしまう世界なんだ」って。それでも一度はリングに上がってみたい気持ちは高まっていて。

――当時はどこかしらの団体に入門しないと、デビューできない時代でしたね。

山宮 そうなんですよ。あの時代は格闘技をやろうとしたら、相撲、ボクシング、プロレスしかなかったですから。シューティング(修斗)がありましたけど、プロレスファンだったんで軽量級にまったく興味がなかったんですよ。いまでいうスポーツMMA、競技には興味がなくて、異種格闘技戦やUWFが大好きだったので。

――いわゆる“プロ格”ですね。

山宮 ホントは高校卒業してからすぐにやりたかったんですけど、身体は小さかったですし、高校のときに始めたレスリングが楽しくなってきてるところに国士舘大学からお話があって。

――高校時代からレスリングを始めたんですね。

山宮 高校に入学したときは、ホントは器械体操部に入ろうとしたんですよ。タイガーマスクに憧れてたんで、バク転ができないとマズいと思ってて(笑)。

――三沢(光晴)さんも中学時代は器械体操部でしたね(笑)。

山宮 ボクが入学した年にレスリング部ができたので、すぐに入部して。3年間やっていたら国士舘の一般推薦なら……という話が来たんです。だったら、もうちょっと技術を身につけようってことで進学したんですけどね。

――国士舘の運動部ってハードなイメージがありますけど。

山宮 当時はヤバかったですねぇ。

――「当時は」ですか?(笑)。

山宮 ヤバかった国士舘の最後の世代といいますか。レスリング部の部員は70〜80人いて、1年生から4年生までの全員が寮に住んでいたんですよ。

――凄い空間!(笑)。

山宮 6階建ての寮なんですけど、レスリング部は4階なんです。国士舘高校柔道部が1階、2階から空手、柔道、レスリング、一番上がラクビーで。ラクビー部は100人以上いて寮に収まりきれないので、近くのクラブハウスにも住んでいて。

――ちょっと近寄りたくない地域ですね(笑)。

山宮 体育会系でよくいうところの奴隷の1年、平民の2年、天皇の3年、神様の4年という世界なんですけど。いろんなしきたりがあって、それを破ると先輩に殴られます。「焼き」ってのがあって、一人が悪さすると、連帯責任で全員屋上で正座。足が痺れたところに先輩がやってきて殴る蹴る。でも、自分のひとつ上の代のときに問題が起きたらしくて、連帯責任の「大焼き」ってのは廃止されて、個人責任の「焼き」だけが残ったんですよ(笑)。

――個人焼きは続行ですか(笑)。

山宮 それから自分らが2年生のときに体育学部が移転したんですよね。体育学部がそっくりそのまま世田谷から多摩に移ったんですけど、そこからいままでの伝統やしきたりが崩れたです。厳しい世界には変わりはなかったんですけど。

――大学在学中もプロレスラーのあこがれはあったんですか?

山宮 それはずっと消えていなかったんですけど、教員免許を取らなきゃいけない現実もあったので。プロレス団体に入門してイチからやるというのが凄く遠い世界に見えてきたんです。

――結果的にモラトリアム期になったわけですね。

山宮 あとアマチュア・レスリングとプロレスは別物だという意識が植え付けられてきて。ボクはプロレスファンの延長でレスリングを始めたんで、得意技をジャーマンにしようと思ったんですけど、実際にジャーマンをやることが難しいことがわかってきたんですよね。それでもプロレス好きには変わりはなかったんですけど、自分ができるような簡単なものではないかなって。そんな大学3年生のときにパンクラスが旗揚げしてたんですけど。ありきたりの反応ですけど「これはリアルファイトだ」って思ったんですね。

――従来のプロレスではない、と。

山宮 これはレスリングに近いし、タックルってあるじゃないですか。当時プロレスでタックルというと、ショルダータックルを思い浮かべる人が多かったんですね。でも、パンクラスは、タックルに入ってテイクダウンするってことを普通に言葉として使ってたんですよ。これはいままでのプロレスとは違うなとわかって、自分もやりたくなったんです。やるんだったらパンクラスだろうなって。

――でも、当時のパンクラスは、いまのように誰でも競技としてチャレンジできる環境ではなかったですよね。

山宮 はい。かなり現実的じゃなかったですね。大学卒業して仕事をしながらもずっと焦っていて、10月くらいに『週プロ』を立ち読みしたらパンクラスが新弟子を募集してるのを知って。その日のうちに履歴書を送って、それで入門テストを受けることになったんですけど。いざ受けるとなると恐怖心が出てきたんですね。それこそ「死ぬかもしれない……」と。

――権瓶さんの事故が脳裏をよぎったわけですね。

山宮 自分で応募したにも関わらず、急に怖くなっちゃって……。入門テストを受けた人間は30人くらいいましたね。結局、自分だけが受かったんですけど。

――30人中1人だけ! 

山宮 怖かったんですけど、準備だけはしてたんですよ、ずっと。テストの内容は、手押し車、肩車、リングで渋谷修身さん相手にひたすらタックルを繰り返したり、キックミットをやったり。ふるいにかけるメニューですよね。できるできないじゃなくて、やる気があるかないかを見たと思うんですよね。

――ひとりだけ合格って凄いですね。

山宮 自分も受かると思ってたんですよ。でも、これは数年後にわかったんですけど、雑誌で船木さんが当時の若手を語る企画があったんです。近藤(有己)さん、渋谷さん、國奥(麒樹真)さん、伊藤(崇文)さん、自分のそれぞれの入門当初の印象を語ってるんですけど。自分の場合はギリギリだったけど、「仕方なく取った」と言ってたんです。当時雑用をやる新弟子をひとりだけ取ろうと思ってたと(笑)。

――「プロレス道場あるある」ですね(笑)。

山宮 ブッチギリで受かったと思ったのでショックでしたねぇ。受かったあとも恐怖にかられてて「いつ来れる?」と聞かれたので「仕事をやめたり準備が必要なので2週間後です」って答えたんですけど、その2週間はずっと怖かったですね……。

――やめたほうがいいんじゃないか、と。

山宮 当時パンクラスの事務所は用賀にありまして、そこで面接を受けたんですよ。これからのこと、寮のしきたりを教えていただいて、最後に「これはあなたの力試しではありません。この業界への就職だと思ってください」と言われたあとに、スーッと書類が出てきて。そこには「もし事故で死亡しても責任は取れません」と書かれてたんです……。拇印を押したんですけどね。

――押すことにためらいはありませんでした?

山宮 いやあ、考えましたねぇ……。いま自分は、取り返しのつかないことをやろうとしてるんじゃないか……って。面接終了後、その事務所の隣にあったパンクラス御用達の床屋で丸坊主にして、バスと電車を乗りついで横浜のパンクラス道場に行ったんです。

――入門したのは東京と横浜に道場が分かれる前ですね。

山宮 旧パンクラス道場は都筑区にあって、いまは栄えてるんですけど、昔は何もないところで。その山奥に自動車さん屋があったんですけど、その敷地内にプレハブの道場と、練習生が寝泊まりする用に、工事現場でよく使うスーパーハウスが置いてあって。

――物置みたいやつですね。

山宮 練習生はそこで生活するんですよ。自分と合わせて6名いましたね。

――その中からデビューしたのは誰ですか?

山宮 自分と渡辺大介さん、亡くなったんですけど長谷川悟史選手ですね。自分が入門したときにその寮を出たのが近藤さん。当時まだデビューしてなかったんですけど、藤原組時代からいた國奥さんは合宿所に住んでいて。道場近くにあるマンションなんですけど。

――スーパーハウスとは別に合宿所があるんですね。

山宮 そのマンションには柳澤(龍志)さん、稲垣(克臣)さん、伊藤(崇文)さん、渋谷(修身)さん、国奥さん。さらに上の先輩は、それぞれ自分の部屋で生活してて。

――一番最下層の練習生はどんな生活だったんですか?

山宮 ボクらは朝8時起床なんですよ。まず道場の掃除をして、そこから朝食なんですが、船木さんが新弟子の食事メニューを決めていて。何時にこれ、何時にあれを食べろって。

――船木さんがハイブリッドボディの食事方法に凝っていた時代ですね。

山宮 10時から基礎体があるんです。毎日練習メニューは違うんですけど、スクワットとかの有酸素運動をやって。11時過ぎくらいから先輩たちがポツポツと道場に集まり始めて、12時から合同練習がスタートするんですよ。これは自分の勝手な思い込みだったんですけど、スターやトップ選手はそんなに練習はしない、道場ではなかなか顔を合わせることはないと思ってたんですね。でも、当時は船木さんや鈴木さんも若かったですし、毎日スパーリングをバンバンやるんですよね。だから若手もなまけるわけにはいかない感じで。で、14時15時に合同練習が終わって、食事を済ませたら、船木さんたちはウエイトトレーニングを始めるので、そのサポートをしたり、あとは技練をやったり。

――けっこう長めですね。

山宮 船木さんは近藤さんや渋谷さんをつかまえて“船木遺伝子”を植え付けてましたね。逆に鈴木さんは全員を集めてみんなで回していくという体育会系のスタイル。なんだかんだで先輩たちが帰り始めるのが16時くらいですね。

――朝から晩まで格闘技漬けですね。

山宮 環境は整ってましたね。もちろん厳しかったし、何かやると怒られたり、殴られたりもしたんですけど。食事も練習もできるし、月々お小遣いももらえましたし。

――パンクラスのスパーリングはどういうものだったんですか?

山宮 スパーリングは5分何十ラウンド、3分の何十ラウンドを繰り返すんです。いわゆるキャッチレスリングですね。スタンドから始まって、テイクダウンの攻防があって、そこから寝技の攻防、極めっこですね。ポジションは当時グレイシー柔術が出てきていたので、自分たちで試行錯誤しながらやる感じでした。船木さんがマチャド柔術に練習に行ってましたし、「こういう技術があるぞ」って教えてもらったり。鈴木さんはレスリングスタイルなので「絶対に上になれ」って感じでしたけど。

――船木さんと鈴木さんでは寝技の考え方は違ってたんですね。

山宮 かもしれないですね。当時から船木さんと鈴木さんは絶対にスパーリングはしませんでしたし。

――あ、それは面白い(笑)。

山宮 フフフフフフ。鈴木さんと船木さんがスパーをしないだけで、ほかの選手とはスパーしてましたけど。なんとなくグループ分けはされてましたよね。船木さんには渋谷さん、國奥さん。鈴木さんには稲垣さん、伊藤さんって感じで。

――山宮さんはどっちのグループだったんですか?

山宮 自分は神奈川の高校でレスリングやってましたから、横浜高校のレスリング部だった鈴木さんには親近感があって。プロに入るときは鈴木さんがいるところって考えがあったんですね。あと高橋さんが日大のレスリング部で凄く強くて有名でしたし、レスリングは身近で。逆に船木さんは凄く遠いというか、きらびやかな存在だったので。でも、練習生なんで「どっち?」という感じではなかったですね。

――打撃はどういう練習をしてたんですか?

山宮 当時、鈴木さんや船木さんは前田憲作さんのところに行ったり、上の選手が外で習ってきたことをパンクラスに持ち寄る感じなんですけど。1日おきに組技の日、打撃の日って分かれてて。打撃も3分何十ラウンドをみんなで回していく感じですよね。

――それはヘッドギアをつけてやるんですか?

山宮 いや、ヘッドギアはなしでしたね。

――ヘッドギアなし!

山宮 レガース、グローブ、マウスピース、ファールカップくらいで。

――実戦形式なんですね。

山宮 そうですね。たまにダウンして失神しちゃう選手もいましたけど、実力差があるので先輩方もボコボコにするわけじゃないんですよ。ケガをさせたり、ダメージを与えようって感じじゃなかったです。自分なんかレスリングしか経験がなかったので、打撃はゼロからのスタートだったんですけど。

――いきなり実戦形式の練習に放り込まれるわけですね。

山宮 打撃の練習は怖かったですね。ガードの仕方はわからないですし、いちおう「構えはこうだ」って教わるんですけど、打撃って普通は右利きの人は左足が前なんですよね。でも、レスリングは右利きだと右足が前なんです。だから高橋さんに「おまえはサウスポーで打撃をおぼえろ」って。利き腕でもできないのに大変でしたね(笑)。

――それでサウスポーになったんですね(笑)。

山宮 打撃の日は本当に怖かったです。新弟子は毎日神棚にお祈りしてから練習するんですけど「死にませんように!」って手を合わせてましたねぇ。

――まだ総合格闘技というものが、やってるほうもよくわかってなかった時代だったということもありますね。その後、道場が横浜と東京のふたつに分かれますね。

山宮 それは自分がプロデビューしてからですね。入門して10ヵ月でデビューできたんですけど。

――10ヵ月でデビューって早くないですか?

山宮 当時からすると早かったです。ある程度体格があったからだと思うんですけど。いざデビューが決まっても「どうやって試合をすればいいんだろう?」「どうやって勝つんだ?」って混乱しましたね。相手の長谷川選手も同じデビュー戦だったんですけど。パンクラスでは長谷川選手のほうが先輩なんです。年齢ではボクが上で。

――Uインターで言うと、大卒で入門した高山善廣選手も年下の先輩ばかりで複雑な立場だったようですね。

山宮 長谷川選手は勝ち気な選手で、年上の後輩に目に物を見せてやるって空気があったんですよ。絶対に自分のことをよくは思ってなかったんですよね。自分のほうが体格もあったし、レスリングをやってた関係で高橋さんのスパーリングパートナーとして呼ばれる機会もあったので。

――ライバル意識があったんですね。

山宮 そのライバル意識は彼が亡くなるまで消えることはなく……。表向きは打ち解けてますし、お互いに頑張ってることは認めていたんですけどね。

――道場がひとつだった時代は、試合するかもしれない選手と練習をしていたわけですよね。

山宮 試合が決まったら対戦相手とは練習しないんですけど。ただ同じ空間で練習はするし、何が得意かはわかってる。いまの選手はピンと来ないかもしれないですけど、それが普通の環境だったので。

――デビュー戦の内容はおぼえていますか?

山宮 おぼえてます。とにかくレスリングしかないと思っていたので、押さこむしかないって。こっちは体格も大きしいし、年上なので負けたらカッコ悪いって気持ちでやりました。長谷川選手は掌底をバンバン打ってきましたね。

――当時のパンクラスは素手で掌底ルールでしたね。掌底の練習はしてたんですか?

山宮 いや、練習はボクシンググローブです。

――練習はボクシンググローブで、試合が掌底ってやりづらくなかったですか?

山宮 当時はなんの疑いもなかったです。そういうもんだと思ってたので。

――掌底の練習はしてなかったんですか?

山宮 してないですね。いま思えば、掌底って本当に危ないんですよね。当時は張り手の延長で打ってたんですけど、打撃がちゃんとできるようになると、手のひらの硬さを活かした破壊力のある掌底が打てるんです。ハードヒットやUスピリットで掌底の試合をやると、その恐ろしさがわかりますよ。グローブよりも危険ですね。

――菊野選手がUスピリットのときに掌底一発でKOしたことがありますね。

山宮 これはボクのイメージなんですけど、掌底はガキンガキンって金属で殴られてる感覚があるんですよねぇ。

――当時ならではの話で言うと、毎月のように試合がありましたよね。

山宮 プロレスラーになりたくて入ってデビューしたんで、毎月毎月日本全国を回って試合をやってたことは充実感がありましたよね。きつかったし、痛かったし、ケガをしても試合をしなきゃいけなかったんですけど。去年100試合目の試合をできたのは、あの時代にデビューしたからですよね。

――いまのMMAだと年間4試合でもハイスペースですけど、100試合だと25年はかかりますね(笑)。

山宮 いまだとちょっと難しいでしょうね(笑)。パンクラスは月1試合が基本なんですけど、月によってはトーナメントで2試合やるときもあって、1年間で14試合やったこともありましたね。

――だから100試合できる(笑)。

山宮 当時は若手だったので「ケガで無理です」とは言えないんですよ。デビューした年の11月にチャレンジマッチということで高橋さんと試合を組まれたんですけど。先輩が後輩に教えてあげるみたいな試合になるかと思ったら、掌底でボコボコにやられたんですよね(笑)。

――デビュー半年なのに(笑)。

山宮 そのとき鼻が折れて、イタリア人みたいに腫れあがったんですよ(笑)。でも、翌月の12月中旬の試合を休むとは言えなかったんで、スーパーセーフをつけて練習してましたね、鼻を打たないように。

――そこまでして練習、そして試合!(笑)。

山宮 そういう時代だったんですねぇ(しみじみと)。1日も早く若手の同列の中から抜けださなきゃいけないと思っていたし、そのためには勝ったり、いいパフォーマンスをしていかないと、翌年の条件もよくならなかったですから。とにかく必死でしたね。

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